じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

思い出話し

2018-11-23 19:40:29 | 日記的雑談
昨日帰ってきたばかりなのに、それはもう遠い昔のように思え、記憶さえも断片になっている。

いや、ひょっとすると自分はあの街には行って居ないのかも知れない、と、そんな気さえするのです。

そー・・・あれは幻の街で、あの娘は蜉蝣であり、旅が終わった今は消えたのでありましょう。

なぁ~んて感傷的雰囲気から入っても、書くのが私でありますから、どーせお下劣な方向に話が流れるのは必至・・・だったら正攻法に時系列で並べましょう、と。


これはフィリピンでは無く仙台の中心部です

仙台空港からは遠くに仙台市街が見えます。
少し言い訳すると、デジカメのデジタル望遠で目一杯引っ張ったので画質がナニですが、まっ、雰囲気を見るということで。

小さな仙台空港は入国審査を終えると唐突に待合室に顔を突っ込むのであります。
そこで私はお気に入りの席に座り生ビールの中とカレーを頼むのであります。
そして、カレーをつまみにビールを舐め、まばらな飛行機を見たり、仙台市街や蔵王の山並みなど眺めるのであります。

自分が成田や羽田に行かなくなった理由はこれかも知れません。
地元の空港はなぜか尻が落ち着くのであります。
かつて成田を頻繁に利用していた頃にも定位置と言える席があり、同じようにビーフカレーとビールをやっていたんですけれども、そんなに落ち着く場所では無く、何と無く田舎者をあざ笑っている風に感じたものでありました。

自宅から駅まで車で10分。
仙山線に乗って20分弱で仙台駅に着き、空港線に乗り換えて20分であります。
乗り継ぎが上手くいくと1時間で空港につけるのは気持ちも体も楽であります。
まっ、掟破りとも言える韓国のアシアナ航空で行くのは少し気が引けますが、まっ、それを咎められるとしたら私は宮城県知事に大声で言いたい。
全日空でも日本航空でも東亜国内航空でも良いからもっと飛ばして便利にしてくれや、と。


インチョン空港で中国人を隠し撮り

インチョン空港は巨大であります。
今年は平昌オリンピックがあって第二ターミナルが開業しました。
それによってさらに大きくなったインチョン空港は規模では日本のどの空港よりも上回っていると言えます。

そして世界のハブ空港を声高に言うだけあって施設の充実度もそれなりに悪くは無いのであります。
例えば、ハブ空港ともなれば長時間の乗り継ぎ待ちの客は増える訳です。
が、この空港には誰にも気兼ね無く、しかも相当静かに寝ていられる場所が数箇所もあるのです。
日本の空港を含め自分が知る限りの空港でこんなにのんびり寝られる場所が多いのはここだけであります。

大嫌いな韓国ですけれども、正直に言って日本のおもてなし、こと空港に関しては完全に負けています。

そしてピンボケ・手ぶれのお写真は中国人の担ぎ屋です。
航空運賃が安いインチョンの免税店で買い物をしてとんぼ返りで中国へ戻る担ぎ屋がトランジットサービスエリアで荷物を小さくして詰め込んでいるところであります。

日本でも見られる光景ではありますが、その規模はインチョンの方が上だと、自分は思います。
そんなことに勝った負けたは無いのしょうけれども、中国人の購買力を当てにした日本の小売業もあるのを鑑みれば、負けているとも見えるのであります。


フィリピンの夜はどこも大渋滞

フィリピンもここ十年でめまぐるしく変わっています。
まず、車が増えました。
それも昔多かった、日本から輸入の中古車を左ハンドルに改造したものでは無く、フィリピンで生産されたトヨタの新車などが多いのであります。

まっ、トヨタよりも安いので韓国製のKIAやHYUNDAIも多いんですが、大型のピックアップやSUVはトヨタが勝っているようでありました。


ここは場末、メインの歓楽街はもっときらびやか

歓楽街は夜になると歩行者天国になって酔っ払いがふらついても大丈夫です。
タイにの歓楽街もホコ天になっていますが、規模で言ったらバンコクやパタヤやプーケットと比べたら可哀想なほどの規模であります。
しかも、店はよく潰れるようで時々看板が変わっていたりもします。

何よりも驚く変化は、20年前の上客といえば日本人だったのが、今は圧倒的に韓国人が多い事であります。
まっ、質的にどっちが上客かとフィリピン人に問うと間違いなく日本人と答えますが、量では圧倒的すぎて話になりません。
なのでホテルも食べ物屋も一気に韓国色に染まっているのであります。
ちなみにホテルの朝食にはキムチが出されていましたし、おかゆは「韓国式」と書かれていました。

看板も然りです。
かつてのフィリピンの観光地には日本語が溢れていましが、今はハングルが隆盛であります。
英語と日本語の表記から日本語が消え、変わってハングルがそこに収まっているのであります。
あの街の外れにはコリアンタウンができているので小さいながらも韓国の食材を売る店もあるのです。


夜のプールサイドと夜景

30年前のフィリピンは首都圏でさえ頻繁に停電していたのであります。
それほど電力事情は不安定で、だから信号機は機能せずで、設置はしてみるものの動かなかったのであります。

フィリピンの夜は真っ暗にならないのであります・・・これ、本当です。
だから停電の時にブラックアウトとは言わずにブラウンアウトと言うのであります。(今もそうだと思いますが)

東南アジアの安ホテルは停電が多いのでエレベーターが使えませんでした。
なので6階建てなのにエレベーターの無いホテルなんてのがあります。
まっ、少し立派なホテルや飲食店なら大型のディーゼル発電機で賄っていたのでさほど不便も感じませんでしたけど。


既出ですけど 昼飯のフィリピン ブレックファスト

この昼飯はフィリピン人用の朝飯でありました。
まっ、昼飯に頼んでも文句は言わないので頼んだんですけれども、メニューにこれを見つけた時は心の底から嬉しくなりました。

自分がフィリピンにどっぷりと浸かっていた頃、よく食べたものだったのであります。
この国の全てに翻弄されて必死だった頃に唯一心底美味いと思って安心して食べられたのがブラッドでありました。

チャンゲに行けば小銭で買えるフィリピン人の庶民のおかずなんですが、いろんな小魚が季節と地方によって微妙に違ってそれも楽しいのであります。

この日、セットに付いてきた二枚をあっという間に食べ終え追加で注文したんですけれども、お代を取らずに持ってきてくれました。
その時のウェイターとあれこれ話をしたんですけれども、自分がビサヤ語を話す事に驚くとともに、日本人である事も大いに喜んでくれたのでありました。

このホテルも御多分に洩れず韓国人が多いのであります。
ホテルの人たちは決してあからさまに区別や差別はしないのですけれども、今は少数になってしまった日本人に出会うと何故か喜んでくれるのであります。
それはまるで古くからの友人を歓迎でもするかのような優しい笑みで話してくるのであります。

フィリピン人が日本人に向ける笑顔は本当の友人に向けるそれだと自分は思うのであります。
たいして金も持っていないのに見栄っ張りで、本当は値切りたいくせに言い値で支払ってしまう気の弱い日本人がフィリピン人は好きなんであります。
言ってみればあの街の古き良き時代の「カモ」であった訳ですが、当時を知るフィリピン人も懐かしがっているのだろうと思うのであります。



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魔性の街か天国か

2018-11-23 17:02:22 | 日記的雑談
あの街は天国である・・・金さえ有れば、だが。

そんな街が世界には・・・いや、自分は東南アジアしか知らないが、貧困の国はある種の男にとって天国なのだ。

嘘だと思うなら行ってみるが良い。
産業などほとんど無く、農業や漁業とて自分らの腹を満たすのが精一杯で売り物になる作物など作れない、貧困国の田舎へ行ってみるが良い。
気の毒になるほど純真な娘が春を販いでいるから。

昔、自分が暮らしたフィリピンの街の近くでこんな農村の姿を見た。

そこは電気も水道も無く、携帯電話の電波も届かない山の中だった。
村というほどの集落も無く、急傾斜の山を切り開いた農地で主にバナナを栽培して暮らしていた。
水は雨季に降る天水をコンクリートで作った大きなタンクに貯めて凌いでいた。
電気は、大型のバッテリーを街で充電して使う人もいたが大半の家の明かりはケロシンランプだった。
煮炊きは竃で燃料は薪だから生活に光熱費は掛からない。

たいていの家は豚と山羊と鶏と水牛を飼っていて、水牛は畑の動力として使い、その他は換金ように育てていた。

その山の集落へは車やバイクが通れる道はなかった。
集落の子供らは片道5キロ以上も歩いて下の村の学校に通っていた。
学校で使うノートや鉛筆を買うくらいの収入はバナナや山羊や豚を商って十分得られていた。
だから集落の子供らは街場の貧困層よりも就学率が高く小学校を卒業すると大抵は高校へ通った。(小学と中学が一緒で上は高校)
山の集落は決して貧しくはなかったのだ、が、それは道ができるまでだった。

道ができたら生活が便利になる。
便利というのは無料では無いのだ。
道ができたら交通手段が欲しくなる。
山間部の集落にもバイクが走り出すのだ。
バイクを買うには金が要るし、走らせるのにはガソリンも買わなくてはならない。

バイクは豚や山羊を売っても容易には買えない。
そこで販売店に行って長期のローンを組む羽目になる。

さて、道路ができると電信柱が経ち電気が通る。
電気が通ると明かりを点けたくなるのは道理であるし、テレビだって見たくなる。
程なくして携帯の電波が届くと携帯電話だって欲しくなるのが人情である。

今まで固定費としての生活費がかからなかった集落の人たちは光熱費や携帯の費用やガソリン代やらで定期的に現金が必要になる。

この集落の収入源は農産物である。
バナナは年中収穫できるものでは無いし、手入れをしてから収穫するまでにはそれなりの期間もかかる。
鶏だって山羊だって毎月売れるほど育てられるはずも無い。

もう書かなくても察してもらったことと思うけれども、山の民は文明の語る「便利な生活」の罠に絡め取られたのである。

かくして長閑に何の憂いも無く暮らしていたはずの農民が現金に追い立てられ「労働」をしなくてはならなくなるのだ。

屈託無く5キロの道を歩いていた山の子供たちだって俄かにできたバイクタクシーで学校に通うようになり、毎日いくばくかの小銭を持たなくてはならなくなった。
現金の無い暮らしは不可能になったのだ。

末路というのは気の毒だが、働ける人は男も女も街に出るしか無くなる。
さて、元々産業に乏しく貧乏な国である。
昨日まで山でバナナを育て山羊と鶏を飼って暮らしていた農民に何ができるのか。
気の毒だが街に降りても仕事は無いのである。
それどころか山に居れば食うには困らなかったのに、街では雨風をしのぐ場所にも不自由し、食べるのも侭ならないのだ。

少し単純に荒っぽく書いたがこれが街に溢れるスクオッターや最下層の民の始まりの一つであるのは間違いない。

街に出て仕事も無く荒んでゆく男は山に帰らず刹那の快楽に走り、また悪事に走るものも多い。
そして山に戻って農業をする気力も失せた人は街の隙間に住み着き、最下層の民が拡大再生産されるのである。

これは山の人を書いたけれども海の人だって同じである。

そして、ここで表題の意味に戻るんだけれども、男に天国の夢を与える女もこんなところから始まっているのだ。
今でも田舎から出で来ては歓楽街に身を置き僅かな現金を得て親に仕送りをする娘は後を絶たない。

娘は生まれた時から貧困だったかもしれないが、その始まりはそんなに古く無い昔に、現金に追われて農民や漁民をやめたところから始まっているのだ。
だってフィリピンの街に電気が普通に通ったのは僅かに30年前で、山間部となるとここ十年の話なのである。
携帯電話も然り、家電製品も言わずもがなである。


と、単純に自分の見た状況から書きましたけれども、東南アジアでは戦争や内戦が原因のことも多く話は単純では無いのであります。
しかし、それとても根底は同じだと思うんであります。
貧困の素は物質文明なんであります・・・と。

おおっと、風呂が沸きましたので、尻切れですが、このへんで。







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盗作童話「最後の一葉」

2018-11-23 13:29:29 | 盗作童話

 とある村の庄屋に「鶴」という娘がいた。
鶴は幼少の頃から体が弱く、暑いと言っては臥せり、寒いと言っては、また臥せっていた。

今年の、長引いた梅雨の頃に体調が優れないと床に着いた鶴は、柿の実が熟れても起きられずにいた。

立冬を過ぎたある日、強い北風が吹いた。
翌日は寒くはあったが日差しがあり、陽だまりは暖かかった。
鶴は寝床を縁側の障子のそばに移してもらい横になったまま庭に目を向けていた。

初冬の、抜けるように澄んだ青い空に舞い散り落ちる木の葉を見ていた。
そして鶴は言った。
あの最後のひと葉とともに私も散るのかしら、と。

それはほとんど声にならない言葉であったが、ちょうど手入れに入っていた庭師の作造は聞き逃さなかった。

作造は見習いの頃から出入りし鶴の成長をずっと見て知っていた庭師だった。
いや、知っていたというよりも鶴の良き遊び相手でもあった。
病弱で屋敷の外に出ることの無い幼少の鶴は作造を遊び相手にしたのだ。
だから鶴は作造をよく慕っていた。

作造はよほど鶴の前に飛び出し、そんなことを言ってはいけない、気をしっかり持ってくれろ、と言おうとしたが止めた。
辛いのは聞いた自分では無く、思わず口をついてそんな言葉の出る鶴であると思ったからだった。

最後のひと葉は真紅に紅葉したもみじであった。
作造は鶴が眠るのを待って木に登った。
そして火で炙った松脂でもみじの葉を固めた。
これなら北風が吹いてももみじが落ちることは無い。

庄屋の庭は広かったので作造は手入れのために毎日出入りしたいた。
作造はあの日からもみじの葉の細工を欠かさなかった。

鶴は晴れていれば陽だまりを求めて床を縁側の障子のそばに移し、外を眺めていた。
木々はすっかり葉を落とし庭は寒々しい冬の景色になっていた。
しかし、その中に一点、真紅のもみじがいつもひと葉、どれぼどの北風吹いても飛ばずにいた。

鶴はそのひと葉が気になっていた。
いつかは必ず飛ばされるであろうもみじに己が明日を見ていたのだ。
そして言うのだった。
あのひと葉とともに私も散るのだ、と。

作造は落ちたもみじの葉をかき集めてあった。
北風に吹かれたもみじは1日と持たずに千切れてしまうのだ。
だからほとんど毎日付け替えていた。
これで、この葉っぱを見て鶴が冬を越してくれたらと作造は思ったのだった。

あれから幾日か経ち、もはや初冬は過ぎ、初霜から初氷を経て今朝は雪が舞った。
そんな日でも作造には庭の仕事があった。
そしていつものようにもみじの木に登り梢に枯葉を一枚松脂で付けた。
もみじの木はそこそこの高さでおよそ15尺もあった。
腕の良い庭師の作造は10尺でも12尺でも造作無く登れ、手早く作業をしていた。

もみじの梢に腕を絡め片足立ちをし、空いた手で懐の鳥黐を探っていた作造が何かの拍子に落ちた。
吹き付けた雪が氷となって作造の足を滑らせたのだった。
作造はもみじの下の氷の張った池に落ちた。
池が幸いして命に別状は無かったが強かに腰を打っていた。
しかし作造は冷たい池に浸かったまま唸ることもできずにいた。
やがては凍えて逝くことになるのは明らかだった。

障子を閉め奥で寝ていた鶴であったが大きな物音が気になった。
この日、庄屋の屋敷には誰もいなかった。
鶴についていた女中も一時ほどの暇をもらって外に出ていたのだ。
湯浴みと用足し以外ではほとんど起きることの無い鶴であったが虫の知らせる胸騒ぎにやっとの思いで立ち上がり、障子を開けた。

すっかり葉が落ちて見通せる先の池に異様なものを鶴は感じた。
よく目を凝らすと誰か人が池の中で蠢いているのが見えた。
鶴はとっさに作造であることを察した。

鶴は用足しに行くときの支えの杖を手に草履も履かずに庭に出た。
寝間着姿のままの鶴に北風が吹き付けていた。
おぼつかない足で池まで、やっとたどり着いた鶴は作造に、今助けてやるからと語った。

しかし鶴にそんな力が無いことは作造は知っている。
そんなことよりもこの寒さの中で寝間着一つの鶴の容体を気遣って、自分のことは構わないで屋敷に戻ってくれと懇願して言った。

だが鶴は聞かなかった。
「作造、最後のひと葉は貴方なのにどうして放っておけましょうか」と言うのだった。

作造は自分が池から出ないと鶴が動かないと分かり意を決した。
池に入ろうとする鶴を制して作造は、痛めていない右手で腰の棕櫚縄を探った。
そして探り当てた縄を鶴に投げ渡し、もみじの幹に巻いてくれろと頼んだ。

これも不思議であったがほとんど身動きできないほどに弱っていたはずの鶴が棕櫚縄を受け取ると素早くもみじの幹に結びつけたのだ。

作造は痛めていない右手に渾身の力を込めて引き、また、激痛の走る足で池の底を這いずった。
紅葉に結びつけた棕櫚縄を鶴も一緒に引いていた。
岸から這いずり上がるとき、作造に差し出された鶴の手は血が滲んでいた。
赤子にも等しい鶴の手は粗い棕櫚縄で痛めていたのだ。

作造は水から上がって震えていた。
歯の根も合わぬほどに震え言葉にならない声で鶴に礼を言った。
小さく華奢な鶴が作造を抱きかかえ、暖めようとしていた。

作造は、少し休めば動けるから屋敷に戻ってくれと懇願したのだが鶴は動かなかった。
このままでは自分ばかりか鶴を巻き添えにしてしまうと思った作造はもみじの幹に右腕を絡ませ立とうと試みた。
すると鶴が作造の左の腕の下に体を入れ持ち上げようとした。
鶴の髪が作造の顔の鼻先にあってとても良い香りを感じていた。

作造は思った。
死にたく無い、と。
閉じ込めていた鶴への想いが作造に力を与えた。

作造と鶴は互いに支えあい、どこから湧いたものか判らない力に助けられ屋敷の縁側にたどり着いた。

屋敷に上がった鶴は作造を裸にし自分の布団に寝かせた。
そして鶴も濡れた寝間着を脱ぎ作造の脇に身を寄せた。




 続かない・・・これでおしまい。





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