人間とは、何と「無い物ねだり」の動物であることか。けさのネットの森の散策で、日課のように立ち寄った「団塊シニア」さんのブログに、こんな件(くだり)を見つけた。
「子供は独立、夫も亡くなり、何の病気も痛いところもありませ
ん、日々すべてに感謝して生きていますが私はもうこの世に必要
とされる存在ではないのでしょうね、むなしさのみです。
(80代女性)」
これは、読売新聞の「人生案内」に載った投書の一文とのことだが、私がこれを読んで「良いなあ、羨ましいなあ」と思ったのは、私が全身「痛いところ」だらけだからである。
夜、ベッドに横になっても、寝返りを打とうとするとズキンと痛みが走るから、身動きができない。朝、ベッドから起き出すときは、ズキンと来ないよう、そろり、そろりとカタツムリのように起き上がる。
ビタミンB−12を服用するようになってから、その痛みはだいぶ和らいだが、今度はなぜか痛みが右腕の肘関節部に移り、頭が痒くても掻くことができない。頭の痒みに耐えながら、私は日々、そんな自分を呪いながら生きている。
だから私は、「痛いところ」のない人が羨ましくて仕方がないのである。
この投稿女性は、なのになぜ「むなしさ」を感じてしまうのだろうか。思うに、それは「子供が独立」して、そばにいないからではない。「夫が亡くなり」、そばにいないからでもない。「この世に必要とされる存在ではない」からでもない。
この女性が「むなしさ」を感じてしまうのは、「痛いところ」がなく、気苦労の種がなく、悲しみの種も嘆きの種も、何もないからなのだ。
この女性の不幸の原因は、不幸の種が何もないことにある。いわば「贅沢な病」なのである。
ならば、「痛いところ」だらけで、「嘆きの種」を抱え込んだお前は、さぞ幸福なのだろうな。羨ましい、とおっしゃる人もいるだろうが、さにあらず。「嘆きの種」をしこたま抱え込めば、やはりその人は幸福ではいられない。「嘆きの種」もほどほどで、ちょっとだけならいいんだけれどねぇ。