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アブラハムは、息子を殺すふりをしたわけではない。信仰の手によって、もう少しで息子の体に刃物を突き刺すところであった。が、ちょうどその時、彼は神の声を聞いた。「アブラハムよ、アブラハムよ、・・・わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを、わたしは今知った」(創世記22:11-12)。
父と息子が涙を流して抱き合っていると、羊の鳴き声が聞こえてきた。見回すと、角をやぶに掛けている雄羊がいた。親子はその雄羊を引いてきて、喜びのうちにそれを燔祭としてささげた。聖書によると、後にこの地点そのものが、聖所の祭壇の位置となった。「ソロモンは、エルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた」(歴代志下3:1)。アブラハムの経験は、真の自己犠牲と信仰をさし示している。
神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。自分のむすこをささげることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。
神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちに、イサクの時のようには、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分の生命をおささげになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。・・・