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如来とは何か

2019-11-30 09:30:25 | 日記

如来とは何かについて

参考になる文章を見つけました。

 

(正法眼蔵を読む 行持の巻 谷口清超著)
<仏祖の真面目>

 そもそも仏祖の面目とは何か。それは自己が仏それ自体であるということであって、その実相は、不去なる(去らざる)ものである。しかしそれは如去(去るが如く)であり、如来(来るが如く)でもある。どこかから来て、どこかへ去るようだが、本来不来である。即ちどこからか来たのではなく、どこかに去ったのでもない。如より来生するもの、即ち実在そのものであるが、その本質は吾々の一日の行持によって受けつがれつつ現成するのである。


すべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならない

2019-11-29 21:50:05 | 日記

これは11月30日分の投稿です。 

 

「すべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならない」

わたし達は現象を見ずして

実相を観るようにせねばなりません。

「物質を神と見る」のでなく

「物質において“視えない神”を観る」のです。

そうするとこの物質世界(現象世界)の実相は、

全部“神のいのち”だということになります。

一切が根底において神であり善なのです。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界たらしむる根本となるのであります。吾々は先ず自分自身の完全さを信じなければならないし、すべての人間を善であると信じなければならない。そしてすべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならないのであります。その正しき信念が確立して現象の世界に影を映してくる所の、自分の健康、周囲の人々の状態、環境、運命等が変ってくるのであります。】


われらが存在の実相を静観するとき、すなわち、あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直感する。

2019-11-29 21:35:47 | 日記

これは11月30日分の投稿のつもりです。

 

われらが存在の実相を静観する時、

何故ならそのとき「あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直感する」と、

谷口先生はお書きになっています。

神想観のやり方を

もっと深くやろうと思います。

(参考 生命の実相第8巻「無限生命に汲む道」 谷口雅春著)

【しかしわれらが心の方向を一転して存在の実相を静観するとき、すなわち、あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直感するのです。われらはあらゆる事物の実相に触れ、生命の実相に触れ、充たされ、またそれにとり囲まれていることを悟得するのです。われらは実相の生命の完全さを如実に見、自己の念の内に「神」なる人間の実相そのままのあらゆる善きものをもって充たすことになるのです。こうしますと、念の具象化の法則により、人間の実相~即ち「神」~に属するあらゆる健全なるもの、完全なるもの、善きものは、われらの全存在の隅々隈々にまで顕現するのです。】