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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 132

2013年10月05日 | 日記

  


  福音の道しるべ  132

 アダムとエバが罪を犯したとき、神は、単純に彼らを赦すことができなかったのだろうか?それは、できない話であった。それでは、神の律法を守るのは大して重要ではないことを、全宇宙に示すことになったからである。罪は、おぞましいものと見なされなければならない。それゆえに、罪人は例外なく、自らの罪の結果を刈り取らなければならない。

 それから、「天使は救い主となり得なかったのか?」という質問もたまに聞かれる。罪を犯した者のために、罪を犯したことのない者が死んでも、その罪を贖うことは不可能であったのだろうか?罪の刑罰を身に負って、その価を支払い、贖罪をなし得たのは、その破られた律法を制定した神だけであった。仮に天使が、罪人の身代わりに刑罰を受けたとしても、律法は天使のレベルまでしか適用されないことを証明したに過ぎなかったであろう。しかし、神ご自身も律法の下にあるのである。また神は、人に対するご自分の愛の高さを示したいと望まれた。さらに御自ら、罪がどれほど醜いものであるかを明らかにしたいと思われた。それゆえに神ご自身が、人と共に住むためにへりくだられたのである。そして最後には、どのような環境でも、しみのない純潔と完全な勝利を維持できることを示したいと望まれたのである。つまるところ、神の愛は天使の愛にまさっているのである。

 この大争闘を切り抜けるために、神にはある二つのものが必要であった。まず、サタンの欺瞞を暴くための時間。そして、だれもが律法を守り得ることを証明することで、神の律法とご品性を擁護する証人。これら二つのために、神は地球の歴史が延びるのをお許しになったのである。

 

  新生への道 7弟子としてのテスト ⑥ 

  愛の原則が心に植えつけられ、私たちの心が創造主である神のご品性に似たものとして新しくされるとき、はじめて「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」(へブル10:16)という新しい契約が成就されるのです。このようにおきてが心に記されるとき、それはその人の生活を左右するのではないでしょうか。服従、すなわち愛より出た奉仕と忠誠は、弟子であることの真のしるしです。聖書にも「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」(Ⅰヨハネ5:3)。「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(Ⅰヨハネ2:4)と記されています。人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰―ただ信仰だけが私たちをキリストの恵みにあずからせ、服従できるようにするのです。

 私たちは服従によって救いを買うのではありません。救いは神から与えられる無料の賜物であって、信仰によって受けるのです。服従は信仰の実なのです。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におるものは罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である」(1ヨハネ3:5,6)。これが本当のテストです。もし私たちが、キリストにあり、神の愛が私たちの心に内住するならば、私たちの感情も、思想も、行動も、神の清いおきてにあらわされた神のみ心に調和するようになります。「子たちよ、だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である」(Ⅰヨハネ3:7)。義とは、シナイ山で与えられた十戒に現された神の聖なる律法の標準によって定められるものです。

   

 


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