gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ローマ人への手紙

2017-11-30 11:26:02 | 日記
<ローマ第9章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
神の自由な選び(9・14-29)
(19)そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
(20)ああ人よ、あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
(21)陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。
(22)もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
(23)かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
(24)神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

何故神想観が欠かせないのか

2017-11-29 11:33:07 | 日記
何故神想観の修行が
私たちに必要であるかというと、
現象生活をしていく上で、
楽しく、安全に、また幸福に
生きて行く必要があるからであり、
そのことが確実になされるためには
神様の御力を借りることが
欠かせないからであります。

(参照 大聖師御講義『続々甘露の法雨』谷口清超編纂 日本教文社 p667)
こうして「現象の自分」(人間の物質面)は常に「物質の法則」に接触し、それと連関して生活しているのでありますが、われわれの“心”が、常に人間の“実相”の本地に住して、実相の叡智によって導かれて現実を生活するとき、「物質の法則は汝を支配すること能わず」というようになります。そして却って、自分が「物質の法則」を自分の生活の方便として駆使し、その法則を逆に支配することができるようになるのであります。この事を法華の三部経の『感普賢菩薩行法経』には、
「無量の勝方便は実相を思うより得」
と示されているのであります。そういう境地に達するには、実相を思う修行―すなわち神想観を毎日怠らず実習することが必要なのであります。


ローマ人への手紙

2017-11-29 10:56:04 | 日記
<ローマ第9章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
神の自由な選び(9・14-29)
(14)では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
(15)神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
(16)ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
(17)聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
(18)だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

すべての人間は何らかの価値体系を必要とする

2017-11-27 10:36:04 | 日記
アブラハム・マスローは、
すべての人間は
生きてゆくために、
何らかの価値体系を必要とする、
言い換えれば
価値体系が無ければ生きていけないと、
この問題について共同研究したディア・グエレロと共に、
次のような原則を挙げている。
(参考 真実の人間アブラハム・マスローの生涯 エドワードホフマン 上田吉一訳 誠信書房)
【この論文の終わりに、マスローとディア・グエレロは、その共同研究の成果として、いくつかの主要な原則を挙げている。

一.子どもを含め、すべての人間は一貫した価値体系を必要とする。
二.広範な文化のなかで、価値体系の欠如は、ある種の心理学的混迷をもたらす。
三.個人は、一貫した価値体系を切望し探索するであろう。
四.人びとは、まったく何もないこと―すなわち、完全な無秩序よりも、いかに不満足であっても、なんらかの価値体系を選ぶものである。
五.もしも大人の価値体系がないならば、子どもや若者は仲間の価値体系を取り込むであろう。】

マスローのこの指摘は、人間の生というものについても、人間教育においても、大きな示唆を与えてくれるものだと、私は感じた。



ローマ人への手紙

2017-11-27 09:55:33 | 日記
<ローマ第9章>
イスラエルの救い(9・1-11・36)
神の選びの計画(9・6-13)
(6)しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
(7)また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
(8)すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
(9)約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。
(10)そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリべカの場合も、また同様である。
(11)まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
(12)わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。
(13)わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。