じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

日々の雑感

2020-02-21 11:08:02 | 日記
あれ・・・筆箱って今でも言うのね・・・筆なんか入らなくなって半世紀以上であります。

それでもヤングジジイが小学生の昭和40年頃は硯と筆を持って学校に行っていましたよ・・・。

なんでも横文字にして、しかも縮めてしまうので語源も不明瞭な言葉が横行する日本で筆箱が残る理由がわかりませんね。
しかも、今時は布やブラスチック製品で箱型じゃ無いし・・・ペンケースじゃダメなんですかね、と思いますが、まっ、いいでしょう。

でも、そーいうのってあるよね・・・パラオって、南太平洋の島国があるんだけれども、あそこにダイビングで行った時、昼飯に「ベントー」が出たわけです。

はいベントーと言われて受け取ったんですが、自分らの他は白人さんなのにやっぱしベントーと言って渡すわけです。
で、現地のスタッフにあの人らベントー分からないでしょ、と尋ねたら、ベントーはパラオの言葉だというわけです。
もちろん語源が日本語なのは知っていました。

へぇ・・・と驚いて他には日本語が根付いたものはと尋ねると「チチバンド」と。
これは日本人客が来たら必ず言う定番だそうで、一気に笑いを取れるんだそうであります。
まっ、ベントーはチチバンドへの仕込みだったんですね、たぶん。

しかし、私らの世代はチチバンドに反応しますけれども、今時の若者は想像つきますかね、チチバンドが?

で、昨日職場でジジイは笑い者にされたんだけれども・・・「エモい」がわからなくて袋叩きにあったわけです。
いや、真っ当な日本語なら遅れをとることは無いと自負しているんですが、エモいは見当もつかず降参したのであります。
で、聞いてみたら、Emotionから来た言葉で、感情的な表現でもネガティブ系、との説明だったわけであります。

と、いうことで「エモい」を頭に入れて帰宅しネットで検索したら・・・意味違うしぃ〜で、ネガティブ表現とは限らず、どっちかと言うとポジティブで感動的とか、気持ちこもってる、なんて説明が出たわけです。

あいつら、人を笑い者にした割にはいい加減な説明をしやがって・・・次に会ったらお返ししてやる、という思いで他の言葉も当たった次第であります。

で、見つけたのが「エモいは古い」の見出しでして・・・今時は「Chill Out」とで「チルい」とか「チルしてた」と使うのがナウイと出ていたわけであります。

Chill Out・・・私ゃ英語は得意では無いのですが、なんとなく「冷静に」なんて表現だと思っていたんですが、今時の「チルい」はリラックスとか落ち着く、なんて感じで使うようで、まっ、エモいと通じるところが無くは無いな、であいつらに逆襲してやろうと仕込んだところであります。

さて・・・と、本日の罵詈雑言ですが・・・↓


辻元の突っ込んだところは完璧な説明で無意味になりましたね。

いや、だからとて辻元を責めても詮なきことであります。
なんと申しましても野党の仕事は与党を責めることでありますから、何か一つでもネタを拾ったらそれがガセかもしれないと思っても突っ込まざるをえないのでありましょう。

だってマトモな神経で正論を述べても与党を追い込むのは不可能ですから、その観点でみれば「大嘘」を基にした妄言の方が好き勝手に展開できて都合がよろしいわけであります。
そして、テレビに映っている姿だけ勇ましく、後で全否定されたところで元々嘘なんですからそんなことは承知の上でして、また次のネタに移るだけのことであります。

ヤクザの難癖と一緒で何でもネタになりますので話題が違ってもこのパターンはかわらないんでしょうね、きっと。

その昔「反省だけなら猿でもできる」というCMがありましたが、反省したら成り立たない野党は猿以下の存在なのかもしれませんよ。

えっ・・・? それでは選挙で勝てない、ですか? いやいや、比例で復活しますから平気であります・・・なんちゃって。









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南風の便り 12

2020-02-21 09:17:32 | 南風の便り


朝のチャンゲ(市場)前はいつも渋滞
 
 ミンダナオ島へ行ってきました

ミンダナオ島と聞けば一番はじめに何を思いますか?
へっ・・・?・・・なあーんにも?・・・って、まあ、今時の時事で言ったならばやはりアブサヤフとアメリカ軍ではないでしょうか。
もう少しアジアの歴史等に詳しい人なら、戦前の沖縄、奄美の人の移住と開墾。
その後の歴史ならアメリカの大企業の一方的な土地の接収などで日本とも関わりが深く、遠くて近いミンダナオ島なのであります。
しかし、今ではそんな歴史的な背景を伺い知る機会も減り、単にゲリラのいる島として有名になってしまっているのは悲しい事です。

そーです、もはや私の記憶も薄れたあの事件・・・若王子さんの誘拐などもミンダナオ島でしたね。
少し前、大企業の社員などはミンダナオに行く時には予約してある乗り物には絶対乗らなかったと言われています。
名簿から誘拐が計画されるからだそうですが・・・ほんとーですかね?

そんなミンダナオにはドゥマゲッティーからフェリーに乗ってDAPITANまで4時間の船旅であります。
私の目的は、農地を買う事とミンダナオのダイビングスポットの下見と、なんと「松茸」の発見であります。
松茸は実は噂では大量に有ると言う事を聞き付けていました。
そして、日本から写真を持参して見せたところ、こんなものは犬の糞よりたくさん有るとの事で、もしも本当ならひと財産確保と躍起になったのであります。
そんなわけで「松茸」発見がミンダナオ行きの最重要目的となっていたのであります。

結果を先に報告しておきますと「松茸」に似たキノコはありました。
しかし、ひと財産どころか食べるのがはばかられる代物だったのであります。

第一目標が消えたとなれば、次は農地の確保であります。
私BOMBEE、将来はフィリピンの大地で土に返りたいと思っております。
なので老後は農業などを営んで余生を送ろうと考えているのであります。
そんな私の耳に、えらく良い条件の出物があると吹き込む人がいたので出かけて行ったのであります。

しかしそこはやはり、熱帯はフィリピンの熱い風が吹いまして、聞くと見るとは大違いでありました。
日本人はすべての事物に完成度の高さを要求し、物の価値観がフィリピン人とは違い過ぎるかも知れませんが、それを割り引いても原野にしか見えない土地がフィリピン人にはすばらしい農地に見えるようです。
ちなみに私が農道だと思った道路はナショナルハイウェーだと言うし、ちょっとギャップが有り過ぎました。
そんなわけで、農地の下見もあえなく頓挫でありました。

3大目的の2つがあっと言う間に消えてしまった後は気持ちが萎えてしまいました。
しょーがねぇなぁ〜 んじゃぁゾートすっかぁ? で、3~4年前までは高級リゾートとうたわれていた「ダカクビーチリゾート」に行く事にしました。

繁盛していた当時は1泊130ドルと言われたこのリゾートも今では近所の青年団の会議が開かれる地域密着型のホテルに変身し、私の宿泊費もぐぐっとリーズナブルで、2食付きで1200ぺソ・・・約3000円で納まりました。
これでもフィリピンではけっこう高い方ですが。

では・・・脈絡の無い書き方になってしまいましたが、ここからがミンダナオ島へ船旅のご案内です。

8時発のフェリーでミンダナオ島の北の船旅の玄関口、DAPITANに向かいました。
チケットは当日港で買う事も出来ますが、個室などの良い部屋は予約が必要な事が多いようです。
私は、日本式に言えば2等の雑魚寝を選びましたのでチケットは当日買いでありました。

フィリピンも基本的にはベットで暮らすので、雑魚寝も畳部屋ではなく、2段ベットです。
切符にはベットの番号が指定されています。

出港前の港にはDAPITAN行き他にセブ行き、マニラ行きなどのフェリーが停泊していました。
港に居ると本当に頻繁に船が出入りするのに驚きます。
さすがに7000以上の島からなる島国で、交通の要は今も昔も船なのです。
埠頭は大きな荷物を持って船に乗り込む人で混雑しています。
隣の桟橋からは同じ8時発のセブ行きのスーパーキャットが出発して行きました。

フェリーが出航すると右手にネグロスオリエンタル州のシンボルCuernos de Negros 1904mが大きく迫って見えました。
ネグロス島はこの山ともう一つ北に有る2465mのKanraonの影響で乾期と言えども雨が多く水がきれいです。
高地が有るので野菜の種類が豊富で、南国なのにキャベツやハクサイ、レタスなどの葉ものも豊富です。

出航してしまうと船の中の探検が愉しみです。
船中をうろうろして色々面白いものを見つけました。
この船は日本生まれの船で「大雪」と言う船名で青函航路で活躍した船だったことが記されていました。
青函連絡船だったのが退役して長崎かどこかで余生を送り1997年にフィリピンに渡り、今ここで最後のお勤めを果たしているのことでした。
だから船内にはいたるところに日本語のプレートが残っています。

船が出航してしまうと何もする事が無い人々はベットで寝ています。
青函連絡船の時の売店はそのまま健在でパンやジュースや少しのおかしを売っていますが誰も買う様子がありませんでした。
私はデッキにでて見ました。
柵もロープも無いデッキを歩く事など日本では考えられませんがこの船ではどこでも歩き回る事ができました。

1時間以上も走ってやっとアポ島が近付いて来ました。
こうしてフェリーで近付いてみると、アポ島が海のまん中にぽつんと浮かぶ孤島である事が実感できました。

船内をじっくり見て歩くと時間の流れを感じさせてくれる物がたくさん有りました。
デリッククレーンも赤錆て役目はなさないでしょうが、定位置でじっと潮風に吹かれていました。
救命ボートの中にベニヤ板やら空き缶がゴミのように投げ込まれていました。
あれまぁ、と思ったのですが、すぐにそのベニヤ板がボートを漕ぐ為のパドルであり、空き缶はアカ汲み(船に溜った水をくみ出す事)に使う物であると合点。
質を問えばきりが有りませんが一応の備えはされているのだと、納得であります。
自動膨張式のライフラフトもありました。
それには「昭和50年2月三菱電機製造」と記されているのが読み取れました。
となりの救命ボートは藤倉ゴム製で、次回の点検が2003年になっていましたので、メンテナンスも受けているのが分かります。
これと同形式のもので隣にはブリジストンの物とオカモトラバーの物がありました。

船内探検も飽きたころ、到着予定時間より30分早くDAPITANに入港しました。
私はてっきり予定より早く到着したものと思っていましたがそれは大きな間違いでした。
小さな岸壁に船尾から槍付けするのにはなかなか難しいようでたっぷり30分、張り綱の具合で船をつけると言う芸当を演じていました。

DAPITANは田舎の港町でした。
ほとんど荷役ようの波止場といった感じで、コンテナが野積みされ、セメント袋が積み上げられ、ほこりを舞い上げて旧型のフォークリフトが走り回っていました。
未だにラワンの材木が切り出されているらしく、私の背丈をこえる太さの大木が船積みを待っていました。

DAPITANの港の外に出ても何も有りません。
観光客などほとんどいない事を示す街の様子に少し驚きつつ、食堂の前で手配したあるはずの車を待つ事30分、
やっと車を拾って農地の下見に出発したのでありました。

さて、諸般の事情から思惑は全てハズレ、他にすることも無いので今夜の宿であるダカクビーチリゾートへむかいました。
道路沿いに小さなリゾートホテルが見られましたが、営業している気配が無く、今はオフシーズンなのでしようか?それともやはり昨年のテロの影響で暇なのでしようか?。

ダカクビーチリゾートはフランス人の建築家のオーナーが自ら設計して建築したと言うだけあって随所にフィリピン人では考え付かない仕掛けとデザインが凝らしてありました。
しかし、全体がくたびれていて、今は昔の感がしました。
自慢のネイティブスタイルのコテージも半分は使用でず手入れもされていませんでした。
しかし最大の売り物である全長750mにおよぶ白砂のビーチは今でも美しく、これを見ているだけでも来る価値は有ると感じます。

リゾート内のダイビングサービスを探してみました。
もう午後4時を過ぎていたので帰り支度をしていたダイブマスターに話しを聞く事ができました。
彼曰く、わざわざAPO島をメインに潜っているDMGTから何しにこんな所へ来たの?と言う感じでした。
ここもやはり昔は凄かったんだがの話しになって、今は近場で潜っても魚が出なくなったと嘆いていました。

結局第3の目的だったダイビングの新ポイント開拓も敢え無く頓挫となりました。
もはやリゾートを満喫するしかないと開き直ってはみたものの、せいぜいビールを片手に夕日でも眺めるしか手は無く、他にすることが無くなってしまいました。
しかも、頼みの綱のビールの値段だけは一丁前にリゾートしていて高いので気楽に酔うことも許され無いのであります。

ボーリング場が有ると言うので、それでは一発と腰を上げてました。
しかし、ピンを並べるのが人力でして、どうにも間延びしたゲームになりそうなので止めました。
さてさて、ますますやる事がなくなってしまいました。
リゾートもこうしてみると何にもすることないねぇ。
翌日は早々にチェックアウトし、この地方の中心地となるDIPOROGの街へ行ってみました。

街へ行く途中に片側交互通行の橋が有り、信号機によって整理されていました。
セブシティーからドゥマゲッティーに来てしまうと信号機を全く見なくなるのでかなり新鮮な光景でした。
しかも、フィリピン人が皆して信号を守っているから不思議です。

DIPOROGの街に入ってドライバーに、記念のモニュメントなどは無いのかと尋ねましたが、なあーんにも無いとのことでありました。
通りすがりの旅の者の勝手な感想ではありますが、珍しく活気が無いと感じる街でした。

仕方が無いので街一番のデパートの前で降ろしてもらいましたが、これがまた観光土産になるような物が全く無い、実用品と日曜雑貨の店でありまして、ものの5分で出て来てしまいました。
スーパーキャットの出港は14時ですからあと3時間、どうやって暇をつぶすか困り果てました。
結局チキンバーベキュー屋に入って早い早い昼飯を食べながら時間を潰すしか無く、ビール2本で2時間も粘ってしまいました。

まだまだ早いと分かっていましたがDAPITANの港へ戻りぶらぶらしていて面白いポースターを見つけました。
それは貝類の採取、持ち出し、売買を禁止したポスターでした。
しかし、私が知る限りではこのポスターに掲示されている貝は全部簡単に手に入れる事ができるのであります。
バリカサグで出会うお土産売りは堂々度この手の貝を売っていますし、それを日本に持ち帰って咎められたという話も聞いたことがありません。

待ち合い室兼チケットオフィスになっている港の建物の中は乗船券を求める人でごった返していました。
チケットを買う時は行き先と氏名、年令、性別を書いた紙を差し出しますが時間が早いと窓口が開いていません。
良く見るとベニヤ板にくぎを立てたホルダーにその用紙が刺してありました。
これで並ぶ必要が無くなるのかと思い感激しました。
合理的と言う考え方から程遠いフィリピンでこれは画期的なことだと感動しました。

私は3つの目的を持ってミンダナオ島に上陸したのでありますが、その総てがあっという間に意味を失ってしまったのには驚きました。
恐るべしフィリピンの風、であります。

ミンダナオ島には北緯10度のドゥマゲッティーよりさらに暑い熱帯の太陽が照りつけていました。
フィリピンで何かをしようとしてもほとんど思ったようには事が運ばないのにはもう慣れっこですが、今回の畑を買う話はかなり真面目に考えていたので落胆は否めません。
しかしまあ、やっぱりフィリピンでありました。

外では土産用のフルーツが沢山売られていました。
ミンダナオは他の島に比べてフルーツの種類が多くすごく安いのです。
特にセブシティー等の都会へ向かう人は某かのフルーツを買っていました。

疲れたなぁと思って座る場所を探していたら、毛糸の帽子をかぶりジャケットを着たフルーツ売りのおばあちゃんが目に入りました。
私はおばあちゃんに「上着を着て毛糸の帽子をかぶって暑く無いの」と問いかけました。
するとおばあちゃんは「暑いよ」と答えてにこりと笑いました。

帰りは高速船のスーパーキャットで1時間30分、で料金はフェリーの一番安い席の2.5倍です。
冷房の効いた船室の椅子は快適で、寝ていたらあっと言う間でした。

  Kapoy kaayo ko・・・とても疲れました。

・・・では また

   ではまた

 (2002年 9月27日 書きました)


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