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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 133

2013年10月06日 | 日記

 

 福音の道しるべ  133

先へ進む前に論じるべき質問が、もう一つある。神はなぜ、罪が地球に侵入してからイエスをお送りになるまで、何千年も待たれたのか?人の救いには、罪の赦し以上のものが含まれる。そうでなければ、神は最初から人をお赦しになったはずである。赦された罪人は、自分はきよい生活を送ることができることを悟り、そのための力をどうやって受けるかを理解しなければならない。人はすべての誘惑に勝利し、敬虔な生き方ができることを、神は証明なさった。歴史上もっとも暗黒が深かった時代、すなわちローマ帝国の時代に、堕落した人間の性質を、遺伝的弱さもろとも身に受けて、イエスはこの地球に来られた。にもかかわらず、彼は聖霊に満たされた生涯を全うし、ただの一度も悪魔の攻撃に屈することはなかった。神の力を通して、彼は、罪の言い訳の余地を残すことなく、模範的な生涯を送られた。そのおかげで、私たちも、このような生き方が可能となったのである。

イエスはその完全な生涯により、全宇宙の前でサタンの告発を退け、神の大義を擁護なさった。そうであるにもかかわらず、神はなぜ、さらに二千年も先延ばしにしておられるのだろう。」

   新生への道 7 弟子としてのテスト  ⑦

キリストを信じれば神に服従する義務はないのというのは、信仰ではなくて厚かましい憶測です。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである」(エペソ2:8)と言われています。けれども「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)とも記されています。また、イエスご自身も、この地上に来られる前に、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:9)と言われ、再び天にお帰りになる直前には、「わたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのとおなじである」(ヨハネ15:10)と言われました。聖書は、「わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。…『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:3,6)、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Ⅰペテロ2:21)と語っています。

 永遠の命を受ける条件は、私たちの祖先が罪に陥る前、すなわちパラダイスにいたときと全く同じであって、それは神のおきてに完全に服従すること、つまり完全に義であることです。もし、永遠の命がこの条件以下で与えられるものであるとすれば、全宇宙の幸福は危険にさらされ、罪の道が開いてあらゆる災いと悲惨とが永久に絶えないことでしょう。


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