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愛の実践はあなたに長寿を約束する

2021-04-30 10:36:25 | 日記
愛行即ち愛の実践とは
人様を助け、はげまし、
人様に生きる希望を与え、
元気を与えることであり、
何よりも真理を人に伝えることである。
単に宗教的行事に参加する事だけが
「愛行」ではないのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【あなたの実相は“神の子”である。神は愛であるから、“神の子”たるあなたには神の愛が宿っているのである。神は無量寿の生命であり老いないのであるから、あなたが、内に宿る神の愛を外にあらわして、常に人々に愛を施し、常に人々に深切を尽くすならば、そこに神があらわれるのであるから、あなたに於いて、神の無量寿があらわれ、あなたは長寿の生命を生き、老いる事がなくなるのである。不老長寿の生命にまで新生するために、愛行を実践するほか仕方がないのである。】

自己を青年と描いて自己を凝視せよ

2021-04-30 10:26:07 | 日記
毎日雅春先生の書かれた聖典を読み、
人様にしてあげたい何かを実行し、
行動をいのちの発動と考え、
聖経『四部経』を読誦し、
神想観にいそしむ者には
老衰などは存在しない。
神の道を歩む人は
学ぶことしたい事で一ぱいだから、
老衰する閑なんて存在しないのである。
「いのち」自体が「動」であるから、
その点を外してはならない。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【老衰を見つめて心を暗くすることを止めよ。心に見つめるものがあらわれて来るのである。あなたは自己を青年として見つめなければならない。青年を見よ、常に活動的である。常に何かを為ていなければならないのである。青年は創造的である。青年は必ず前途に希望をもつ。青年は前進的である。希望をもって前進するから青年は若いのである。また若いから希望があり、前進するのである。創造的に建設的に前進する者は暦(こよみ)の年齢に関わらず常に若いのである。前進することを止めた時には暦の年齢に拘わらず老衰する。新生するためには常に愛行を実践し建設的に何らかの創造的活動を営み、“光の心”・・・・明るい心をもって、前途に希望をもたねばならない。】
 
 

2021年4月勉強会資料

2021-04-29 22:16:36 | 日記
ズバリ言えば、現象世界は「神の国」(実相世界)そのものである。人間の「心」自体が非実在なのである。
2021/4/30
現象世界が自分と共に“いま・ここ”に存在しているということは、
自分の本体である“神の子”が
まさに現象の奥の奥に実在して在しますことを
意味している。
何故なら現象世界とは、
人間の本体理念である“霊なる実相”の
(人間の五官の働きを介しての)、
時間空間世界における「現象展開」に他ならないからである。
見えない霊的実相を見えるようにする働きが、
神の子の肉体化が行われた際に、
神により与えられているのである。
実相‟神の子”という聖なる向上理念(人間の設計図)を基にしつつ、
肉体人間の「自由なる心」は、
現象世界において心の創造活動を行うのだが、
その現象世界は実相世界の展開体であるがゆえに、
実相(霊)を離れたことは一度もなく、
実相の理念体であることは、
生れた時から、他界の時まで
ずっと変わっていないのである。
アサガオの成長が霊(神)の働きであることと同一である。
ズバリ言えば、
現象世界は「神の国」(実相世界)それ自体である。
人間の「心」自体が非実在なのである。
 
“死は無い”し“老い”も無い
2021/4/27
人間は“神の子”なる人間の理念即ち「設計図」を本体とする。
実相アサガオなる「霊」と同様だ。
アサガオを表現する「神」がアサガオの本体である。
本当の人間は
人間を現わす「見えない神」である。
このものが現象世界の展開を司る。
現象が存在しているのは設計図があるからだ。
死があろうと老があろうと
それを司る設計図は不変だ。
現象が如何に変化しようとも
設計図自体は「神」(霊)であるから、
変わりようがないのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【現象の奥にある、実相を見れば、“死は無い”のである。現象は時間の流れの中にあって移り変る。移り変るという事は、先にあらわれていたものが消えて次のものが顕われて来ることである。先にあらわれていたものが消えるのは本来無いものだから消えるのである。そんな生滅するものは本来ないのである。本来無いものに心を引っかからせて悩むことはないのである。移り変るものの奥にある常住なるものを見よ。常住なるものこそ本当の実在であり、あなたの“本当の自分”であるのである。“本当の自分”は“神の子”であり、常住不滅の存在である。常住不滅の存在が“あなた”であり“わたし”である。そこには“老”もなければ“死”もないのである。悟道の人は現象を超えて常に実相の完全さを見る。従って現象的にもその完全さがあらわれて、地上の使命を完うしてから逝くのである。】
 
“死は無い”し“老いも無い”
2021/04/29
人間は“神の子”なる人間の理念即ち「設計図」を本体とする。
実相アサガオなる「霊」と同様だ。
アサガオを表現する「神」がアサガオの本体である。
本当の人間は
人間を現わす「見えない神」である。
このものが現象世界の展開を司る。
現象が存在しているのは設計図に則っているからだ。
死があろうと老があろうと
それを司る設計図は不変だ。
現象が如何に変化しようとも
設計図自体は「神」(霊)であるから、
変わりようがないのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【現象の奥にある、実相を見れば、“死は無い”のである。現象は時間の流れの中にあって移り変る。移り変るという事は、先にあらわれていたものが消えて次のものが顕われて来ることである。先にあらわれていたものが消えるのは本来無いものだから消えるのである。そんな生滅するものは本来ないのである。本来無いものに心を引っかからせて悩むことはないのである。移り変るものの奥にある常住なるものを見よ。常住なるものこそ本当の実在であり、あなたの“本当の自分”であるのである。“本当の自分”は“神の子”であり、常住不滅の存在である。常住不滅の存在が“あなた”であり“わたし”である。そこには“老”もなければ“死”もないのである。悟道の人は現象を超えて常に実相の完全さを見る。従って現象的にもその完全さがあらわれて、地上の使命を完うしてから逝くのである。】
 
 
“実相は実なり”
2021/04/28
蓮華蔵世界海の中央にまします毘盧遮那如来というのは、
キリスト教でいえば「神」のことである。
尽十方にいます如来の分身は「神のコトバ」に相当し、
人間は如来の分身である。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【「実相は空なり」という仏教者が、私が“実相は実なり”と『生命の実相』の中で説いたことに反論して来られたことがあるが、“空”が単に“空しい”という意味の“空”であれば、それは“空見外道”の見であって、釈尊の説かれた仏教ではないのである。空中無尽蔵・空の中に無限に尽きぬアイディアがあり、その無限のアイディアの展開が華厳経に説かれている蓮華蔵世界海である。中央に毘盧遮那如来がましまし、尽十方にその如来の分身がいますので、われわれ一人一人のうちにその如来の分身がましますのである。その一人一人の分身であるわれわれの身体の細胞のひとつひとつにまた更に如来の分身がましますのである。これを「実相は空無にあらずして実なり」と私はいうのである。その真理を知ることによって、われわれはすべての人間が“如来”であり、“神の子”であり真実相を見て、相互に礼拝することが出来るのである。】
 
 
この宇宙は如来の真理の説法の展開である・・・つまり実相世界であるということです。
2021/04/28
華厳経の経文は、聖書の「ヨハネ伝」の冒頭と同一の真理を、
別方向から説いているのです。
実相の「実」を説いているのです。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【“法”はノリであるから“法界”は“コトバの世界”である。この華厳経の経文は、聖書の「ヨハネ伝」の冒頭にある「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万(よろず)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし、之に生命あり、この生命は人の光なりき」に対応して同一の真理を述べた一節である。
「この妙法界は悉く皆如来身に充満し」と華厳経の説くのは、“妙法界”(コトバ)は、“如来身”(神)と偕(とも)に在りという聖書の「ヨハネ伝」と同一文句の異なる表現に過ぎないのである。
 その宇宙に充満している如来身(即ち廬舎那仏)は衆海・・・諸々の世界海の中で“正法”即ち“真理の説法”を演説していられるというのは、如来の真理のコトバの説法の展開が真実世界の実相であるということである。】
 
現象世界は“神の子”の国である。
2021/04/24
1現象世界を丸ごと動かしているのは“隠れている神の子”(自分の本体)である。
パソコンやテレビを陰で隠れて動かしている。ズームで誌友会を開くことを陰で隠れて行っている。アサガオの成長を陰で隠れて行っている。雨を陰で隠れて降らす。ドトールの店員の仕事を陰で隠れて行っている。現象世界を丸ごと陰で隠れて動かしている存在がある。
すべて見えない神(自分の本体“神の子”)がやっていること。
自分の現象は自分の“神の子”の働きで動いている。
(始めに言があった。言肉となって我らの内に宿った)。三界は唯心(言)の所現。
現象世界は神の国。見えない「知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」の国。
「現象ナシ実相あるのみ」とはこのこと。実相独在。
現象世界は神の言の躍動する神の国。
2 実相を現象顕現するには、実相を「信」じて「観」じることである。
もう一つ大事なことは「つかみを放して実相に全托」する。
この世の本体が「神の子・神の国」と本気で「信」じないと「観」ができない。
実相現象化のための三つのこと・・・実相第8巻『無限生命に汲む道』
(1)自己生命について、神なるその本来の面目を念う。
(2)本来の面目のみを念ずる。
(3)本来の面目のみが存在のすべてであると知る。
「神の子」「神の国」だけが存在していると、本当に「信」じること。
信じれば「観」じることが顕われる。現象のつかみを放して神に実相円満完全を任せる(これが易しくはない)。
“神の子”を本当に「信」じて任せることが鍵となる。

自分を“神の子”に明け渡すと
“神の子”が出てくる。
 
 
吾々の力はその95パーセントは使わずに眠っている。祈りと神想観とは自己の中にすでに内在する所の「実相の無限力」を目覚めしめ、それを現実界に導き出すものである。
2021/04/04
私たち人間の本体は神なのである。
だがほとんどの人はこの事実を知ろうとしないのである。
だから、自分が神に属する無限能力を持っているにもかかわらず、
それを使うことが出来ず苦しむのである。
だから気づくように知らせるのである。
知らせたらそれを自主的に顕わすべく働きかけるのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【考えてみるに、人間は大抵自分自身の本当にもっている力の百パーセントを発揮していないのである。多くの人々は自分自身を過小評価しているのである。もっともっと力があるのにこの位で結構だと中途半端の所で停止していようとするのである。その停止が余りにも自分の能力以下の所である場合に、問題が出現して吾々の力をしぼり出してくれるのである。
 吾々の力はその95パーセントは使わずに眠っていると云ってもいいのである。人類の不幸は、余りにも人間を弱小なるもの、卑しきもの、地球に生えた黴(かび)の如きもの、塵(ちり)の中からわきでた蛆虫(うじむし)の如きものと考えすぎているのである。多くの人達はそれほどはっきり自分の弱小さを考えてはいないかもしれないけれども、潜在意識の底では、人類の通念として、何人もかかる弱小感をもっているのである。この弱小感の迷妄を破壊して、自己の内に内在する無限力を発揮するために必要な修行が祈りであり神想観であるのである。祈りと神想観とは自己の中にすでに内在する所の「実相の無限力」を目覚めしめ、それを現実界に導き出す所の力たらしむる所のものであるのである。】
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

落葉と見える中に本当は百華爛漫が既に隠れているのである。常に、現象の奥にある常住の繁栄を見る者は“智慧ある者”である。

2021-04-29 11:07:26 | 日記
すべての現象の奥には
見えない「神の国」が実在する。
根底に「神の国」(実相世界)があるから
現象世界が展開する。
現象世界には沈滞や衰退があるかもしれないが、
実相には常住の繁栄があるのみである。
吾等はその実相を観て、
実相の豊かさを
「信」じることが大切だ。
実相世界はただに「円満完全」である。
実相を現象に現わすということは、
「神の国」の素晴らしさをを現象に実現することなのだ。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【疲労は疲労のためにあるのではなく、疲労回復のためにあるのである。それは樹木の落葉と同じように生命のエネルギーが内に沈潜して自己を養い一陽来復の春が来たとき爛漫たる百華を咲かせんがための下準備を成しつつあるのである。不景気や事業の停頓もやがて景気来復の下準備に経済界がエネルギーを内に沈潜して力を養いつつあるのだということを知らねばならぬ。どんな経済界も永久に沈潜して、景気が再来しなかった実例などはないのである。神は現象の奥に、常に向上一路の不屈の力を携えて常に前進をつづけつつあるのである。悲観したり、絶望したりすることを止めよ。百華爛漫の春が来ることを神は保証し給うているのである。一粒の種子を見ても、その外観の小ささを見ないで、その現象の微小なる姿の奥に、既に亭々と伸びる巨樹の原型があるのである。常に、現象の奥にある常住の繁栄を見る者は“智慧ある者”である。】
 
 

“死は無い”し“老いも無い"

2021-04-29 10:38:43 | 日記
人間は“神の子”なる人間の理念即ち「設計図」を本体とする。
実相アサガオなる「霊」と同様だ。
アサガオを表現する「神」がアサガオの本体である。
本当の人間は
人間を現わす「見えない神」である。
このものが現象世界の展開を司る。
現象が存在しているのは設計図があるからだ。
死があろうと老があろうと
それを司る設計図は不変だ。
現象が如何に変化しようとも
設計図自体は「神」(霊)であるから、
変わりようがないのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【現象の奥にある、実相を見れば、“死は無い”のである。現象は時間の流れの中にあって移り変る。移り変るという事は、先にあらわれていたものが消えて次のものが顕われて来ることである。先にあらわれていたものが消えるのは本来無いものだから消えるのである。そんな生滅するものは本来ないのである。本来無いものに心を引っかからせて悩むことはないのである。移り変るものの奥にある常住なるものを見よ。常住なるものこそ本当の実在であり、あなたの“本当の自分”であるのである。“本当の自分”は“神の子”であり、常住不滅の存在である。常住不滅の存在が“あなた”であり“わたし”である。そこには“老”もなければ“死”もないのである。悟道の人は現象を超えて常に実相の完全さを見る。従って現象的にもその完全さがあらわれて、地上の使命を完うしてから逝くのである。】