SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪から逃れる道 ソン・ケムン 第18回

2017年12月25日 | 日記

原罪論の定義では、私たちは息をしていること自体が罪であり、私たちの本性が罪です。私たちは罪の本性をもって生まれてくる罪人であり、生きている限り罪人なので、ただ罪を犯す以外できない存在になります。そのため、この福音では私たちは絶えず赦される以外にない者となります。生まれた時から再臨の時まで、いつも赦されて生きなければなりません。たとえ私たちが獣の印を拒絶して、苦難を受けて殉教したとしても、人殺しをした人と同じように、人間の本性的な罪のために罪人と宣告されるのです。 これがまさに現代キリスト教の福音です。

皆さん何が問題なのか分かりますか? なぜ皆さんの生涯がそんなに軟弱で、信仰生活に喜びがないのか、理由を発見しましたか? 罪が何かを正しく理解した瞬間、私たちは黙示録にある「勝利を得る者」が、どのような生き方なのか体験することになります。

 

それでもいくつか疑問が起きるかもしれません。

次のような聖書の言葉が理解できないかもしれません。

 質問1>「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)とあるのではないでしょうか?

 義人がいない理由は、すべての人が罪を犯したからです。すぐ後のローマ人への手紙3章23節を見ると「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」とあります。ここでもし私たちが、アダムから受け継いだ罪のために罪人になるのなら「すべての人は、アダムの罪を受け継いで罪人になる」と記録されるべきです。

ここで「犯した」というのは、人の意志と直接関係する言葉です。つまり罪が選択の結果であることを伝えています。

これと似た言葉が、ローマ人への手紙5章12節です。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」。"KJV:Wherefore、as by one man sin entered into the world、and death by sin;and so death passed upon all men、FOR THAT ALL HAVE SINNED.  (NIV:because all sinned)。

ギリシャ語の“έφω(エフォ)”の用法で「その(アダムの)中で(in whom)、皆が罪を犯した(アダムから罪を受け継いだ)」と「原罪論」を展開する理論があります。しかし“έφω”は「皆が罪を犯したために」と理解するのが聖書的です。

言い換えれば、「アダムが罪を犯したために」私が罪人として生まれるのではなく、「私が罪を犯したために」罪人になることを語っています。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。