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2020年3月勉強会資料

2020-03-31 11:13:38 | 日記

実相を顕わせば本来ない闇は消える

2020/3/28   

現在起こっているコロナウィルス肺炎の蔓延は、人々の心が神から離れたことから来る恐怖心が生み出した、過去の業の展開であります。唯物論的世界観が行き詰まったあげく今回の疫病発生で業の流転をしています。病気、不幸、災難等は心が神に背いたことから来る“実相の不在”の警告です。

現象世界は自分の心の庭です。今までの自分の心が三界唯心の法則に随って現れています。過去の自分の心の思いの蓄積が現象に現れています。これを三界唯心と言います。生長の家横の真理です。現象に不幸、災難が現われている場合は、すべて実相(神)から離れた心を過去に持ち続けてきたのが今現れているわけです。そもそも現象世界は“神の子”である人間が幽の世界“実相”を顕の世界に神に導かれつつ実現する目的のために神によって造られた実相表現舞台であります。〝いのち“である実相が、時間空間世界に五官を介して振動しているのが現象世界です。人間は〝神の子“として神と偕に‟実相”を生きるために誕生しました。神の国実現の使命を受けてこの世に誕生した人間が、五官で捉えるものに惑わされ、本当は“神の子”であるにもかかわらず、世界を神のいのちの現われと観ず、物質であると五官で捉えてしまう錯誤のために、現象に実相を顕わせず、物質尊重の迷い心の産物である不幸災難を投影させてしまうのです。現象は見えないが本当は“神のいのち”のあらわれです。ですから現象の不調和を解決するには、人間の“いのち”(神の子)が自己の本体であると自覚し、現象世界の本体実在である〝実相”(神の心)を観によって現象に顕わし出せばよいのです。実相を顕わし出せば実相の不在である不幸災難は消えてしまいます。目に見えるものは心の影であって本当にあるものではなく、でも代わりに目に見えないが実相は元々そこに実在しているので、その目に見えない実相を現象化しさえすれば実相不在の闇は消えます。人間の本体は“神の子”“生命の実相”であるという真理を学び神想観で実相を観るならば、“神”(実相)が現象にあらわれ、不幸災難は身辺から消え、神の子として神に無限に護られます。信仰から来る霊光が、ウィルスという闇を滅ぼします。吾々がすべきは聖典・聖経の読誦、愛行、そして神想観です。合掌

 

“神の子”は実相人間のことであり、無限向上の理念であって、現象世界を統べる「円満完全大調和」の統体である。これが「内」にあるのです。

2020/3/29

“神の子”というのは人間の実在であるが、

永遠不滅の無限向上の理念である。

“神の子”は“実相人間”と表現する場合もある。

全宇宙を統べている(司っている)実相理念の中心存在が

人間の本体である“神の子”である。

この存在は【宇宙を貫く心】であり、

【宇宙を貫く生命】であり

【宇宙を貫く法則】であり

【真理、光明、智慧、絶対の愛。】であり、

【万物はこれ神のコトバ、

すべてはこれ霊、

すべてはこれ心、

物質にて成るものひとつもなし。】です。

このものは目に見えないものです。

【目に見えるものは心の影で本当にあるものではなく

目に見えないものが本当にあるものです。】

と藤原敏之先生も説いています。

これが“神の子”であり“神の心”です。

これを顕わすために神想観で実相を観じるのです。

内にあるのが“神の子”ですが、“内”というのは人間の心の“内”のことです。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【あなたを創造り給える神秘なる力は常にあなたと共にその創造の営みを通してあなたの生命の中に流れており、永遠を貫きてすべての人生経験にあなたと共に動いていられるのである。その力は、決して、決してあなたを見捨てることも、あなたから去ることもないのである。それは偉大なる全体者の個性化である。これはギリシャ哲人が“マクロコズムの中にあるミクロコズム”と呼んだところのものである。キリスト教に於いてはそれを父なる神より出でたる“神の子”と称するのである。ヒンズー教に於いては、神がそのエッセンスを人に宿して個性化せられたものをアートマンと称して、常に永遠に普遍的完全さの悟りであるところの涅槃に向って動いているものとしている。人間は神の完全なる生命の自己実現として完全な存在であるという観念は、いずれの教えに於いても、此の人生の基礎となるべきものである。自己の内に宿るところの“完全なるもの”は決して永遠に消滅することなき存在であるのである。それは火も焼くこと能わず、水も之を漏らすこと能わず、年を経るとも減衰さすこと能わざるところのものである。そしてその“不滅のもの”は、今此処にあって、“吾れを認めよ”といっているのである。一時、それを埋没せられたように見えていたけれども決してそれは未だ嘗て消滅したことはないのである。】

 

人間の心が神から離れてしまうと不幸災難が起こるが、逆に神への信仰で護られることもできる。

2020/3/30
神への信仰と言う観点からコロナウィルス肺炎の問題を考えると、
もともと神の子である人間が

本来そうである“神の子”の生き方から離れて生活することが長く続くと、

自分の中からこれではいけないのだという自己神性が

自分が“神の子”であることを自覚しさらに、

“神の子”の生き方に戻りなさいという働きをするのです。

自己の内に神が生きている(自分の本体は神の子であるという)証拠であります。

戦後もう長い間、

少しずつ少しずつ神から離れた生き方に

世界中の人々がなってきていて

文化も生活も人間としての真剣で真面目で真実の生き方から離れてしまったので、

一言で言えば神から離れたので

その誤った心の集積は人類の業の集積としていつかは流転するわけであって、

その時が来たのです。

新型コロナウィルスは見えないし、

どこにいるかが不明であることで、

“神の不在”がこの疫病の根本原因であることは明らかです。
物質科学を超えた実在の視点が必要です。

これは人間が神を忘れ神に背いた結果なので、

原因は人間の心の使い方の誤りにあるのであって、

神が不幸を造ったわけではありません。

神様は実相世界という円満完全世界をお造りになり、

人間を“神の子”として創造しているのですから、

その真実に立ち戻り、

“神の子”として人としての正しい生き方に戻れば、

(それにはこの世は神の国であり人間は神の子なのだという真理を知る必要がありますが)、

解結させられるべきものです。

神への信仰を離れてしまったことが

今回のコロナウィルス肺炎の蔓延の原因であるので、

神への信仰を正しくもち神と共に生きることで、

この疫病から護られることになります。
疫病は心の影であって、本当にあるものはなく、
本当にあるものは見えない“神の心”です。
これが現象の如何にかかわらず実在しています。
それを現象化させればよいのです。

現在世界中で起こっているのは

実相が顕われるための自壊作用と観ることができます。

実相が独在している証拠です。

 

神想観の一つ方法(御霊を受けるために)

2020/3/30

大雑把に要点を言えば

招神歌を唱えた後、

此処は神の世界だと思い、

「初めに言あり。言は神と共にあり。言は神なりき。」

と念じます。

次に

「言は肉となって吾等の内に宿り給えり」と念じます。

これで聖句を使い「神の言が自分の肉体に宿った」と、

述べたのだから、

「神の子を頂きましてありかとうございます。」と

既に実相を頂き済みである事を神に感謝します。

あとは神と一体の気持ちで、

「神の子円満完全」「実相円満完全」と

実相の真理を意識しつつ言葉で繰返し観じます。

このやり方で私はやっています。

勿論神の霊を受けるためです。

 

イエスは叫んで言われた、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と。

2020/3/30

イエスはイエスを信じた者が、腹の中から湧き出してくる真理の霊について以下のように述べている。つまり、各人内在のキリストを信ずる者には、活ける生命の水が腹からこんこんと流れ出ることになると言われたのである。聖霊が下るとそうなるのだ。

参考〔ヨハネ伝第7章37~39節〕

・祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

・わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

・これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

 

その名を信じた者には彼は神の子となる力を与えたのである。

2020/3/30

新約聖書ヨハネ伝には

「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」

と記されているが、

イエスの名(神の子であること=実相)を信じたものは

“神の子”となれる、

つまり実相を顕現できる、

と伝えているのである。

つまり人間が「神の言」であるという真理を信じた者は、

キリスト(真理)と一体になるので

“神の子”を実現できるのである。

*①『人間は「神の言」である。』

参考〔ヨハネによる福音書第一章1~5〕

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。

 

*②『神の言」が人に宿ったという箇所はこれである。』

参考〔ヨハネによる福音書第一章14〕

14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

*③『さらにイエスが「神の言」であると信じた者に、“神の子”となる権利を与えたに相当する部分はこれである。』

参考〔ヨハネによる福音書第一章9~12〕

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

 

以上から分るようにイエスは「生命の実相」の真理を、

受け入れれば、

“神の子”になる権利を得る、

と約束している。

私たちは“神の子”を既に頂き済みであると知っている。

だが知っていてもそれだけでは使えない。

御霊を神から受けることが必要であるからだ。

イエスは神の無限力を使うのは

父なる神の願いだと言う。

“神の子”と知っていても既に頂き済みの心境になることに抵抗するのは、

潜在意識である。

仏教では阿頼耶識という。

先ずは実相の真理の確実に把握が必要だ。

聖書のヨハネ伝冒頭はそのための一つの鍵となり得る。

あとは神想観での無我全托だ。

ここで必要なのが真理の正観である。

だからこそ真理の確実把握が必要なのである。

人間自身が実相の真理であり、道元のいう経巻そのものである。

谷口雅春先生でさえ、

お悟り直後に真理そのものとなられたのである。

アディントンやエメット・フォックスも

全く同様である。

誰でもそうなれるのである。

間断なく実相を祈ることだ。

 

人間が神の「言」であるということは、キリスト教神学に出てくる言葉であるのだ。

2020/3/30

脈々とキリスト教社会において伝わってきた

“人間神の子”“生命の実相”という尊い真理は

日本では谷口雅春先生が生涯を通して伝道し広めて下さったが、

吾等はこの真理を体現することで

伝えていかなければならない。

実相は顕現しなければ

伝わることはないのである。

1971年発行の日本基督教団出版局発行の『新約聖書略解』という聖書解釈の本に載っている、

『ヨハネによる福音書』の説明(山谷省吾 東京神学大学講師)の部分で、

イエス・キリストについてこの福音書がどう解釈してかを書いているので、

それを紹介します。

【イエスは肉体となった神の言

ルカによる福音書にも序文が先立っていて、福音書を書くに至った次第がくわしく記されているが、ヨハネの「序詞」はそれと異なり、そこで本来の福音の内容をさし示しつつ、イエスが人間となった神の「言」であること、恵みとまこととに満ちた啓示者であることをうたっている。イエスという語ではなく、「ロゴス」(言)という用語を用いて思想を展開させ、読者に深い印象と強い期待とを与えつつ、緊張の中に福音書を読ませようとする意図が読みとられる。】

【イエスという名称は17節になって初めて現われ、それまでの所では「言」(ロゴス)と呼ばれている。・・・・・・

しかしヨハネによる福音書のロゴスは、単なる哲学的・神学的思想ではなく、神的人格者であって、神の特質を具備した神の啓示者である。それは神と本質を同じくし、神の「言」として神をあらわす存在であり、そして、神と同様に、≪初めに≫、すなわち万物に先立ち、時の流れもまだ始まらない太初原始から実在していた。すなわち、ここではロゴスの「先在性」が主張されているのである。】

 

 


「円満完全大調和」の“神の国”理念が、現象世界をも貫通している。それを“実相独在”という。

2020-03-31 10:54:52 | 日記

「円満完全大調和」の“神の国”理念というのは

“いのち”の世界(実相世界)であるから

見えないのですが

「円満完全」でありしかも「大調和」しているのです。

それが“神の子”(実相)であり、

人間の本体であります。

ですから健康なる力士がこの現象世界にいたとしても

虚弱なる病人がいたとしても

どちらも本当にはいなくて(実在ではなくて)、

代わりに

【霊妙きわまりなく完全なる存在】が在るのです。

現象世界の万物一切が

【霊妙極まりなき完全なる存在】であるのです。

その世界は見えない無限向上の“神の国”なのです。

これは神性・仏性のあらわれであります。

理念なので法則であり原理です。

つまり現象世界は心の現われで本当にあるものではないのですが、

本当にあるところの神性・仏性が

理念展開として表現されているのです。

この真理にパッと気がつくきっかけとなるものなら、

具体物でも聖句でも何でもいいわけです。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春著 日本教文社)

【それ故に、実相に於いて貴下が既にあるところの円満完全な姿を、受容し得るに足るほどに、その媒介となる聖物が契機となって、あなたの心の窓がひらかれるならば、たといあなたが神癒の媒介物として、どんな通路を信じようが、あなたは“既にある実相”の開顕に関して道を開いたことになるのである~実相は斯く宣うのである~「見よ、われ戸の外にありて叩く、戸を開くものあれば直ちに入らん」(黙示録第3章20節)その媒介となる種々の聖物は、祈りを籠めた聖衣であるとか、宗教的遺物であるとか、ヨルダン河の聖水であるとか、ギリシャ神話の神像であるとか、それはどちらでもよい訳で、唯それが大生命の創造力を動かし自然良能に彼を癒し得る機会を与えるような高い感受状態にまで患者自身の心境を高めるのに役立ちさえすればそれで可い訳なのである。】

 


患者の心の扉をひらいて、神癒を可能ならしめるところのものは、その人の神癒を受けんとする“願い”と“信”なのである。

2020-03-31 10:14:09 | 日記

神の全能の力のみが唯一の“力”であり、

“神の力”はわれわれに来臨して、われを通して自己実現せんとし給うているのである。

それが神の願いなのだ。

だから神の力の受け手である吾々の方が問題となる。

「神癒を受けんとする“願い”と“信”」を持ち続けて

最後まで貫徹すれば

必ず神癒は受けられる。

だがこの「信」の形成が鍵となる。

これは真理の探究が主ではあるが、

それ以外のものでも可能な場合がある。

いずれにしても神の国(実相)に対する心底からの「信」が

必要である。

雅春先生の書いていることや

アディントンの書いた言葉が

「信」の形成は吾々にはやり易い。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春著 日本教文社)

<患者が神に生かされている神の“いのち”であることを受け入れるならば、潜在意識を支配することができ望ましい結果を得ることができる。>

【そこで斯ういう結論になるのである~患者の現在意識的信仰がどうであろうとも、もしその患者が活動的にして受動的な信仰をもつという態度を表明するならば、暗示によって彼の潜在意識を支配することができ、そうして望ましい結果を得ることができるのである。

治療目的のために要請せられる要請せられる信仰というものは純粋に潜在意識の中にある信仰であり、患者の現在意識に於いて積極的な反抗を止めるならば、暗示によってその目的を得ることができるのである。】

<患者の心の扉をひらいて、神癒を可能ならしめるところのものは、その人の神癒を受けんとする“願い”と“信”なのである。>

【然り、神癒の力は聖木の切片の中にあるのでもなく、エスキュラピアスの神像の中にあるのでもなく、“人間イエス”の中に在るのでもなく、また況んや、人間が服用する薬剤の中にあるのでもないのである。すべての力は“神”に属するのである。神の全能の力のみが唯一つの“力”である。そのほかに“力”はないのである。イエスは次の如く言っているのである。

「汝の信仰、汝を癒せり・・・・われみずからにては何事をも成し得ず、天の父、われに在して御業を為さしめ給うのである」

このごとく“神の力”がわれわれに来臨して、われを通して自己実現せんとし給うているのが神癒であるのである。患者の心の扉をひらいて、神癒を可能ならしめるところのものは、その人の神癒を受けんとする“願い”と“信”なのである。】