Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めてⅢ

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印が趣味です。
生きた証として好き勝手に書いております。(笑)

五流尊瀧院(2018年12月24日参拝)

2019年01月24日 | 仏閣
日本第一熊野十二社権現宮の境内横に見事な三重塔がある。

パッと見、神社のものかと勘違いしそうですが、
これは修験道総本山である五流尊瀧院のものです。

神社の真横に三重塔があるということは、
間違い無く神仏習合の名残りですね。



所在地:岡山県倉敷市林952
宗派:修験道
御本尊:十一面観音菩薩
創建:伝・大宝元年(701)
開基:伝・役小角の高弟


【縁起】
修験道の祖と言われる役小角は文武天皇3年(699)朝廷より訴追を受け、
熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された。

伝承によれば義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に、
熊野本宮大社の御神体を捧持し、3年にわたり各地を放浪。

役小角が赦免となった大宝元年(701)、
神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、
5人の高弟が尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建立した。

承久3年(122)承久の乱が勃発、三井寺長吏であった後鳥羽上皇の皇子覚仁親王が、
難を逃れてこの地に下った。

更に敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、
上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。

頼仁親王は衰退していた五流の寺院と十二社権現宮を再興し、
南北朝の頃まで繁栄し次第に衰微し尊瀧院のみが残った。

現在まで続いている当院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫と伝えられる。

室町時代になり応仁の乱が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれた。
応仁3年(1469)には細川勝元方に加担した覚王院の円海を中心とした兵により、
新熊野は焼き討ちにあい、ほぼ全焼した。

明治時代になると神仏分離令により、
十二社権現は熊野神社となり五流尊瀧院と分離。

明治5年(1872)修験道の廃止に伴い天台宗寺門派に属する。
太平洋戦争終結後、天台宗より独立し修験道総本山となる。


【三重塔】






この見事な三重塔は文政3年(1820)建立されたもの。

まだ若い塔だからでしょうか、
国では無く岡山県指定重要文化財です。


【案内図】



【鐘楼堂】


梵鐘は岡山県指定重要文化財。


【拝殿】


寺務所かと思ったが拝殿とのこと。

これは日本第一熊野十二社権現宮の本殿に対しての拝殿なのかな。

神仏習合の名残りだから有りうるかも。


【熊野十二社大権現】




さっきの拝殿は熊野十二社大権現のものかな。

でも、拝殿は本殿と同じ向きなのが基本だから違うのかな。

まぁ、いいや。(^^;


【吉祥坊・天満天神宮・三宝荒神】





【役行者像】



【役行者供養塔】



【後鳥羽上皇宝塔】








仁治元年(1240)前年に死去した後鳥羽上皇の一周忌供養の為、
頼仁親王と覚仁親王により熊野神社南方に供養塔を建立されたもの。

伝承によれば中には上皇の分骨が安置されているそうです。


【境内社】



【三重塔】


さて、これから数百メートル離れた本殿へ。


【山門】


近くに無料駐車場がありました。


【御庵室】



【庭園】







【護摩堂】









【不動明王】





【役行者像】



【本殿】




お寺なら普通は本堂と称しますが、
こちらは本殿となります。

しかし、堂内を見ると全く本殿らしく無い。

どうやら棟続きの五流会館の部屋のようです。


大久保利通は明治11年(1878)に暗殺されましたが、
襲撃された際に乗っていた馬車が五流会館に安置されているとのこと。

ただし、事前予約が必要です。


【鬼瓦】



【十一面観音菩薩】



【高徳社】



【五流稲荷大明神】




拝殿。




本殿。


【三宝荒神】





【庚申】





【庚申塔】



【福寿観音菩薩】





【御朱印】


書置きをいただきました。


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