人は迷っているように見えても
本当は迷っているわけではない。
「実相においては」である。
では何故迷ったみたいな姿を現わすのか。
このことについては
また別の日に投稿したい。
大事な事であるからだ、
現象世界が存在する意義・目的に関わる問題である。
(正法眼蔵を読む 大悟の巻 谷口清超著)
<却迷>
【従って「大悟」も「却迷」も、表面的にはすこしも変った様相を現すものではないのである。つまり、「却迷」は「大悟」とも本質的に変っていない。だから「却迷」の人を探し求めて。それをひっとらえて見たら、「大悟」の人だったということになる。「今」「ここ」にあるところの自分、実の自己は、一体「却迷」か、それとも「不迷」か、これはよくよく参究しなければならない。「大悟」であると同時に、それは「却迷」であり、「不迷」であるのだ。いくら迷っているように見えても、それは「大悟」を“超えている”からであって、真の自己は「不迷」であり「大悟」であり、なおかつそれに“ひっかからぬ”「却迷」であることをよく会得したとき、真に仏祖にまみえることができるのである。】