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天地わたる手帖

ほがらかに、おおらかに

ひこばえ句会の司会を固定する

2019-06-18 04:45:24 | 句会
日曜日にコーラスへ飛び入り参加して気づいたことは司会の大切さである。ぼくは率先して前へ出て意識して目立って見せた。それで活性化した面があったかもしれない。
けれどあの会で足りなかったのは司会ではなかったか。ぼくはずうっと玉置宏が欲しいと思っていた。
ひるがえってひこばえ句会をみると、やはり司会が機能していない。
全員に少しずつ司会をさせてきた。それは発言の機会均等に貢献したが発言の質の向上には結びついていない。みなさんは自分の分をお仕着せを着る意識でしかとらえていない。
したがって機械的に採った人を指名し最後にぼくに意見を求めるというパターンを全員が繰り返している。
それでおもしろいか。
司会はもっとクリエイティブな職務のはずである。


平尾誠二選手

球技を見てみよう。
3年前53歳で亡くなってしまったがラグビーの平尾誠二選手の球さばきを見るがいい。「ミスターラグビー」と呼ばれ複数のポジションをこなしたが、やはりスタンドオフ(10番)にいるとき敵は困っただろう。
1991年1月、日本選手権3連覇を達成したときのインタビューに同席した将棋の羽生善治さんは平尾の印象をこう語る。
「ラグビーって、瞬間的にいろんなことが起こるものなのに、すごく幅広い視野で見ていて、さらにそれを正確に覚えているんです。自分の動きだけでなく、相手の動き、勝負の流れ、審判の笛、その日の風向きなんかも含めて。こういうプレーが何分にあって、こうだった、グラウンド上でこんなことを考えていたなどと、試合を解説してくれたんです。」
また、女子バレーボールに竹下佳江選手がいた。2010年世界選手権での銅メダル、2012年ロンドンオリンピックでの銅メダル獲得に貢献した名セッター。身長159㎝の小柄ながら試合勘が冴え、フジテレビが「世界最小・最強セッター」と命名しこれが彼女の代名詞となった。
『セッター思考』(PHP選書)という著作があり、その副題が「人と人をつなぐ技術を磨く」である。

竹下佳江選手とその著作

スタンドオフやセッターはゲームメーカーと呼ばれる。
試合をつくる仕事である。球技において試合が始まると監督はもう手出しできない。ピッチで監督の代わりの仕事をになうのがスタンドオフやセッターである。
句会でもこの役割を明確にしようと思う。ひこばえ句会では司会を公平にやってもらって民主主義をめざしたが民主主義では句会や芸道は向上しない。もっとはやくそれに気づくべきであった。

ひこばえ句会でスタンドオフができるのは伊勢史朗である。
俳句もあるていど書けるし俳句の読みもまあまあ。なによりも俳句に対する問題意識と批評意識が高いことを買う。これを司会として生かし句会のあらたな風景を切り開いてくれ。彼がメイン司会、そしてサブ司会に山田空と久保直己をあてる。
司会がなくなってほっとしているほかの面々よ、たぶん今まで以上に考えていないといけないくらい司会はやるだろう。司会の能力の向上が俳句をつくる能力の向上とリンクするだろう。
司会の諸君、竹下佳江選手の言った「人と人をつなぐ技術を磨く」を肝に命じて事に当たって欲しい。
伊勢史朗、君は平尾誠二になれ、久保直己は松尾雄治になれ、そして山田空は竹下佳江をめざせ。

句会をバトルロイヤルにしよう

2019-06-11 07:11:24 | 句会


この画像はインターネットの「バトルロイヤル」から転用した。
バトルロイヤルはプロレスの一形態。複数のレスラーがリングの上り、最後まで残った者が勝ちというルールである。
AがFを殴って倒れたらDが踏みつける、そのDの背後にFが飛び蹴りをかます。それでリングから落ちたDは脱落。隙を見せたFにポスト上段からGがボディープレスしてスリーカウントしてFが脱落。そのFすかさずをひっくり返してAとHがかぶさってスリーカウントを取る……自分以外はみんな敵にてどこから攻撃されるかわからない。

句会もこういうふうでいいのだ。
先日のひこばえ句会に
煙突の遠き火葬場蟻の道 史朗
が出た。Мさんが採った。ぼくは気になったが採らなかった。「煙突の遠き火葬場」は季語次第でいけると直感したが「蟻の道」の「道」で意味性が強く出たのが嫌だった。つまり蟻が火葬場へ向かっているというふうに読める意味性を嫌ったのであった。
そう言ったとき採ったМさんが気骨を持ってぼくに反論すれば面白くなったであろう。
あるいは採っていない誰でもいい。蟻がそこへ向いそうな気配が出ているゆえ面白いのかそれがよくないのか……これはもっと議論していい案件ではなかったのか。
蟻でないとすればどんな季語がこの句を生かすのか、もっと大勢の人が参加すべきなのだ。
プロレスのように一人倒れたら寄ってたかって踏んだり蹴ったりするようなしつこさが欲しいのである。結論が出なくても議論が噴出して一句が出た意味があるだろう。作者は原句で押し通すか考え直すか知らぬがヒントにはなる。
ここへ参戦する人数が少なく、ほぼぼくの意見を押し通してしまったことが物足りないのである。

いつだったかぼくがもっと若造だったときネット句会で
なんとかかんとか加藤静夫の丸眼鏡
という句が出て大先輩が採った、ぼくはそれに楯突いた。「加藤静夫は鷹では有名人だが一般には普遍性がないじゃないか」と。これに大先輩が「俳句はこの集まりで通じる面白さがあってもいい」と。ほとんど喧嘩ファイトでがんがんやり合った。
ぼくは先輩の意見もいちおう理解したし言い合いはまったく問題ないことと思った。それで先輩とつきあわなくなるのでもない。そのころから合評はプロレスだと思っていた。
情けないのはほかのメンバーが静まり返ってただ二人の喧嘩ファイトを見ているだけであったこと。
どっちの味方でもいいから参戦しろよ、と言いたかった。ほんとうの戦争は避けたいが句会での戦争はやろうじゃないか。それが集まって句を読む意義じゃないか。ドッグファイトをやろうじゃないか。論争をするから物事の断面があらわになって深層が見えてくるのである。
違いますか?

句会に出たら発言せよ

2019-06-10 19:55:33 | 句会


6月8日のひこばえ句会に杉村有紀さんが来て、挙手して発言したことで鮎子さんがその勇敢さと凛々しさに感嘆して彼女を称えるメールをくれた。
また秋に来てくださるのがうれしいというので、バカ!人を待っていてどうするのだ、君が発言して句会を活性化せよと活を入れた。

ぼくは発言が句会をつくるとずいぶん言ってきた。
けれど効果が薄く、発言できる人が来るとみな「凄い」という目でその人を見る。そういう人が来て感動したならばなぜ自分がそのように人を感動させようと思わないのか……。
日本人は人前で意見を言えない人種だとずーーーっと思い続けている。先生の話は静かに聴いて口答えしないのが美徳と思っている。
ほんとうにそうなのか?
ひこばえ句会ではぼくが指導の任に就いたとき、ぼくにはっきり発言する人がいると(それがぼくの批判でなくても)古い人が目でたしなめたようなことがあり、ぼくはたしなめる人を牽制した。
さすがに最近それはなくなったが、依然として自ら発言しようとはしない。人前で意見を言えないが横の人とはおしゃべりをする人がいて気にさわる。

意見を言わない人は意見を言う人のお世話になっていることに気づいているはずである。
たとえば有紀さんは、室内と外界とのつながりにおける季語の許容範囲について本質的な質問をした。
それに対してぼくがなけなしの知恵をふるって七転八倒して答えるプロセスでかなりのことが明らかになったはずである。
それは多くの人が知らなかった、でも大事なことで、興味しんしんのことではなかったか。
一人の発言が問題を発掘して公共のインフラ整備に貢献するのである。

「こんなこと訊いていいのか」「先生が怒るんじゃないのか」といったような心づかいは無用なのだ。先生を怒らせるなんて素敵ではないか。
優秀な先生はまず怒らない。
「先生が(答えられそうもなくて)困るから」発言はやめておこう、という配慮はあるだろうが、困らせて恥ずかしがらせても訊くほうがいいのではないか。
わからなければわからないとぼくは言う。情けないがそう言うだろう。逃げたり煙に巻いたりはしない。
「初歩的なことで恥ずかしい」という引っ込み思案も捨ててほしい。以外に初歩的なことがわかっていないものなのだ。
たとえば「俳句になぜ季語が要るのですか?」と聞かれたら君はどう答える?
「それは約束事です」と答えて引き下がる人もいるだろうが、たぶん杉村有紀さんなどは「そんなことは知っています。それ以外のことを聞きたいのです」と食い下がるだろう。
こうなったとき彼女の欲求に十全に答えられる鷹同人が何人いるか。基本的なことほどむつかしい。

それに発言はときに意味がなくてもいい。声を上げてほしい。
先生は一人だけで話し続けていて孤独なのだ。誰も何の反応もしてくれないと俺の言うことわかっているのかな、と疑心暗鬼になってしまう。
濃霧の中で歩いていると今居るところが道であるか道を外しているのかわからなくなる。クルマを走らせている直線道路で助手席の人が眠ってしまったときのように孤独で、自分も眠くなって危うくなる。
従順に聴くだけの人は河原の石に思えてくる。石に向って講演の稽古をしているような感じになってしまう。
誰かもの言え声かぎり、という心境になるのだ。
「わからない」「違います」でもいい。何か声があると疲れが軽くなる。

句会に出たらもっと発言して欲しい。
君が仮に恥をかいてもそのことで多くの句友が利益を享受するのである。
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(『ヨハネ伝』第12章24節のキリストの言葉)。
ここで聖書の一説を引用するのは大げさではあるが、人は自分の恥ずかしさなど捨てて公共のために働くべきではないのか。
君の一つの発言が句会という公共の利益に多大な貢献をするということを意識して欲しいのである。
杉村有紀という一粒の麦の精神をみんなが引き受けて欲しい。一粒が二粒、三粒となっていって欲しいのである。


撮影地:恋ヶ窪駅

ひこばえ句会は6月8日(土)

2019-05-31 07:03:08 | 句会



【日時】6月8日(土)13:00~17:00

【会場】イング(3階/第2会議室) 
西武新宿線・田無駅を南口へ出て約150m


【指導者】天地わたる(鷹同人)

【出句数】1~7句(夏の句、あらかじめ短冊に書いてきてください)

【宿題】並列・対称の句を1句以上
(例句:万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや)


【予想出席者数】14~15名

【参加料】1000円
会員制ではありません。どなたでも参加できます。見学も可ですがそれより1句持って参加を。
はじめて参加する方は当ブログに書き込みをするか、youyouhiker@jcom.home.ne.jpへ連絡を。

【冒頭講義】比喩(7月例会への宿題)
藤田湘子『実作俳句入門』175から180ページを学習


【基本姿勢】
俳句は一世代30年持ってほしい。<春の海ひねもすのたりのたり哉 蕪村>は地球に清浄な海がありかぎり生きる句。普遍性のあるタフな俳句を目指します。季題趣味に耽溺せず、いま自分が生きている実感のある句を。
厳しい、けれど明るく、笑いのある句会、全員が何でも発言できる句会をめざします。<ほがらかに、おおらかに>をモットーに人と和し、森羅万象と交流を。

【席はくじ引きで決めます】
冒頭「あらゆる固定化を打破しよう」と謳いました。気づかないうちにどんどんマンネリ化しています。
その一つが自分の座る位置。その横の人です。ぼくの座る位置もなんとなく毎月同じ。これは崩そうと思います。
仲良と隣り合わせて落ち着きたいという心理は俳句の敵です。句作は飯島晴子や奥坂まやを出すまでもなく個人と世界との闘争です。人が家族、社会等あらゆる人との関係から脱して個人として立ち精神をフル活動するのが句作です。
たった十数人の中でとりわけ仲良とくっつこうというのはみみっちい。もっといろいろな人とも接したほうが刺激となります。晴子やまやのように個として立ってほしい。
よって、席を毎月替えます。少し動くことで何かが変わる。それはあらゆる局面でやっていこうと思います。

【句会後の歓談】
「魚民」で軽い飲食をします。ドリンクバーがあり酒の飲めない方も、早く切り上げたい方も大丈夫。

動き回る講師になるか

2019-05-25 07:38:19 | 句会
きのう桜新町の老人ホームの俳句教室で講師をつとめた。今月は3教室に赴き、今年はこれまで通算10教室をつとめたことになる。
桜新町は人数が12名といちばん多く、月によって来る人来ない人が入れ替わり複雑。運営するのに労力が要る教室である。

【耳の遠い人のわきに介護人がつくべき】
きのうは講師を派遣した会社の女性スタッフが一人、句を書いて句会に参加した。それは親しみが湧いていいし彼女の教養にもなるのだが、彼女は部屋の遠くにいた。講師から10mほど離れた位置では受講者の面倒は見られない。
老人ホームの職員も一人教室にいたが、彼女も遠くにいて写真を撮ったり何かを書きとめていた。それは施設の資料として大切なことであろう。けれどもっと大切なことは句会の運営に組することではないのか。そうしながらでも記録は取れる。そうしたほうが生きた記録を採れるとぼくは考える。
講師と協働して句会の運営に参加して欲しいと思う。
たとえば野球において捕手はたんに投手の球を受けて返す役目だけではない。ショート深く打球が飛んだ球を遊撃手が一塁に遠投すれば捕手は必ず全力疾走する。打者走者に遅れじと。一塁手が採り損ねた場合の捕球に備えるのである。
老人ホームの介護もこれと同じではないか。
ひとつ事を終えて手が空いたら次の有益なアシストを探すのがプロではないのか。俳句講師が働くときが私が休めるオアシスの時間ということか。
図で緑の●で示したように介護人は耳の遠い人について欲しい。もっといえば、耳の遠い人はあらかじめわかっているのだから、講師の直前の席に誘導して欲しい。


【講師をコの字型に囲むべき】
どうしても後列の席は遠い。2m以上離れると老人相手の場合(いや成人の場合でも)話が遠くなる。音声は届いていても受講者の理解度は1列目の人よりがくんと落ちる。
したがって老人ホーム句会の規模は数名がいい。2、3名では盛り上がらない。数名なら講師との距離は2m以内。家庭の食卓を囲む親近感である。「KBJ句会」は今この規模であり初心者指導にはぴったりと思う。全句講評もできるし添削などの点検もできる。
「ひこばえ句会」は16名112句で4時間びっしり行っている。休み時間なし。トイレ、煙草で時間を使いたい人は各自タイミングを見て席を外す。講師はトイレで席を外したことがない。この密度の濃さは参加者に体力と気力を強いる。「いい句会ですが疲れてもう来られません」と諦めた人もいる。ハードは承知してやっている。
句会は人数と時間、出句数との関係で人員の配置を自在に考えなければならない。
したがって次は机をコの字型に配置してその中に講師がいようと思う。180度受講者に囲まれる。講師は下に輪がついた椅子に座るのがいい。それだとあちこち動き回ることができる。机はなくてもいい。230度くらい囲まれてもいい。たえずあちこちを見て全員と親近感を保つ。


【動き回る講師がいてもいい】
この考えをさらに押しすすめると、講師は座らず立ったまま講義、司会運営をしてもいいではないか。
高橋前巨人軍監督は試合のはじめから終りまで立っていた。よく疲れないなあと思ったものだがあれはまねしてもいい。
ぼくも立って句会運営をしよう。
試しに「ひこばえ句会」の1時間を立ってあちこちの人に近づいて意見を聞き、また質問するということをしてみよう。ぼくが近づくことで緊張が生れ句会が締まるかもしれない。
動くことで頭脳はもっと活発に働いて妙案が出るかもしれない。句はそう新しいものを書けないのであれば、できることで新しくする工夫をすべきであろう。