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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

これが真の福音です ソン・ケムン 第12回

2017年11月27日 | 日記

イエス様と私たちの違い

ところで、私たちがイエス様の人性について学ぶ時、注意しなければならないことがあります。イエス様は私たちと同じ人性を取られましたが、違う部分が一つあります。 イエス様をこの世のすべての人間と全く同じに見てはいけないのです。

□ヨハネによる福音書1章12、13節

「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。

ここを見ると「人の欲に」よって生まれた人と「神によって生れ」た人がいます。「人の欲に」よって生まれた人は誰ですか? 「神によって生れ」た人は誰ですか? 私たちは「人の欲に」よって生まれた者ですが、キリストを心に受け入れて生まれ変わる道が教えられています。 その後に続く言葉に驚かされます。

□ヨハネによる福音書1章14 節

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。

これは12、13節とつながっている言葉です。言い換えれば、キリストは人間の肉体を取られましたが、私たちが新生によって「神様の霊が宿る」人になるように、キリストも肉体となってこの地に来られた時、「神様の霊が宿る」、つまり聖霊に満たされた状態で生まれたということです。もっと簡単に表現するとキリストは、「新生した人間の状態」として生まれたと言えます。この表現も適切ではないかもしれませんが、これ以上人間の言語で説明する、ふさわしい言葉を見つけられません。

□ヘブル人への手紙2章11節

「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」。

「きよめるかた」は誰ですか? イエス様です。「きよめられる者たち」は誰ですか?それは「生まれ変わった人たち」です。イエス様が兄弟たちと同じだということは、生まれ変わった人たちと同じ性格、つまり、新しい目的、新しい動機、新しい心を持っておられたと理解することができます。しかし、だからと言って、イエス様が生まれ変わった人たちと全く同じ品性を持っておられたとは言えません。なぜなら、イエス様はいつも聖霊によって満たされ、一瞬も罪で汚されなかっただけでなく、すべての面で模範とするべき完全無欠な品性の極致に達した方です。人間は生まれ変わったとしても、過去に犯した罪への傾向と後天的欠陥を除去する必要があり、成長しなければならない段階があります。


これが真の福音です ソン・ケムン 第11回

2017年11月26日 | 日記

    


試練とは何か

≪□○×クイズ≫ ではイエス様がどんな人として来られたのか想像してみましょう。   

 写真を見ると、子供のイエス様が頭に何かを乗せて歩いていくのを、友達がからかっています。イエス様はその中で黙って歩いています。

次の絵は、幼いイエス様が父親を助けて大工の仕事をしています。

イエス様の幼年時代を考えてみましょう。

質問をします。

①.子供のイエス様は「聖なる者」だったので(ルカ1:35)ほかの子供のように駄々をこねたり、いらだったりするような誘惑を受けなかった。 ○ですか×ですか?

質問を変えてみます。

②.子供であったイエス様は「聖なる者」だったので普通の子供たちのように駄々をこねたり、いらだったりするような誘惑が来たとき、神様に祈ったり賛美したりして誘惑を乗り越えられた。  ○ですか×ですか?

多くの人が、キリストは神様の子だから今の子供たちのような誘惑は受けられなかったと思うかもしれません。もちろん、イエス様がテレビの前に座ってアニメを見ることはなかったですね。また、ネットカフェに行ってゲームに陥る誘惑もありませんでした。

いつか私が、イエス様は現代の子供たちと同様に試練を受けたと話したら、当時はゲームのようなものはなかったから同じ試練は受けなかったと言われました。人は信じたくなければ本当に幼稚になるようです。

すべての試練は、私たちの意志を神様に屈服させるか、サタンに屈服させるかという問題です。結局、誰にひれ伏すかという問題です。聖書はイエス様があらゆる面で、幼い時から血気盛んな青年時代まで、 私たちと同様の試練を受けられたと言います。

世界を創造された神様が、母の膝に座って聖書や自然について学ばれました。

「お母さんここにきれいに糸を張っているものは何ですか?」「それはクモというのよ」。

 


これが真の福音です ソン・ケムン 第10回

2017年11月25日 | 日記

 福音の力を知る

もっと簡単に説明すると、私たちは理性、良心、記憶力、意志、感情を持っています。 これが人間を成す要素です。これはどこにあるのでしょうか?爪先にありますか? 横隔膜のそばにありますか?これは脳にあるものです。これらは人間が生まれた時から持っている人間性、つまり、人間の本性です。

イエス様はこのような人間性をそのまま持って試練を受けられました。しかもイエス様は、アダムよりも不利な立場に立たれました。アダムはどうでしたか。人間の中で最初に創られたもの、アダムは完全な成人として、心も体も活力がみなぎっていました。しかし、イエス様はどうでしたか。イエス様はアダムの創造後、数千年が過ぎてこの世に来られました。その間に人類はどう変わったでしょうか?背が低くなり、寿命が短くなり、体力が弱まりました。肉体的性質だけが後退したのではなく、精神的能力、道徳的能力も後退していたのです。

イエス様は数千年間の罪によって弱くなった人性を取られました。イエス様はアダムのすべての子孫たちと同様に、遺伝の法則の結果を受けられました。

遺伝の法則というのは何ですか? 父親が大酒飲みだと息子も酒に強いDNAを持っている場合が多いですね。イエス様の先祖になったダビデと、その後代の人たちの歴史を読んでみてください。その祖先たちの多くが、放蕩者で粗暴な偶像崇拝者たちでした。イエス様はその遺伝的性質を受け継いでおられました。それでも罪は犯されませんでした。それは福音の力が遺伝の法則よりも強いということを示してくれるのです。 アーメンではないでしょうか!

この素晴らしい福音の力を、私たちも経験しなければなりません。私たちの救い主は私たちと同じ人性を取られました。そんな遺伝的な悲惨さにもかかわらず、私たちも用いることができる方法だけで勝利されたという事実を知ることは、私たちの大きな力となり希望になります。

イエス様は遺伝的に軟弱になった人間性を取って、「すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」ことにより、罪を犯さない生き方の模範を見せてくださいました。 その方はすべての面において私たちと同じような誘惑と試練を受けられました。試練を受けて誘惑を感じること自体は罪ではありません。罪を犯す可能性がなければそれは試練とは言いません。

 


これが真の福音です ソン・ケムン 第9回

2017年11月24日 | 日記

弱さを思いやる方

□ヘブル2章14節

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」

皆さんと私は「血と肉とに共にあずかって」います。そうですか? イエス様はどうですか?イエス様も「血と肉とに共にあずかって」いました。「血と肉とに共にあずかって」いたイエス様はどんな人間だったのでしょう? 天使たちのように、内面からの罪の力を感じないような人間だったのでしょうか? アダムが堕落した後、継続的に遺伝されてきた罪の結果を持った人間ですか? 私たちと同じ人間でした。イエス様は人間が神様の戒めを犯した遺伝法則の結果を受けられました。自分を低めて堕落した人間の水準まで下ってこられました。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる」(ヘブル2:14)。それは何のためでしょうか?その理由は、「それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(ヘブル2:15) 。

□ヘブル人への手紙4:15

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。

どうやって「弱さを思いやる」ことができますか? 「弱さを思いやる」とは自分が直接経験したので相手を深く理解できる愛の心です。ただ頭で知っている知識や理論ではなく、自分が直接そのすべての苦痛と葛藤と挫折を経験したことからくる共感で、その人を理解して同じ気持ちになることだと言えます。イエス様はどのようになさったでしょうか。 イエス様は試練を受ける者をどうやって助けるか知るために、人間のすべての試練を経験されました。神様の全知全能の力によってではなく、経験を通して「弱さを思いやる」ことができました。

反キリストはイエス様を、心と精神は神様で、肉体だけがアダムの堕落後の弱くなった体だったと言います。それで寒さを感じ、お腹をすかして、痛みを感じる肉体の経験は私たちと同じだったが、誘惑を感じて試練に勝利する部分は人間と違っていたと言います。 神様が誘惑を感じることはあり得ないと考えるからです。

一度よく考えてみてください。初代教会の弟子たちはどのようなイエス様を伝えたのでしょうか。弟子たちは、心と体が違うイエス様を伝えたのでしょうか。ペテロが?パウロが?ヨハネが?心と精神はどこにありますか? 心臓のそばにありますか? 心は脳機能の一部です。イエス様は、私たちと同じDNAと、同一の骨と肉と血、同一の脳構造を持っていました。


これが真の福音です ソン・ケムン 第8回

2017年11月23日 | 日記

私たちと同じ立場で

一つ誤解していけないのは、イエス様がこの地に人としてこられた時、彼は依然として神様でしたか? もちろんです。 誤解してほしくないのは、私がイエス様の神性のことについて話しているのではないことです。その部分は神秘です。人間の言語で表現できない、完全に理解することもできません。 神様がどのように人間になることができましたか? それを明らかにできる人が誰かいますか。しかし、神様がどんな人間として来られたかは、私たちが必ず知らなければならない福音の基礎です。もう一度言いますが、私は今イエス様が神様であることについて話しているのではなく、この世に受肉してこられた時どんな人間の姿をとって来られたかという、イエス様の人性について話しているのです。

その方がこの世におられた時、私たちが経験するようなことを「人間」として経験されたのか、「神様」として経験されたかの問題です。多くの人が、イエス様がこの世におられた時、見かけは人間でも中身はロボコップが入っていたと誤解しています。

「ああ、神様は誘惑を受けることができません。 神様は罪を犯すことがありません。それでキリストは罪を犯さなかったのです」「 ああ、そこには闘争がなく、誘惑もありませんでした。それでイエス様は、私が今どのような戦いを経験しているかよく理解できません!」。これが多くのキリスト教徒が本質的に信じているキリストです。

それは私たちが聖書で読むキリストではありません。私たちの立場に立たれて、私たちのように葛藤されたキリスト! 神様としてのすべての能力を放棄されたキリスト! 私が生きなければならないその同じ立場で生きられたキリスト! 私が罪に勝てる方法で罪に勝たれたキリスト!

イエス様は私たちの問題を理解してくださるのです。ですから神様は公平な方なのです。