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観中無我になることが神想観を決める

2018-08-31 13:50:44 | 日記
神想観は
観中、実相に触れたなと感じた時は、
終わった直後に安心感があり、
間違いなくよく眠れ、
翌日がよい日になる。
では神想観が成功するには
どうすればよいのか。
この今目に見えている世界は心の影であり、
本当にあるものではなく、
影の正体は自分の“心”であるという真理を
知ることである。
では何が本当にあるものかといえば
目に見えているものの奥に厳然と存在している
目にみえない神の理念(実相世界)である。
目に見えない“神のいのち”と
言うこともできる。
次に自分の肉体が自分のいのちだと思っていた考え方を
神に生かされている神の“いのち”だったと
気づくことである。
自分がただ神に生かされ、生存させられている存在だと
気がつけば
それは“神の子”だということである。
地上の全ての生物と同様だ。
つまり人間は神に生かされている“神の子”である。
“神の子”であることを喜び
“神の子”にふさわしい生き方をすればよいのである。
神想観が効果を発揮するのは
以上のように
一つはこの目に見える現象の世は
本当にあるものではなく
目に見えない“いのち”の世界が代わりにあり、
本当の自分が肉体でなく
“いのち”であると知ることである。
肉体我を神にお返しして
ゼロになった時、神我が入ってくる。
神想観をする時は、
肉体我がヴェールとなって霊の流入の邪魔をするので、
肉体の自分を神にお返しすることが不可欠だ。
あともう一つは
人は“神の子・神の国”を既に実相において与えられ、
すでに救われている事実を感謝の心で受けることである。
“既に救われずみ”なのはすべての人だが
それを頂く上で必要なのが、
そのことの自覚である。
この自覚は無我になり神我が入ってくるほど
強い確信となる。
肉体の自分を神様にお返しすることが
“救われずみ”の自覚に必要となる。

神想観の神髄

2018-08-31 11:42:54 | 日記
神想観は実相を顕わし
人間の運命を好転させる
根本的な行法であります。
特にもっとも大事で究極のところを
雅春先生の以下のご文章で学ぶことができます。

最重要記事 神想観の神髄 谷口雅春
(生長の家昭和59年4月号)レジメ
(真実の自己をよび出して、正真正銘、宇宙のいのちと一つなる自己を発見する行法こそ神想観―最高の喜びここにあり)
1 神は今此処にあり給う
(神は自己の生命そのものとの自覚)
2 神への聖なる憧れ
(既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生れて来る。)
3 神を全身全霊をもって体感するには
(神を顕わすのが神想観)
4 既にある完全の世界の扉を叩くこと
(ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。)
5 天国を受くる者は「幼な児」の心を持つ者である
(真に幼な児の心になって「神」と神のつくり給いし実相の完全さを完全に潜在意識の底までも受入れる。)
6 神想観の本質は唯「神」を素直に受けるにある
(神想観は「神わが内にありたまい、われ神の内にある」実相即ち真実を観るのである。)
7 純粋の神想観について
(純粋な神想観は「わが内にある神」が「普遍なる神」に対して直接対面し、「わがみ親なる神よ。なんじ語りたまえ」と、素直に相対し、素直に神そのままの御言葉をきくことであり、実相そのままを受取ることである。)(完全な自己放棄がおこなわれたとき、「普遍なる神」と「内なる神」との契合が行われる。「内在の神」が御業をなしのは、肉体の人間ではなく「普遍なる神」(天の父)がわれに宿って「内在の神」となっているその「内在の神」である。今までも「内在の神」は、常に働いていたまうたのだが、しかしその表面に物質的欲望が層をなして、その表現を邪魔していたに過ぎないのである。)
8 自己の神性を自覚する近道
(神想観に於いては、ただ心の扉を開いて、神の与えたまいし実相の完全な状態を、素直に受け、観じさせて頂くよりほかに何らの仔細もないのである。)
9 「内なる神性の催し」
(「神性」が内からもよおし、「神性」が内からみちびくことがなければ、結局私たちは「自己の神性」を自覚することはできない。)
10 現象的なものに頼ってはならない。(神のみが永遠に壊けないところの真実なるものである。)
11 神想観と欠乏観とを間違えてはならない。
(神想観は病気をなおす薬ではありません。もっと根本なもの、「全自我」を入れ換えるのです。)
12 自己の内なる「神の国」をひらくこと
(私たちは「肉体の自我」(ニセモノの自分)を無視して「本物の自分」(神)をのみひたすらに神想観中に観じなければならない。)(わが存在の実相のうちに、神の持ちたまえる一切の善きものがすべて実在するのである。)
13 内在の神を目覚めしむるには
(神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に謂えば“汝の内なるキリスト”を自覚せしめるところの方法である。)(人間的はからいが完全抛棄されたとき、そこに神があらわれる。わが存在の深奥なるところに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。「何事をもなし得ない」表面の自我を自覚してこれを抛棄したとき、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り、大いなる業を成就するのである。)




人間としての私は昨日死んだものと決めて死に切ってみれば今あるのは神様だけになる

2018-08-30 09:18:26 | 日記
毎日藤原先生の本から
勇気を頂いております。
昨日は以下の部分で
力を得ました。
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
【人間としての私は昨日死んだものと決めなさい。死に切ってごらんなさい。今あるのは神様だけになります。神様だと決まったら、病気はないのです。神以外に“私がある”と思っているから病気を認め、病気を許すのです。病気と妥協し、病気の存在を許すから、無い病気が“のさばって”あるかのように幅をきかせているのです。今日限り、今限り、病気の存在を否定し、断乎として追い払いましょう。無い病気を認め、許すのが無明です。その無い無明が病気の姿をして頑張っているだけです。】

自我滅却の果てに、実相が顕われる

2018-08-29 13:28:38 | 日記
自我を滅却し切った時、
神があらわれると、
藤原先生は説いています。
用賀のお医者さんでお世話になったK・I講師が
私に遺して下さった“最後の鍵となるもの”と
同一であることに気づきました。
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
【信仰とは自我の滅却であり、自己否定にあります。正しい信仰とはこれまで私だと思ってあらゆる努力をしていたのがだんだんと自我の限界がわかり、自分の努力ではどうすることも出来ないと悟り、息一つ自分でしていないという事実に目ざめ、絶対絶命の境地に追いこまれ、一切を捨てて、神の中に飛びこむことであります。そのとき一切の都合がなくなり、都合がなくなれば善も悪も存在しない、ただ善のみの世界に超入するのであります。悪があると思うから、どうして逃げようかという心配が起るのでありますが、一切が神であり、神以外からくるものは何一つないと悟れば、不足などあるはずもなく、ただ感謝だけになります。問題を解決し、救われるというのはこのような信仰に徹することであります。一切の人に物に事に感謝し、喜んでお受けする心境になる。これが谷口雅春先生のお説き下さる生長の家であり、救いの根本は実にこの無条件に感謝することであります。神以外のものや、神以外の人間をみている限り本当の生長の家ではありません。生長の家は唯心実相論であり、神一元、善一元論に徹した教えであります。二元的人生観には、救いは断じてあり得ません。人間が否定され、現象が否定されない信仰はどこまでいってもにせものであります。それは当てにする心であって、信でないからであります。この世界は信じた通り、認めた通りになる世界でありますから、信が確立したとき、救いは成就します。信とは絶対であり、神以外のものが一切否定された心境であります。そのままであり、何もないそのままであります。無条件であります。条件のないのが満足であり、絶対安心であります。救われる必要さえなくなるのであります。救われたいと思うのは、神以外の自分を認めている証拠であり、救われていない自分があるからであります。自我の否定とは、自分がなくなることであります。最悪を覚悟したものには不安はありません。調子のよいことや、都合のよいことなぞ考えるから不足があり、不幸だと感ずるのであります。】