第一段階で、私たちは堕落した本性を持っています。
同様に、イエス様も私たちと同じ、罪の本性を持った肉体で来られました。そのことを前回調べました。ところが、原罪論は罪の本性を持つこと自体を罪と考えます。
第二段階は、誘惑を感じることです。 試験を受けます。あることに魅力を感じます。人間性は当然それに惹かれます。イエス様もそのような欲望と性質がありました。原罪論では、誘惑を受けること自体が罪だと言います。
罪はどこから成立するでしょうか?
三番目の段階からです。 私たちが誘惑を心に抱く時からです。
そして欲がふくれ上がることになります。
次の四番目の段階ではそれが行為となります。
その結果、滅亡の第二の死を受けることになります。
罪は第三段階の誘惑を受け入れた時から、成立します。
イエス様は罪の本性を持って、誘惑を受けられました。
しかし、イエス様は罪の考えを一つも持たず、一つの罪も犯されませんでした。
ところが、原罪論は私たちの存在自体が罪だと言います。
パリサイ人たちの前で、イエス様は「だれがわたしに罪があると責めうるのか」(ヨハネ8:46)と言われました。私たちと同じ本性を持っておられたのに、その方に罪がない理由は 「私とお前とは人性が違う」からではなく、文字通りイエス様は罪を犯されなかったと言うことです。
多くのクリスチャンは、最初の段階を罪だと思います。しかし、聖書で、罪は三番目の段階からだと言います。罪をどう考えるかによって二つの異なった福音ができます。