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“科学的祈り”の素晴らしさ

2019-08-08 09:34:19 | 日記

アディントンが「奇蹟の時は今」で説いている

三段階を書いてみると、

1 Recognition

2 Realization

3 Release

であった。

1は神が遍在し、全知・全能であることを知る、
ということであり、
現象世界には本当は“神”しか存在していない、
ということを認識する、ということだ。
万物の本体は“神”である、と知ることだ。

2は神を“現実化”する。

中心になるのは2のRealizationである。

祈りにおいて「内なる神の許に往く」ことが

2の段階の祈りなのだが、

「内なる神の許に往く」ことは

“神の肖像(イメージ)として造られた聖なる原型”を

心の眼で観て言葉で観じることを行うのである。

このことが“神の子”“神の国”をRealize することに

なるのである。

3は心を現象から放ち、

神の創造原理、すなわち“聖なる原型”に

一切を全托するのである。
勿論言葉を使用して全托の観をするのだ。

このことで実相に属する一切の善きものが

現成してくるのである。
祈ったことを得たと思うこと必要があり、
得たことを神に感謝するのである。

2の段階で、

「内なる神の許に往き」“神の子”を観じRealizeし

3の段階の絶対他力無我全托することで実相が顕在化し、

実相のあらゆる富が

流れ入ってくるのである。

 


「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」(イエスの語)ということを確呼として信ずることである。

2019-08-08 08:56:28 | 日記

神癒を起こすのは

天の父(神)なのである。

無我全托で神の力にお任せできたときに、

神の力が働いて

霊験が得られるのである。

完全に神にお任せできたときに、

神の力が流れ入るのだ。

絶対他力の無我全托ができるかどうかだ。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)

【信じようと信じまいと、いずれにせよ、あなたは、誰かが奇蹟的な神癒を受け得るための媒体になることができるのである。なにも、あなたは、ある宗教の狂信者になる必要はないのであり、あなたが神癒の媒体になるためには、ある宗教宗派に所属しなければならぬということもないのである。神癒はあなたの努力を通してあらわれて来るように見えるかも知れないが、それは逆説的であるのであるけれども、神癒の技術を身につける予備条件は先ず「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」(イエスの語)ということを確呼として信ずることである。それでいて、あなたは、他の人が“必要な信仰”を受け容れるための“扉”となることができるのである。宇宙には、あなたが“ある”よりも一層大なる力が存するのであって~その力は人生のあらゆる面に内在しており、その力にとっては何事も不可能というものはないのであり、而もその力はあなたの信仰にしたがって、貴方を通して、そしてあなたのために働いて下さるのである。おそらく、人間の歴史を通して、神癒のページをひもといて一瞥(べつ)してご覧になれば、神癒というものが、どんなに普遍的に存在するものであるかを一層よく理解されるであろうと思う。】

 


科学的祈りとはどんな祈りであるのかについての雅春先生の要約

2019-08-08 08:36:44 | 日記

谷口雅春先生の訳者はしがきより、

科学的祈りの紹介について

再び転載させていただきます。

一言で言うなら如何なる祈りなのでしょうか。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)

<訳者はしがきより>

【イエス・キリストは聖書の中で「“われ”を信ずる者はわれより大なる業(わざ)を為さん」と訓(おし)えているのである。そしてまたイエスは「「われは真理なり、道なり、生命なり」ともいっているのである。

イエスが「“われ”を信ずる者は」と言った場合の最初の「われ」とは、ユダヤ民族のひとりであるところの“肉体人間なるイエス”を信ずる者はと言ったのではないのである。彼が言った意味は、彼が奇蹟を行なったところの“本源の力”をなすところの「われ」~すなわち「真理」なるもの、「道」なるもの、「霊なる生命」なるものを、“今自己の内”に観ることを得て、その実在を今此処の自己の内に自覚することなのである。それが自己の内にある事を信じ自覚し、万般の事象をこの真理にもとづいて処理を行うとき、本当に「“われ”より大なる業をなさん」といったところのユダヤ人のひとりとしての“われ”イエスが行なった奇蹟よりも、尚偉大なる奇蹟を行なうことが出来ると言うのである。われわれはイエスの行なった色々の奇蹟よりも偉大なる奇蹟を現代に於いて行なって来たのである。一例をあげれば長崎に原爆のあった時、僅か4百メートルの至近距離に、何の被服も遮蔽もなく、原爆の炸裂を見ながら被害を受けなかった天辰静雄君の如きを知っているのである。】