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2020年11月勉強会資料

2020-11-30 11:05:15 | 日記
諸君は自分が真理を自覚したと云うことを情(こころ)の底より感じたとき、そしてそれを知った時、諸君は成功の山巓へ半ばまで登ったのである。
2020/11/21
真理を学びそれを自覚すること、
そして神への信仰が、
成功の山巓へと導くのである。
そして「吾れ信ず」と確言できるとき、
もう不退転となり、
安心感に満たされるのである。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【いよいよ益々吾等が熱情的に健全の大道に身をうちまかすならば・・・・すなわち吾等が信仰の海を航海する勇敢さの度が増すに連れて、吾等の成功の確実さの度は増すのである。それ故に、吾等のうちで、真理に対する最も熱心な狂熱的な信奉者が神の王国を獲るのである・・・それは勝利の戦いの褒賞である。】
【信仰の境涯に一切を打ちまかすことは、成功にかくべからざる条件である。信ぜよ! 信ぜよ! 信ぜよ! どん底より情(こころ)を動かせ! 知れ! 「知ることは力である」。諸君は自分が真理を自覚したと云うことを情(こころ)の底より感じたとき、そしてそれを知った時、諸君は成功の山巓へ半ばまで登ったのである。諸君は幸福である、そしてそれは神の如き幸福さである。そこにはもう退転のおそれはないのである。諸君の魂の楯の上にこの一語を書いて飾りとせられよ・・・「吾れ信ず」と。他に何らの標語も要しない。】

「素直」と「幼な児の心」で神の恩寵をそのまま受けることが「新たに生まれる」神秘的鍵である。
2020/11/23
谷口雅春先生は「新たに生れる」神秘的鍵を
ご提示くださっている。
神想観の極意である。
これができれば、
「新たに生まれる」ことが可能となるのである。
サラっと書かれているので人は気づきにくい。
気づいた人は
新たに生まれることに
近づいている人である。
『神と偕に生きる365章』に<神想観の神髄>という記事があり、
ここで神想観の極意というか神随が書かれている。
この部分は雅春先生のお書きになったところの
「最重要記事」といえる。
その神想観の方法とは
「幼な児」の心で“神の子”であることを、
素直に感謝して受けることである。
簡単すぎ、またアッサリし過ぎて人は注意しないだろう。
だがこれが実相顕現の秘密の鍵である。
(神と偕に生きる365章 谷口雅春)
<神想観の神髄より>
【「素直」と「幼な児の心」とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。この「幼な児の心」を恢復することが「新たに生まれる」と云うことである。理屈を言わずに、「人間は神の子である」と言われれば、それを素直に承認して「ありがとうございます」と感謝することである。「人間は神の子であり、本来病いはないのだ」と教えられれば、たとい現象的に病いがあらわれておろうとも、そんな病いはないのであってそれは恰(あたか)も「夢」を見ているようなものである。夢は体験としてあっても、夢にある内容は実際起っていないのである。その如く病いの苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病いは存在しないのであると、完全にその病いを心の内から否定するのが「幼な児の心」と云うものである。「何故、無いものが“ある”として感じられるか」などと理屈を言うのが“知恵の樹の果”をたべる事である。】
投稿者である私は
このように考えている。
神想観とは、
「既に“神の子”(神)を神様から与えられ済み」であることを
神様に対して認めること、
であると。
「吾れ信ず」である。


神想観の本質は唯「神」を素直に受けるにある・・・実に分りやすい谷口雅春先生の“神想観”のご定義
2020/11/18
谷口雅春先生は
「神を自己の内に見出し、それを受けることが最初の出発であり、最後の結着でなければならない。」
「神はすべての「善」である。神以外のものを求める必要はないのである。」
とお書きになっている。
神想観のやり方について
「神想観は「神わが内にありたまい、われ神の内にある」実相即ち真実を観るのである。」
と‟神想観の方法”について
結論付けておられる。
これほど明確な神想観に関する雅春先生のご説明は
他に見当たらないと思う。
(神と偕に生きる365章 谷口雅春)
【神想観は「内部的生まれ更り」をするためにこそ行ずべきである。「神」を自己の内に素直にみとめるのである。「神」は既に汝の内にあるけれども幼な児の心で素直にみとめない時はあらわれないのである。神想観は「神わが内にありたまい、われ神の内にある」実相即ち真実を観るのである。神は一切の“善き物”を自己の内に蔵したまい、それを我らが素直に受けることによって、その「善き物」が現象的にも展開するのである。神を自己の内に見出し、それを受けることが最初の出発であり、最後の結着でなければならない。神と別なるもの、神の善意に相反するもの、他を押しのけて自分が利益を得るもの・・・それらのものを神想観中に求めたりするならば、それは神想観の本質を破壊してしまうことになるのである。神はすべての「善」である。神以外のものを求める必要はないのである。】

この世界の現象は悉く、「唯一絶対の霊的実質」が(いわゆる物質という)形で表現されているに過ぎぬのである‼
2020/11/17
現象すべてが
「唯一絶対の霊的実質」の
いわゆる物質的表現である。
自己の本体である“神の子”実相の展開である。
現象世界を統べているのが、見えない‟神の子”であり、
人間の意識を司る超次元の霊的存在だ。
現象世界はすべて霊的世界なのだ。
「神の中にわれは生き、神の中に動き、そして神の中に存在する」
のである。
あるのは「神の無限なる心」のみである。
「万物はこれ神の心」である。
ただ私はここで、
現象は心の影であるという仏教的真理の観点を、
落としてはならぬと考える。
現象世界は実相が根幹にあるにしても、
人間一人一人の「心の庭」であるのである。
この「心の庭」を実相が貫いていて、
実相というものは、
理念つまり“神の国”であり、
“神の国”は「知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」の
統一体である「円満完全大調和」世界である。
誰にとってもこの真理はあてはまる。
(信仰の科学 谷口雅春・F.ホルムス 共著)
【“宇宙の心”は一切處に遍在し、いわゆる或る“一点”において宇宙の心の中に吹き込まれたる想念は、他のいかなる点においても等しく存在するのである。かつてイエスが百卒長の召使いの病気がすでに癒されていると念じられた時、そのイエスの想念は、はるか遠く離れた個所にて真実となって実現したのである。このように霊には距離はないのであって、至るところに遍在するとは正にここに存在することなのである。神の心はその全能の力をもってあらゆる“時点”に存在しているのである。あなたは神の中に存在し、神はあなたの中に存在するのである。神の他に何物も在しまさぬのであるから、あなたの力と神の力は一つの同じ力なのである。パウロがギリシャの詩を引用して説いた如く、「神の中にわれは生き、神の中に動き、そして神の中に存在する」のである。
 さて、これこそわれわれが本章の始めにおいて述べたところの“唯神実相論の哲学”なのである。神の無限なる心以外には何も存在しないのである。そしてこの世界の現象は悉く、「唯一絶対の霊的実質」が(いわゆる物質という)形で表現されているに過ぎぬのである‼】
現象世界は「神の心」であるから
実に神秘的なものである。
このことは
実相というものが顕われるにしたがって、
ますますその不思議さと素晴らしさが啓示されることでわかる。

生命の一状態が意識なのである「Life is ā State of consciousness.」・・・意識の発生源に“神の子”がいると思って実相を観じましょう。
2020/11/24
・英国の光明思想家エメット・フォックス
・意識は生命の一状態である。(現在の現象世界は“いのち”の一つの状態である=三界は唯心の所現)
・現象世界を物質と観ず、一映像ととらえる。死後現象の生の体験が全て走馬灯の如く展開される。
人間の現象の生活は進むか退くかの二者択一で、中間がない。神に向かうか、物質に惑わされるか。
・鏡の原理(心の法則)。心向上の程度がすぐにわかる。
教師をしていた時の何回もの転任の経験から。現象の生にはÅ段階からBCDEと無限に段階がある。類化の法則。
低い段階の生においては映像のギャングにこちらが本物と思いピストルを撃つ如き。(現象有りと思うから。)
高い段階の人は現象無く心の表現で、しかし、神が貫通していると悟る。
・実際は「意識(現象)は生命の表現の一状態」である。その奥に見えない「神の国」あり。現象のI amを司る“神の子”。
・現象は物質世界なのか、神の国なのか、だけが問題。
・神想観は「意識の発生源に“神の子”がいる」とみて実相を観じるやり方を効果ありと、投稿者は体験から感じている。
その“神の子”を「神の子円満完全」と観じて感謝で受け取る。幼な児の心で、素直に受け取る。
・観が正しくできるのは「信」の力であり、「信」は真理を知ることで成される。


正しい信仰というものは今生だけのことではない。
2020/11/25
正しい信仰というものは
今生だけのことではない。
また自分だけのことでもない。、
来世にかかわるのみならず、
子々孫々にまで影響する大問題であるのである。
このことにつき正法眼蔵は
私たちに示唆を与える。

(正法眼蔵を読む 谿声山色の巻 谷口清超)
<正法を疑わず>
「こいわがわくは、私と一切衆生と、今生より後全ての生に於いて、正法をきくことができますように。又正法を聞いた時、その正法を疑ったり、信じなかったりすることがありませぬように。又まさに正法にあわんとする時は、世俗の行きがかりを一切なげ捨て、仏法を受持することが出来ますように。こうして遂に大地の生きとし生ける者と共に、必ず成道することが出来るのであります」と。
 かくの如く発願するならば、おのずから正しい発心の因縁を作ることになる。こうして汝は必ずその願の如くに、正法を信じ行ずる者となるのであるから、このような願行を、怠ることなく実行することが大切である。

みとめたもの現われる
2020/11/26
内に‟神の国”を認めることができた時に、神の国は現実化する。
1如何にあなたの内に“至福の世界”なる“神の国”が宿っておろうとも、それを認めなければ顕われない。
2イエスは「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」と教えた。
3先ず既に“神の国”が自己の内にあることを認める事が大切である。すると外界は内界の投影であるから、内界に於いてみとめられたものが顕われる・・・神の国もその法則に従って現実化するのである。
(神と偕に生きる365章 谷口雅春)
【「神の国は汝の内にあり」とイエスは教えたのである。その神の国が自己の内に秘められ、埋蔵されたままであるか、それともそれが現象的にも完全に展開するかによって、あなたの運命の幸不幸、健不健、繁栄と衰微との差別がきまるのである。あなたの現象の生活がどんなに不満足なものであろうとも、あなたの内に“神の国”が現に今“永遠の今”厳存するということに間違いはないのである。それを如何にして、顕わすかどうかということが問題なのである。
 現象顕現の法則というのがある。それは「認めれば顕われ、認めなければ顕われない」という法則である。如何にあなたの内に“至福の世界”なる“神の国”が宿っておろうとも、それを認めなければ顕われないのであるから、イエスは「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」と教えたのである。先ず既に“神の国”が自己の内にあることを認める事が大切である。すると外界は内界の投影であるから、内界に於いてみとめられた程度に応じて、外界にその“神の国”の至福の姿が影を映すのである。みとめたものが顕われる・・・神の国もその法則に従って現実化するのである。】




「神の国」とは心の一状態(意識の一状態)なのである。誰もが“自己の本体”としてもっているが、その事実を自覚した状態が「神の国」である。

2020-11-30 10:57:13 | 日記
「神の国」とは
心の一状態(意識の一状態)なのである。
心の状態の最上レベルなのである。
心の在り方を変えれば達することが
できるのである。
誰もが自己の本体としてもっているが、
その事実を自覚した状態が「神の国」である。
(奇蹟の時は今 J・Eアディントン著・谷口雅春訳)
【パリサイ人はイエスに対して“神の国は何時来るか”ということを話してくれるように求めた。そのときイエスは“神の国は視える姿をもって来たるのではない。神の国は、此処に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くに来たるのではない。見よ、神の国は汝の内に在り”(ルカ伝第17章20~21節)と答えたのであった。イエスはこれ以上に解りやすく答えることができたであろうか。彼は“神の国”の所在を示したのであった。言い換えれば、“今此処に”神の国は“われらの内”にあると言ったのであった。
J・B・フィリップ氏は聖書のこの部分を翻訳して次のように書いているのである。
「神の国はそれが来るのを期待して待ちのぞんでいることによっては決して来たらないのである。人は“此処に天国がある。“あれが”それである”ということはできない。神の国は汝の内にある」(ニューヨーク。マクミラン社1955年版 J・Bフィリップ著『福音』より)
 天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。そのことはこの偉大なる“主の祈り”に如何にもハッキリあらわれているのである。神はわれわれすべては同じ父を分ちもつのである。それだから“天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの本源であり、創造主である、そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えることはできなくなるのである。】


祈り(科学的祈り・神想観)の最終段階である全托の原理

2020-11-30 10:33:20 | 日記
神への全托は
どのようにするのか。
ここにそのやり方が示されている。
自分が祈るのでなく
自分のなかの神が祈るのである。
原理をまとめると
①無我になり自分の“内なる神”が“念じ言葉”を発する気持ちで念じること。
②自分は言葉で‟願い事を神に提出するだけ”でよいのであって、
成就は神にまかせること。
③実相において成就したことを(現象的にはまだしていなくても)神に感謝すること。
(奇蹟の時は今 J・Eアディントン著・谷口雅春訳)
【キリストの悟りは次の如きものであったのである。・・・「わが言葉は、われみずから語るに非ず、天の父われに在(いま)して御業を為さしめ給うのである」と。Releaseとは“放す”ことである、放して神に委せて御業を成さしめることであるのだ。まだ現象的には功徳があらわれていない時でさえも、それに先立って、すべての事は成就しつつあるのだと確く信じて神に献げる信をもつことなのである。イエスはラザロの墓の前で、こう言って祈っているのである。「父よ、我にきき給いしを謝す。常にきき給うを我は知る」(ヨハネ伝第11章41~42節)
 つかみを放して神に全托する祈りは、有限の自我を解放して全能の神の力を迎え入らしめるところの祈りの最終の段階なのである。Releaseこそ、神への無条件降伏の最後の総決算的行動であるのである。】