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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

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2014年07月07日 | 日記

  

 恋に落ちた神様 32 (最終回)

愛というのはどうやって成立するのでしょうか。まず会わなければなりませんね。会いたいという気持ちが強くなって、愛が育っていきます。愛が育っていくと、会いたい気持ちがまた強くなります。では、信仰において、私が神様に会いたいと思う気持ちと、神様が私たちと会いたいと思われる気持ちは、どちらが強いでしょうか?イエス様は、今も、本当に私たちと会いたくて、会いたくて、首を長くして待っておられるのです。イエス様は、私たちともう一度会いたいので、「わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)と言われたのです。その約束を、もうすぐ主は果たされます。その時イエス様が来られて、一緒に天へ連れて行かれるのは、ただ口先で「イエス様を知っています」という人ではなく、また、熱心に活動している人でもありません。神様を愛している人です。神様を心から愛して会いたいと願っている人たちです。

皆さん、神様の愛に応えていきましょう。神様の片思いに終わらせないようにしましょう。神様の愛を深く体験し、その愛に、体全体で応えて、生きていきましょう。

  お祈りいたします。

天のお父様感謝いたします。どれほど主が私たちを愛しておられるか、もう一度考えることができました。これまで私たちは、神様の大きな愛にお応えしないで、自分勝手な道を歩み、神様に逆らってきました。親の心臓に釘を打つように、神様の愛を無視しながら、私たちは生きてきました。信じていますと言いながら、神様の言われることは無視してきました。神様、わたしたちを憐れんで下さり、何よりも神の愛をもっと深くわからせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。  アァメン (恋に落ちた神様は今回が最終回です。明日からは他ののメッセージを紹介します)

    14万4千人 3

レビ記の16章20節から22節をお読みします。そこに興味深いことが書かれています。

「こうして聖所と会見の幕屋と祭壇とのために、あがないをなし終えたとき、かの生きているやぎを引いてこなければならない」(16:20)。

この生きている山羊、連れてこられる山羊というのがアザゼルの山羊です。皆さん、アザゼルの山羊はサタンを象徴していることはご存知ですよね。贖罪の日に、聖所の外庭に二頭の生きている山羊が連れてこられます。一頭は主のための山羊、もう一頭はアザゼルの山羊として選ばれます。主の山羊はそこで殺されて、その時流された血は至聖所へと持ち込まれます。

この時大祭司は、イスラエルの罪を告白してその贖いをするのではありません。つまりこの山羊の血は、民の罪を負っているわけではないんです、この血というのは純潔な血を表しています。この血は契約の箱の前に七度、振りかけられます。実際はこの契約の箱の上の面のあたりに振りかけられるんですけれど、そこは贖いの座、恵みの座と呼ばれている所です。この血は、罪の赦しのためではなくて、罪の除去のために注がれるものです。

それから、この贖罪の日に大祭司が行う最後の働きが、アザゼルの山羊に対して行うことです。このアザゼルの山羊に、どういったことが起こるかということに焦点を当ててみたいと思います。続けてレビ記16章21節をお読みします。

「そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない」。

この大祭司アロンがしていることは、イエス・キリストが天の至聖所で行っておられる働きを表しているのです。この天の聖所における、至聖所における大祭司イエス・キリストの最後の働きが、アザゼルに罪を負わせて追放する事なんです。そして興味深いことに、この聖句では「定めておいた人」というのが出てくるのですけれど、聖書全体でこの「定めておいた人」という役割の人物が出てくるのはここだけです。