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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印 VS 獣の刻印 第13回

2017年05月27日 | 日記

11.反対論への答え

 ある人々は、だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある 」(コロサイ2:16,17)という聖句を用いて、「十字架以後は、安息日などは守らなくてもよくなったはずなのに、なぜ執拗に特定の日を強調するのですか?」と質問します。ではもし、十字架以降に安息日の戒めが廃されたのだとしたら、なぜ他の9つの戒めは守っているのでしょうか?偶像崇拝をしてはいけないという戒めも廃されたのでしょうか?十戒の中心ともいうべき重要な安息日の戒めが変わったとしたら、なぜ聖書にそのことが記録されていないのでしょうか?「安息日のことで批評されてはならない」という言葉の意味をよく見てみましょう。そして、その誤解を解いてみましょう。

 「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある」(コロ 2:14-17)。

ここで言われている、十字架で取り除かれた証書とは十戒のことではなく、ユダヤの各種の祭りや儀式制度、すなわちモーセの律法と呼ばれるもののことです。そのようなものは、もう必要なくなったのです。それらは、メシヤの来臨や働きについての預言であり象徴でした。これから起こることについての影であったため、本体であるキリストが来られた時に、その役割は終わったのです。

 たとえば、過越しの祭はイエス様の十字架を理解するために守る祭であり、揺祭(初穂の祭)はイエス様の復活とその意味を教えるために守る祭でした。そこでこれらの祭は、イエス様が来られた後には守る必要がなくなったのです。そして、このような祭りの中には、必ず週ごとの安息日ではない、祭としての安息日が含まれていました(レビ23:23)。そこでパウロはコロサイ人への手紙2章で、「あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない」と言ったのです。

 

また、コロサイ人への手紙2章にあるこの「安息日」という単語はギリシャ語で複数形で書かれています。ですから、英語欽定訳聖書では原語通りに“諸安息日”と複数形になっているのです。レビ記23章39節を見ると、祭を始める日と終わる日が安息日であったことが分かります。パウロがコロサイの人々に語ったのは、このような、すでに守る必要がなくなった安息日であることが分かります。

 パウロの時代に、あるユダヤ人たちはキリストを信じながらも、長年の伝統である祭は守り続けなければならず、祭りの中の諸安息日も守らなければならないと教える人たちがいました。しかし、そのような儀式や祭りの律法は十字架以降にはもう必要なくなったので、そのような諸安息日のことについて、これ以上批評されてはならないとパウロが言ったのです。

 しかし、十戒の中にある第七日目の安息日は、将来起こることについての影ではありませんでした。むしろ、過去に神様が世界を創造された事実を振り返り、思い出すようにする制度でした。“諸安息日”とは、目的において、その意味において全く異なったものでした。安息日は廃されたとか、新約時代には守る必要がなくなり、キリストを信じればいいという人たちは、聖書の本来の意味を誤解してしまっているのです。

 またある人たちは、聖書には、十字架以後に弟子たちが日曜日に集まったという記録があるのを見て、日曜日に礼拝をする根拠としています。その箇所を見てみましょう。週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた」(使徒行伝20:7)。ここで言われている「週の初めの日」とは、「夜中まで語りつづけた」という言葉から分かるように、現在の土曜日の夜でした。これはどういうことかというと、ユダヤ人の1日の考え方は、聖書にもとづいて「日没から日没」までだったからです。聖書時代には、「その夕から次の夕まで」(レビ 23:32)が1日でした。そこでユダヤ人たちは、現在の土曜日の夜を、“安息日後の初日”すなわち“週の最初の日”と表現していました。ですから、この使徒行伝の集まりとは、安息日が終わり、その夜の“週の最初の日”の集会だったのです。またこの日の翌日の日曜日にパウロは出発する予定だったので、お別れの食事会としてパンをさくために集まったのであって、安息日礼拝の代わりとして集まったのではありませんでした。