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“神の力”がわれわれに来臨して自己表現せんとし給うているのが神癒である。患者の神癒を可能ならしめるところのものは、“信仰”と“祈り”(観法)である

2020-09-02 10:36:06 | 日記
癒しの力はもともと人間に供わっている。
“神の国”だって、
もともと人間に供わっているのだ。
ただおぎゃあと生まれた時、
その自覚を眠らされて誕生するのである。
だから生命の実相の真理を
人に伝える必要があるのである。
人が不幸になるのを避け、
幸福な人生をいとなましめるためである。
引用文にもどるが、
癒やし給う力は唯ひとつ“神”であるのだから、
神の力が自分か患者に流入できれば
よいのである。
しかし神の力が働くには、
神の力を認めなければならない。
真理を知ることだ。
実相の円満完全さに対する“信”が必要であり、
“信”を現象化するための祈り(観法)が
必要である。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
【然り、神癒の力は聖木の切片の中にあるのでもなく、エスキュラピアスの神像の中にあるのでもなく、“人間イエス”の中に在るのでもなく、また況んや、人間が服用する薬剤の中にあるのでもないのである。すべての力は“神”に属するのである。神の全能の力のみが唯一つの“力”である。そのほかに“力”はないのである。イエスは次の如く言っているのである。
「汝の信仰、汝を癒せり・・・・われみずからにては何事をも為し得ず、天の父、われに在して御業を為さしめ給うのである」
このごとく“神の力”がわれわれに来臨して自己表現せんとし給うているのが神癒であるのである。患者の心の扉をひらいて、神癒を可能ならしめるところのものは、その人の神癒を受けんとする“願い”と“信”なのである。患者の“信”が、常に到るところに存在して癒しの力を施そうと待ち設けている神の“癒し”を素直に受けとるには、患者自身が閉鎖している疑念という扉を打ち破らなければならないのである。神の癒しが顕現して来る通路は多数あるけれども、癒し給う力は唯ひとつ“神”なのである。医師は傷口を包帯する、しかし癒しの力は何処から来るかというと、本来の人間の実相の霊的完全さに立ち帰らそうとする“生命”自体の常住の“願い”を通して、大生命の自然良能が癒しのはたらきをしてくれるのである。】


内部に宿る無限の神の叡智は、この体を創造して来たのであるから、それを引き続いて、健康な姿に再創造する方法を知らないという筈はないのである。

2020-09-02 10:08:40 | 日記
吾々は
吾々及び万物が創造された第一創造世界(実相世界)を
知るべきであるのである。
吾々人間の本体である霊は
完全であるのである。
ところが真理を知らないでいるならば、
肉体の円満完全を維持できないのである。
吾等は本体が霊であるから
肉体は完全であることが当たり前であることを
知る必要があるのである。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)
【われわれが地上生活を営んでいる期間に霊魂が宿っているところの此の“肉体”というものは、われわれが想像しているほどに濃厚な堅緻な密度をもった固まりではないのである。それは常に変化しつつあるところの器官であり、大生命の或る一面をなす実質であるところのエネルギーで全て成り立っている流動的な存在なのである。それは間断なく変化しつつ、自己の前に提示され、心の姿に随ってそれ自身を再創造しつつあるのである。あなたの肉体の中には、一年間以前にその肉体に存在した一個の細胞も残存していないのである。肉体には常に同じシミやホクロが続いているようだけれども、もしあなたが心の中にもっている心の原型を除去するならばそれは消え始めるのである。皮膚がたくさんの疣(いぼ)で覆われていた人が次の日には疣が一つもなくなっている例もあるのである。その疣は一体どこへ行ってしまったのだろうか。皿洗いのナプキンを樹の下に埋めるという“おまじない”の行為がその疣の消滅と何の関係があるというのだろうか。唯、それは、あなたがおまじないの功績を信ずる信仰があなたの心の中に存する観念を変化したに過ぎないのである。】
【大抵の人々はあまりにも肉体というものを勿体なく奉って考えているのである。病気の体を健康な肉体に変化できない理由になっている最も禍の根元なるものは何かというと、ある人がそれに、そういう診断を下したからなのである。心が一変すれば、腫瘍が姿を消して空中分解し、症状が進行して希望を失いつつあった患者が、祈りを通して立ち上がり、新しい活気ある生活にまで突入する体験が生ずるのである。内部に宿る無限の神の叡智は、この体を創造して来たのであるから、それを引き続いて、健康な姿に再創造する方法を知らないという筈はないのである。】