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<“科学的祈り”(神想観)の原理と方法>

2019-08-31 11:58:53 | 日記

アディントンは『奇蹟の時は今』(谷口雅春訳)の中で「天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。」と書いている。

この自覚は「生命の実相」の真理を学び、“科学的祈り”(神想観)を繰り返すうちに次第に到達してくる自覚である。“神の国”が「自分の心の中に既にある」という自覚であるとしたら、自分が真理を学びその自覚を深めればよいのである。

だからといって“神の国”は主観的な空想の世界ではなく、実在の世界である。聖書研究家であり牧師かつ神癒指導者のアディントン氏の説明は、キリストの説いた教えの素晴らしさを伝えてくれる。天国とはそれが私たち一人一人の心の中にあるという自覚であるのであって、その「神の国」に“神の子”なる完全なる自分が、神と共に初めから存在しているのである。

神想観で瞑目合掌し、「われ今五感の世界を去って実相の世界にいる」と言えばもうそこは神の国(実相世界)である。そこには自分の本体である“神の子”が創造の神の御許に居るのである。だから「神の子円満完全「実相円満完全」と観じて、自分が“神”と共にいられて円満完全の“神の子”なる事実を言葉で観じつつ感謝で受けるのである。それを続けていけば“神の子”の自覚がだんだんと深まってくることになるし、現象に“神の国”の素晴らしさが現実に顕われて来るのである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)

【<神の国は汝の内に在り>

イエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(ルカ伝第17章20~21節)と答えたのであった。われらは  “天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である。そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らのうちにある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えることはできなくなるのである。】

 


暗かったらすぐに光をともす=神〔実相〕に任せてしまう

2019-08-31 10:41:10 | 日記

中学の数学の復習である。

(-5)は符号をマイナスからプラスに転じれば

(+5)へと変化する。

現象に実相の不在(マイナス)の状態が現われていても

それが神の力でプラスに転じれば、

むしろマイナスであったことが

今後の人生に生きるのである。

「神の国」は手許(at hand)に在るのだから、

それが実相の現象へのマイナスイメージの投影であるとしたら、

そのマイナスをプラスに転化させることだけすれば

よいのではなかろうか。
一気に極楽世界の誕生など
考えなくてもよいのではないか。
現象が素晴らしい状態になればそれでよいのだ。

その方法は“科学的祈り”(神想観)であり、

実相への「信」である。

「信」が不充分と思われるなら、

「信」の形成を

絶対他力の無条件全托により、

神に委ねることである。

一つの方法として

実相の不在的ことがらのあるごとに、

「・・・が解決しましてありがとうございます」と
具体的にその問題の解決をノートに筆記して

奇蹟の手帳みたいに筆記して神に任せる方法もある。

問題があったらすぐに神に全托することを

考えるべきである。

光がないから暗いのであって、
暗かったら明るくする方法を考えて

直ちに光をともせばよいのである。

神の力しか存在しないのだから、

実相に任せるのが一番よいのである。


「宇宙には唯一つの力(神の力)しかない」ということは、「実相が独在する」ということなのである。

2019-08-31 10:01:16 | 日記

人はいかなる困難な場面にある時にも

それは

実相の現象展開する過程である。

その展開は真象(実相の反映)である場合もあり

偽象(迷いの反映)則ち実相の不在である場合もあるのだが、

いずれにせよ

完全なる実相理念が、

現象全体に貫かれていることには

間違いがないのである。。

つまり実相(神の力)独在なのである。

どんな困難な問題に直面している時にも、

神の力は利用できる状態(at hand)になっているのだ。

“科学的祈り”(神想観)によって、

実相を祈ればよいのである。

実相独在ということが、

神の力以外は存在していないと

いうことである。

今日の部分では

「宇宙には唯一つの力しかない~神の力しかない。しかもその唯一の力は常にあなたに利用されるように準備されている」ということと

「何故なら、あなたの内に神の国があり、その栄光は永遠のものであるからである」ことの二つが

大事である。

「神の国」は手許(at hand)にあり、

その「神の国」からの救済は

実相を祈り、実相に全托すれば

神格の内流として啓示されることに

なっているからである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)

【わたし達が忘れてはならない事のすべては、神癒の道を本当に理解し、しかもそれを実行して美事な成果をあげたイエスの教えに随順するということである。奇蹟には色々の面が宝石の彫琢された反射面のようにあるが、そのうちの幾らかに私は照明を当て、イエスがそこに教えたところの真理のうちの若干を解明しようと試みたわけであるが、読者自身、聖書に録されている神癒の奇蹟を繰返し繰返しお読みになるならば、また別のアイディアが心に“ひらめいて”来られるであろうと思う。あなたが、本当にその瞬間必要とせられる事柄~あなたにとって今重要な事柄~をあなたはそのアイディアの“ひらめき”の中に気がおつきになるであろう。あたかも、そのちょうど重要な瞬間のために聖書が書き遺されているかの如くにである。宇宙には唯一つの力しかない~神の力しかない。しかもその唯一の力は常にあなたに利用されるように準備されていることを忘れてはならないのである~何故なら、あなたの内に神の国があり、その栄光は永遠のものであるからである。】

 


「わが救いは神よりぞ」(詩篇第62篇1節)という真理を素直に受け取った人々によってのみ神癒は行われていることを見出すのである。神の創造の法則(実相)への信である。

2019-08-31 09:37:01 | 日記

「なんじの信仰なんじを癒せり」

そして「救いは神より来る」

「神のほかに此の世に力は存在しない」

ということは、

神の力が発現するには

どのようにすればよいのか、

ということになる。

実相への信仰であります。

これは「信」と「観」によるしかない。

それは“科学的祈り”(神想観)の目的と同じように、

「神の創造の法則」を働かせること、

実相世界の現象顕現以外にはない。

イエス・キリストの教えそれ自体である。

神の国においてはすでに与えられている、救われている、

と云う信仰だ。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)

【わたしは何もこの現象に私的な依怙贔屓(えこひいき)的説明をしようとするものでないことを知って頂きたいのである。実際、わたし自身祈りを実践して来たのであるが、世界の人々が奇蹟と称して来た現象に比較すれば、それ以上のものがあるのである。第3章に於いて著者が説いて来た如く、心霊治療家は患者に対して、全能の神に対する彼自身の信仰を念送して移入する。もし患者が癒されんと欲するならば、神の全能の力が働いて彼は癒されるのである。あらゆる神癒の共通分母とも称すべきものは、やはり、イエスが言った言葉の中に見出されるのである。即ち彼が「なんじの信仰なんじを癒せり」とか「なんじの信ずる如くなんじに迄成れ」とか言った“それ”である。著者アディントンも神癒の媒介となったことがあるが、われみずからにては何人をも癒したことはないのである。われわれの同朋として、パウロは「神のほかに此の世に力は存在しないのである」(ロマ書第13章1節)と云った。この真理を理解することはきわめて重要である。なぜなら、一体全体、神の力なくして神癒はあり得ないからである。聖書全体を通じて、「わが救いは神よりぞ」(詩篇第62篇1節)という真理を素直に受け取った人々によってのみ神癒は行われていることを見出すのである。】