娘たちの一家はきのうの夕方、わが家を出て東京に帰っていった。「サンデー毎日」状態の私は知らなかったが、きのうのあす、つまりきょうは祝日ではなく、会社や学校に行かなければならない日なのだとか。
娘の一家が帰ると、孫たちの騒々しいどたばたの賑わいは消え、急に寂しくなったわが家は、火が消えて、ぽっかりと大きな空洞があいたようだ。
娘たちがやって来たばかりの3日前は、その賑わいがうまく飲み込めず、戸惑い、持て余しているジイジの私だった。その賑わいが消えた今は、そのあとにあいた空洞をうまく飲み込めず、戸惑っている私がいる。
この喪失感は、老いの感覚によく似ていると私は思う。歳をとるとともに、それまで出来ていたことが出来なくなる。「出来ていたこと」が次々と失われていく。その喪失感が、「ああ、俺も老いぼれたものだなあ」という老いの感慨の核心をなしているのだと私は思う。
しかし、要は気の持ち方であり、ものの捉え方である。私が失った「出来ていたこと」、私から離れていったそういう諸々の能力は、いってみればウ●チのようなもので、この私、現在の私を培った滋養分の残り滓だと思えばよい。
ウ●チは、あまり長く体内に留めておくと、いずれ毒素に変わり、身体を蝕む病気の原因になる。ウ●チが身体から出ることは、身体の健康を保つための自然の生理であり、むしろ歓迎すべきことなのだ。そうした生理現象を嘆いてみても始まらない。自然の生理は、それこそ自然な気持ちで、泰然自若と受け入れるべきなのだ。
でも。でもなあ・・・。あの可愛い孫の○○ちゃんが、ウ●チと同じだって? ○○ちゃんが東京に帰っていくのは、ウ●チが体外に出ていくのと同じだって? う〜む。
尤もらしく珍説をひねり出してはみたものの、ちょっぴり、というか、かなり無理があるような・・・。