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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-03-31 11:08:16 | 日記
第9章 五千人に食べ物を与える
15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

迷っていない神の子が迷った姿をみせる

2019-03-31 10:33:46 | 日記
人は迷っているように見えても
本当は迷っているわけではない。
「実相においては」である。
では何故迷ったみたいな姿を現わすのか。
このことについては
また別の日に投稿したい。
大事な事であるからだ、
現象世界が存在する意義・目的に関わる問題である。
(正法眼蔵を読む 大悟の巻 谷口清超著)
<却迷>
【従って「大悟」も「却迷」も、表面的にはすこしも変った様相を現すものではないのである。つまり、「却迷」は「大悟」とも本質的に変っていない。だから「却迷」の人を探し求めて。それをひっとらえて見たら、「大悟」の人だったということになる。「今」「ここ」にあるところの自分、実の自己は、一体「却迷」か、それとも「不迷」か、これはよくよく参究しなければならない。「大悟」であると同時に、それは「却迷」であり、「不迷」であるのだ。いくら迷っているように見えても、それは「大悟」を“超えている”からであって、真の自己は「不迷」であり「大悟」であり、なおかつそれに“ひっかからぬ”「却迷」であることをよく会得したとき、真に仏祖にまみえることができるのである。】


“御国を来たらしめ給え”

2019-03-31 09:27:32 | 日記
アディントンはキリスト教の「主の祈り」に
“御国を来たらしめ給え”と祈るのは
既に人間は“御国”(実相)に存在しているのであるから
その事実を認めてその“実”を受け取りなさい、
という意味であると述べている。
これは信仰によって神の存在を悟ることで
果たされる。
人は神の子で神の国に存在している。
これが仏教の教えであり、
キリスト教の教えであり、
生長の家の教えである。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
【“御国を来たらしめ給え”ということは、神の国が来るのを受ける準備が今自分に出来ていることを示しているのである。神の国は此処に見よ、彼処に見よというが如く来たるのではないから、“自己の内”に来たらしめ給えということを意味するのである。それは神の生命との契約同意を示すのである。それは神の完全なる生命と、自分の生命とを秤量の皿の上にのせて平衡状態になるように自分を置くということである。神の国は既に此処にあるのである。われわれはそれを受ける必要があるのである。それは“今”であって、未来の日付に於いて来たるところの何物かを受けることではないのである。神の国は“今”即“久遠”に現前する。神の領域は“汝の内”にあり、そして至るところに在るのである。神の国は既に来ているのである。“久遠”ということは不滅常恒に存在することを意味する。神の国は常恒不滅に完全なのである。それを現実にあらわすのが神癒である。そのとき、悪しきものが存在するということは在り得ないのである。】
私のたった今いる此処において
実相世界は存在している。
でもふつう人はそのように思えない。
実相の信仰がないからだ。
生長の家のみ教えとは
こんな単純明快なことなのだが、
これを理解できない人も多い。

イエスは患者の悩んでいる症状から心を一転して、“父の御許に往った”のである

2019-03-30 10:28:11 | 日記
谷口雅春先生は、
大本教にいらした頃、大本教の亀岡道場で『キリスト再臨論』を講義されていたのであった。
(参考 生命の実相第19巻149頁)
【そのころ、大本教の亀岡道場で、毎日わたしがやっていたキリスト再臨論は信者間に有名なものになってきた。またそのキリスト再臨論だけをわざわざきくために綾部にやって来る信者も多かった。】
この事実から推察すると、谷口雅春先生のキリスト教の研究は並のものではなく、深い造詣があってこそ、ホルムスの啓示に触れて“生命の実相”のお悟りにつながったのであった。
以上は余談になるが、アディントンがイエスが科学的祈りの先駆者であると説くのはイエスの祈りが優れているからであり、それは雅春先生の「生命の実相哲学」「唯神実相哲学」と内容は一つである。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
(彼は患者の悩んでいる症状から心を一転して、“父の御許に往った”のである)
【イエス自身は、自分が為したところの業(わざ)は、われわれ人間にも亦為し得ることであり、尚それよりも大いなる業を成し得るのだといったのであった。彼は、その秘訣とでもいうべき鍵をわれわれに実に簡単な語で伝えてくれたのである。曰く~「われ父の御許(みもと)に往けばなり」と。彼は12人の弟子を選んで、その12人を訓練した。然る後、記録の伝うるところによれば更に70人を訓練したという。彼はこれらの訓練を経た弟子たちを諸方に派遣したが、彼らもまた治癒の業績に成功を収め得たのであった。明らかにこの事は、これらの数十人だけで、この心霊的治療が止まってしまわないことを暗示しているのである。
どのようにしてイエスは人を癒したのであるか? 彼は科学的な祈りを用いた。彼は患者の悩んでいる症状から心を一転して、“父の御許に往った”のである。~即ち“内に宿り給う神の大生命の許に往った”のである。われわれも亦、イエスが使ったところの力を用いることができるか? 出来るのである。今日われわれは奇蹟が行われる方法であるところの“科学的祈り”を理解して、それを利用することが出来るのである。あらゆる迷信を投げ棄て、誤った信仰や偏見をかなぐり捨て、心の扉をひらいてイエスの教えを素直に受け入れる心境になった人ならば誰でも神癒の力の通路となることができるのである。“科学的祈り”によるところの神癒~その原理は、時の流れを通じて廃(すた)ることなく今日にも現存していて、19世紀に於いてそれが再発見せられて今日に至っているのである。
神癒というものは何も、ある宗教宗派や信仰のグループにのみ独占せられているものではないのである。奇蹟的な神癒は今日では、多くの献身的な信仰者の祈りの業を通じて日毎に発生しているのである。】
イエスの科学的祈りのポイントは「彼は患者の悩んでいる症状から心を一転して、“父の御許に往った”のである。」ということである。これは『われ今五感の世界を去って実相の世界に入る』ということと同じである。
イエスの祈りで大事なことが2点ある。一つは現象世界のからみつく念を解き放つことであるが、このことは神に全托をしてできることだ。現象を忘れよう現象の執着から逃れようともがくよりも、実相の円満完全世界に思いを馳せ、「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」的な神の御心のみしかないという気持ちになれば、自然にアディントンのいうrelease(無我全托)となる。もう一つ自己の内に存在している神を認めそれと一体になる必要があるが、これは神の国の完全さを「神の子円満完全」、「実相円満完全」ととなえつつ、神の国がそこにあってそれを賛美する(実相独在世界を崇める)ような気持ちで念ずることで果たされる。
私はこの2点は、神想観で実相を観ずるうえで、必要なことと思う。御心は既に成就されているのだから、それを認め有り難く受け入れることが観を成功させるのである。