原罪論の定義では、私たちは息をしていること自体が罪であり、私たちの本性が罪です。私たちは罪の本性をもって生まれてくる罪人であり、生きている限り罪人なので、ただ罪を犯す以外できない存在になります。そのため、この福音では私たちは絶えず赦される以外にない者となります。生まれた時から再臨の時まで、いつも赦されて生きなければなりません。たとえ私たちが獣の印を拒絶して、苦難を受けて殉教したとしても、人殺しをした人と同じように、人間の本性的な罪のために罪人と宣告されるのです。 これがまさに現代キリスト教の福音です。
皆さん何が問題なのか分かりますか? なぜ皆さんの生涯がそんなに軟弱で、信仰生活に喜びがないのか、理由を発見しましたか? 罪が何かを正しく理解した瞬間、私たちは黙示録にある「勝利を得る者」が、どのような生き方なのか体験することになります。
それでもいくつか疑問が起きるかもしれません。
次のような聖書の言葉が理解できないかもしれません。
質問1>「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)とあるのではないでしょうか?
義人がいない理由は、すべての人が罪を犯したからです。すぐ後のローマ人への手紙3章23節を見ると「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」とあります。ここでもし私たちが、アダムから受け継いだ罪のために罪人になるのなら「すべての人は、アダムの罪を受け継いで罪人になる」と記録されるべきです。
ここで「犯した」というのは、人の意志と直接関係する言葉です。つまり罪が選択の結果であることを伝えています。
これと似た言葉が、ローマ人への手紙5章12節です。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」。"KJV:Wherefore、as by one man sin entered into the world、and death by sin;and so death passed upon all men、FOR THAT ALL HAVE SINNED. (NIV:because all sinned)。
ギリシャ語の“έφω(エフォ)”の用法で「その(アダムの)中で(in whom)、皆が罪を犯した(アダムから罪を受け継いだ)」と「原罪論」を展開する理論があります。しかし“έφω”は「皆が罪を犯したために」と理解するのが聖書的です。
言い換えれば、「アダムが罪を犯したために」私が罪人として生まれるのではなく、「私が罪を犯したために」罪人になることを語っています。