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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 125

2014年03月06日 | 日記

  


  福音の力を体験せよ 125

“人間の努力だけでは不十分である。神の力に助けられなければ、全く効果がない。神が働かれ、また、人も働くのである。誘惑に抵抗するのは人の仕事であり、そのための力を神からいただくのである。”(AA482)

ここでも、協力関係が描かれています。神様が働かれる領域があり、私たちのなすべき分があります。毎日毎日、一瞬一瞬、神さまがみ業をなし得るように、私たちも働かなくてはいけません。神様から力を受けて、誘惑に抵抗しなければなりません。

それゆえに、聖書はまず、「自らを神に屈服させなさい」と述べています。そして次に、「悪魔に抵抗しなさい」と勧告しています。まず神様に屈服するのを忘れて、自分の力で戦いに挑んで奮闘するなら、それは悪魔の方法を取ることになります。もし忍耐できないならば、煩わしさに直面して悩むことになり、誤った感情を抱くようになります。

 

   十字架の誤解 ⑪

ある人たちは、十字架で戒めは廃され、十字架を信じるなら、人は十戒を守る必要は無くなったと主張します。もし神様が、十字架で戒めを廃されたとするなら、イエス様の十字架は何だったのでしょうか。人間の裁判でも、もし誰かが身代わりになったとして、その人が刑罰を受けたら、法律は必要なくなるでしょうか。刑罰は、法律が正当なものであり、法律に従って生きなければ罰が待っていることが教えられ、法が高められるのです。

十字架の死は、人類の罪の身代わりの死であり、それによって、戒めの要求は満たされ、罪の刑罰は終わりました。しかし、そのことで戒めが不要になったのではありません。十字架は戒めを廃したのではなく、むしろ、戒めを高め、戒めが永遠に存続するものであり、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)ことを証明したのです。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)。


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