goo blog サービス終了のお知らせ 

SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

これが真の福音です ソン・ケムン 第7回

2017年11月22日 | 日記

 キリストの勝利の力はどこから?

私がイエス様の人性の問題について、組織神学者たちと会談したことがあります。ある正直な神学者は「正直よくわかりません」と言いました。なぜそんな答えが出てくるのでしょうか? その神学の根が聖書の真理を歪曲するイエズス会の教えであるという結論が出てくるからです。カトリック教会は、マリヤの本性に対する彼らの誤った教理によって、キリストが罪の性質を持った肉体で来られたというこの真理を否定します。

 それでは、イエス様が肉体をとられたという事実が、私たちの信仰とどんな関係があるでしょうか

 質問をします。

「イエス様がこの地に来られた時、どのように奇跡を行なわれましたか?」

「イエス様はどのように水の上を歩かれましたか?」

「死んだラザロをどのようによみがえらされましたか?」

多くの人たちがこう答えます。

「イエスは神様だから、当然、奇跡を行なうことができます!」

 それでは他の質問をします

「イエス様はどのように罪に勝利されましたか?」

「イエス様はどのようにして一度も罪を犯されませんでしたか?」

それも多分同じ答えをするはずです。

「イエスは神様だからです。 神様は罪を犯すことができません。 しかし、私は神様ではないので罪を犯すのです」。

これがどのような問題なのか見えますか?

イエス様をどのような方と考えるかによって、私たちの信仰の結論が変わり、いや、私たちの永遠の運命も変わります。

ほとんどのクリスチャンが、存在もしないキリストを信じています。 多くの人たちがイエス様がこの世におられた時、罪を犯す可能性がなかったようなキリストを信じています。 実際には存在しない、そんなキリストを信じています。 ただ神学的に頭で考えられたキリストを信じています。

 


これが真の福音です ソン・ケムン 第6回

2017年11月21日 | 日記

無原罪懐胎の教理の誤り

イエス様が私たちの本性ではなく、マリヤの本性を取られたという無原罪懐胎の教理は、キリストと私たちとを完全に分離させます。この教理と他の教理によってカトリック教会では、罪人がイエス・キリストを通して天におられる神様に直接進むことを教えられません。そして罪人たちにマリヤ、教皇、神父、聖人、つまりカトリック教会の仲介を通してイエス様へ行くことを推奨します。さらに、カトリック教会はマリヤの無原罪懐胎と彼女の罪のない生活によって、マリヤも「人を救うことができる権限」を持っているとします。

□カトリック教理問答を見ます。

「マリヤの多方面の仲裁を通して彼女は今日我らに永遠の救いの賜物を与えられ、我らの魂を死から救って下さる我らの代弁者、助け者、恵みを施す者、仲保となる」(キリスト教問答、p.252)

 

このようにカトリック教会は公的な教えの中で、実際にイエス様が肉体を取って来られたことを、つまり「子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる」ことを否定しています。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル2:14)

反キリストの勢力は、聖書の教えである、「イエス様が人間と同じ肉体の本性でこの地に来られた事実」を否認します。カトリック教会は、マリヤも罪なしに受胎したという教理、イエス様が罪のない本性を持った母親から生まれたという、無原罪懐胎の誤った教理を教えています。

従って、イエス様はその兄弟たちと同じではないと主張します。しかし、使徒パウロは何と言ったでしょうか?

□ローマ人への手紙8章3節をみると

「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである」。

「御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし」とあります。英語聖書では、sinful nature/sinful flesh つまり「罪に満ちた肉体」となっています。私が言うのではなく、聖書に神様が自分の息子を「 罪の肉の様で」つかわしたとあります。「罪の肉の様」と言うのは「アダムが罪を犯し堕落した後の人間の本性」、「堕落した本性」と言えます。

 

しかしある人はこのように言うかもしれません。「この聖句をよく見てください。「 罪ある肉体」ではなく、『罪の肉の様(さま)』とあるではないですか」。 そういった疑問が生じるかもしれません

では、ピリピ人への手紙2章5-8節を読んでみましょう

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。

ここで「僕のかたち」も、ただ人のように見えるだけで、実際は人ではないということでしょうか。 それでは何ですか? 十字架の上で、イエス様が演技をしておられたということでしょうか? 神様は痛みを感じることはできますか。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は何ですか? イエス様がただ苦しむふりをしておられたのですか?

聖書は、「罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられた」と言います。「 肉において罪を罰せられた」という言葉は、私たちを支配する罪を滅ぼされたということです。神様がその力を使って罪の権勢を滅ぼされたのではなく、人間の姿で罪の力に勝たれたということです。神様を賛美しましょう! 神様は多くの問題を引き起こす、この肉体を取って罪を征服されました!


これが真の福音です ソン・ケムン 第5回

2017年11月20日 | 日記

数千億円の価値ある質問

ヘブル2章17、18節を見ます。

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」。

もう一度真理は確証されました。イエス様は私たちと同様の肉体をとって、私たちと同じように試練を受け勝利されたので、彼は今大祭司として私たちが試練を受ける時に私たちを十分に助けることができます。

少し難しく思われるかもしれませんが、最後まで聞いて下さるなら本当の宝を得ることになります。

これと反キリストとは何の関係があるのでしょうか? 私たちが前回見たように、ローマ教皇が「小さな角」(ダニエル7:8)であり、「獣」(黙示録13:1)であり、「不法の者」(2テサロニケ2:3)であることを確認しました。 反キリストは教皇権であるということが宗教改革者たちの出発点でした。

 

□イエス・キリストは肉体をとって来られたか

この質問は数千億円の価値のある質問です。 ローマ教会の公式的な教理に「無原罪懐胎」という教えがあります。これはイエス様が何の罪もなく出生されたことを言うのではありません。これはイエス様の母マリヤ自身が、母親の胎にいる時から堕落した本性を持たずに生まれたということです。マリヤが母の胎の中にいた時から奇跡的にすべての汚染から守られたということです。 こうしてマリヤは、我々とは別の人間になったのです。

つまりカトリックの教えによると、イエス様の母は私たちと同じ肉体と本性を持っていないということです。 これはどんな意味でしょうか。カトリック教会の公式的な宣言は、イエス様が出生した時、私たちの本性を取らず、マリヤが持った本性を取ったと言っています。これはイエス・キリストが肉体をもって来られたという事実を否定することです。ここにその証拠があります

□カトリック教会の教理p.124を見ると

「無原罪懐胎(むげんざいかいたい):聖母マリヤの無原罪の御宿りの教義は、1854年法王ピウス9世 (Pius IX)によって宣言された。幸いな聖母マリヤは、その母胎に宿られる瞬間、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかった」(カトリック教会の教理p.124)

 

結果的に、カトリック教会によるとイエス様が生まれた時、彼は私たちの本性を取らずにマリヤの本性を取られたということです。 有名なギボンズ枢機卿はこう言いました。

 

「キリストは乙女マリヤより生まれ、ご自身がマリヤと全く同じ本質の人性を取られた」。

 (Cardinal Gibbons, The Faith of our Fathers, p.167, Quoted in John A. O’ Brien, The Faith of Millions : The Credentials of The Catholic Church, p.441).

 


これが真の福音です ソン・ケムン 第4回

2017年11月19日 | 日記

小さな細胞となられたイエス様

 もう少し具体的に話します。イエス様を生んだマリヤには罪がありましたか、ありませんでしたか? ありました。マリヤは創造当時に比べて身体的、精神的、霊的活力が下がった罪の弱さを持った一人の女性でした。 そのマリヤの体の中に聖霊によってイエス様が宿られました。 マリヤの卵巣に着床して、マリヤの体で育ちました。

私たちの体に異物が入ると、体は直ちに反応します。 目にごみが入ると涙が出て、風邪のウイルスが入ってきたら、体がすごく震えてくしゃみ、鼻水が出て、熱が出ます。妊娠すれば、吐き気がしたㇼ、酸味を求めたりします。これが体の反応です。ところが、マリヤが耐えられないほど神秘的な細胞がマリヤの体の中に入りました。人間の体が耐えられないこのような物質が入ってくると、副作用でマリヤはすぐ死んだはずです。この前、中国では「エンテロウイルス」で数万人の子供たちが死にました。彼女の体は耐えられないのです。

罪人である私たちが神様を見ただけでも、その栄光の輝きのために人間は生きておられないのに、その栄光の本体である神様が人間の体の中に入られたら、どうなるでしょうか。答えは二つのうち一つです。 マリヤが神となってその細胞に十分耐えることができるようになるか、でなければ、イエス様が弱い人間の体をとって生まれるかです

イエス様はどんな選択をされましたか。 その方は軟弱になった人間の体を取ってお生まれになりました。 従って、聖霊によって生まれたので罪はありませんが、罪に対して倒れる恐れのある人間の弱さを持たれました

神様が別に育てていて、出産の際マリヤの体を借りられたのではなく、10ヵ月間、マリヤの体で育ちました。33年半の間、天にはイエス様はおられませんでした。そのうち10ヵ月間は人間の体の中に一つの小さな細胞として存在されました。 マリヤが食べる料理で栄養分をもらい、病にさらされる、軟弱な人間の免疫体系の中で育たれました。マリヤの胎教を受けられました。

イエス様は罪のない完全な、完璧な人間でした。 何の罪もなく生まれましたが、誘惑者サタンから罪の誘惑と試練を受け、倒れる可能性を私たちと同じように持っておられました。


これが真の福音です ソン・ケムン 第3回

2017年11月18日 | 日記

 言は肉体となり

それでは、イエス様が 「肉体をとってこられたこと」はどんな意味なのでしょうか。

ヨハネの福音書1章14節を見ると、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」とあります。 ここで「言」はベツレヘムに誕生したイエス・キリストに適用されます。「言が肉体と」なった時はいつですか?

ローマ人への手紙1章3節を見ると、

「御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ」

つまり神様が人間になられた時を指します。ここに重要な質問があります。その方が人間になられた時、どのような種類の肉体を持たれましたか。注意深く調べるべきです。

ヘブル人への手紙2章14節を見ると、

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」と述べています。

聖書が明確に語るのは、イエス様が私たちと同じ「血と肉」を取られたということです。「それがどうしたというのか。これが反キリストと何の関係があるか」と皆さんは言うかもしれません。

そこで「肉」が何かを理解しなければなりません。 肉とは何ですか? 「肉」は罪の影響を引き継いだ私たちの堕落した人間の本性を説明する言葉です。パウロは「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」と言いました。

言い換えれば、肉は悪です。それは私たちの敵です。それは悪臭が出る下水溝のようなものです。「肉」はサタンが私たちを誘惑して罪を犯すようにさせる経路です。

聖書で最も驚くべき神秘の一つが、テモテへの第一の手紙3章16節にあります。

「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、『キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた』」。

これは想像しがたいことですが、イエス様が、私たちと同じ肉体を取られたと言われているのです。なぜそうなさったのでしょうか。 それは私たちの戦いを理解し、私たちと同じ誘惑を受けられるためでした。しかし、私たちと同じ肉体を持っていながらも決して罪は犯されませんでした!