アディントンは『奇蹟の時は今』(谷口雅春訳)の中で「天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。」と書いている。
この自覚は「生命の実相」の真理を学び、“科学的祈り”(神想観)を繰り返すうちに次第に到達してくる自覚である。“神の国”が「自分の心の中に既にある」という自覚であるとしたら、自分が真理を学びその自覚を深めればよいのである。
だからといって“神の国”は主観的な空想の世界ではなく、実在の世界である。聖書研究家であり牧師かつ神癒指導者のアディントン氏の説明は、キリストの説いた教えの素晴らしさを伝えてくれる。天国とはそれが私たち一人一人の心の中にあるという自覚であるのであって、その「神の国」に“神の子”なる完全なる自分が、神と共に初めから存在しているのである。
神想観で瞑目合掌し、「われ今五感の世界を去って実相の世界にいる」と言えばもうそこは神の国(実相世界)である。そこには自分の本体である“神の子”が創造の神の御許に居るのである。だから「神の子円満完全「実相円満完全」と観じて、自分が“神”と共にいられて円満完全の“神の子”なる事実を言葉で観じつつ感謝で受けるのである。それを続けていけば“神の子”の自覚がだんだんと深まってくることになるし、現象に“神の国”の素晴らしさが現実に顕われて来るのである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【<神の国は汝の内に在り>
イエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(ルカ伝第17章20~21節)と答えたのであった。われらは “天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である。そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らのうちにある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えることはできなくなるのである。】