ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

秋晴れの日、祭りの賑わい

2020年10月27日 | 日記

 10月25日(日)は、素晴らしい秋晴れとなった。

 小金井公園を抜け、多摩グリーンロードを萩山往復し、10キロほどのランニングを楽しんだ。そして、昼まえに公園に戻ってきた。そこには、今まで見たこともないような、多くの来園者に溢れていた。ほとんどが家族連れで小さい子が多い。どうしてまたこんなにも多くの人が・・・・と思ったが、ここは車で来園する人も多く、コロナ禍で遠出を避け身近のところに、ということだろうか。

 2メートルの距離を開けていないようなところもあるが、皆マスクをしているので、構わぬ様子。子供たちは思いっきり駆け回り、大人も、おしゃべりに興ずる人もいる。テントは禁止のはずだが、あちこちで建てている。ブルーシートを敷き、家族ぐるみでピクニックを楽しむというか、何事かから解放されたような風に見える。・・・・何か、コロナが終焉し、それを祝う祭りのような賑わいだが。

 ところで、最近読んだ、カミユの「ペスト」la peste では、最後の下りは、ペストの終焉が公に宣言され、それを祝う、花火が打ち上げられ、市民は、通りに繰り出し、お祭り騒ぎとなる。だが、カミユは、ペストは今どこかにかくれ、いずれまた顔を表すだろう、と結んでいる。

 公園の中にはコスモスの群生が2か所ある。遠くから見ると、パンデミックの終わりを告げる花火の様に見えたりもする。コロナの終焉とはどういうものなのだろうか。自分の想像できるものはあるが、ここでいうことは控えよう。とにかく、しばらくは、ウィズ・コロナでの暮らしを続けていかなければならない。楽しめる時は、それなりに楽しんでいけばいいのだろう。僕も、今日は、来園者と同じように、秋晴れの日を楽しみ、幸福な気分であった。

 だが、今、100年に一度の世界的パンデミックの最中にいるのだ。

 絵は小金井公園。広場の向こうにコスモスの群生が見える。

   2020年10月26日  岩下賢治

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気になるテレビ言葉

2020年10月25日 | 日記

ハナミズキの実

 日曜日の朝はNHKの番組を見ることが多い。
 長寿番組で、以前は自然のアルバムとか言っていたか、今は「さわやか自然百景」となっている番組がある。その後が中井貴一の「サラメシ」。
 私はこの二つの番組に、嫌々ながら付き合っている。他に適当な番組がないからだが、なぜ「いやいや」なのか。
 理由は、ナレーションの言葉遣いが嫌だからである。
 自然百景では、盛んに「生き物たち」と連発する。生き物を紹介するのに、なぜ複数形を用いるのだろうか。「生き物」というコトバは数えることのできない普通名詞であって、そこにタチと重ねるのはおかしい。それにタチというのは、人格を持つ人間の複数形の表現であり、動物は群で表現する対象だから、単に馬とか牛とかといって、これ自体で複数を表わす。仮に特定の動物をさす場合は、所有者とか動作とかを表す言葉と連動して、たとえば誰々所有の2頭とか、複数を表す場合は、飛び跳ねる馬の群となる。馬タチとはならない。
 サラメシというのはサラリーマンの昼食という意味だが、私にはなんとも下品な言い方に思える。まずサラという短縮形が気になる。サラというと更、空などの連想があって、無のイメージがある。それにメシというのが気に食わない。飯とメシと訓読するのは、野で活動する時の言い方で、メシドキだ、などという。屋内では飯とは言わない。現に女性たちは、メシとは言わないはずだ。食事という大切な行為を、あえて下品にいう必要があるものなのか。
 普通にサラリーマンのお昼時といえば良いのだ。番組編成者たちは弁当という言葉を使いたくないのだろう。弁当というと、腰弁とか、携えて持参するという意味があるので、もっと今日的なお昼時を表現したかったものなのか。しかし、あまり良い表現とは思えない。
 芸人のお笑い表現では無いのだから、まともな言葉を使って欲しいものである。【彬】

 

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SNSということ

2020年10月17日 | 日記

 ノボタンが咲き始めました。

 新聞やテレビを見るが、最近はチラ見する程度で、若い頃と比べるとマスメディアとの接触が相当に少なくなっている。頭が硬くなる老人特有の性向だろうか。
 でもその分、SNSとの接触が多くなっている。主なものはtwitterである。
 SNSの普及により、私たちのコミュニケーション環境は大きく変わった。その変化の中で、新聞とかテレビとか、いわゆるジャーナリズム=マスメディアの役割も違ってきた。誤報が多い、煽り記事のようだ、広告ばかり、まるでイエロージャーナリズムではないのか、といった批判をよく聞くようになった。新聞の部数減、テレビの視聴率低下が背景にあるのかもしれない。
 ジャーナリズムについては、その発生まで遡ると、少しややこしくなるが、近現代のメディアを定義するときは新聞でもテレビでもラジオでも、その役割を「公共性」という概念で括っており、記者による取材の権利なども「知る権利」とか「公共性」を前提として容認されてきた。新聞やテレビがある論調を展開するときにも、その公共性を隠れ蓑に、読み手や受け手に説諭的・啓蒙的になり得たのだった。
 しかし、SNSの登場で、誰でもが送り手になることができるようになったことで、マスメディアの送り手たちが独占していた公共性というものが全く反故になったのが、現在だと言える。
 私たちは、この事実をしっかりと受け止めたい。取材は拒否できるし、取材された記事にしたところメディア上に表現されるのは、だいぶ偏っている場合が多いのである。
 ところが新聞やテレビの送り手たちは、この事実を全く認識していないかのようで、そのため、解説記事など、私には嫌悪の対象になるのである。例えば現在問題の学術会議についてのあれこれ。Twitterに寄せられる色々な投稿者のツィートには、この組織の問題点がいろいろ伝えられている。単に菅首相の強権云々の問題ではないことが、各方面から知らせてくれているのである。
 SNSは今、草創期にあるせいか、言葉や映像が荒っぽく、よく訴訟沙汰になっている。そのためSNSを嫌う人もいるようだが、たとえば安倍前首相を「ぶった切ってやる」などと常識では考えられない言辞をほざく法学者がいるのも事実だ。
 しかし、発信者が多数いて、自由に表現できることは、民主主義の根幹である。特定の問題について、徒党を組んで偉ぶった声明を発するなど、今日のコミュニケーション環境には全くそぐわない。
 こうした考えというのは、保守化した私の老人性の固まった思考のせいではあるまい。【彬】

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或る日の東京散歩

2020年10月13日 | 日記

 10月11日(日)思い立ったように東京の、日本橋あたりに出かけた。

 コロナ禍の前は、月に一度は東京の、丸の内丸善に行き、書籍を眺め、展示場で絵画などの作品を楽しんだあと、八重洲から日本橋あたりを散策するのがたのしみであった。

 一年ほど前に出かけた後、久しぶりのことではある。

 昔、ぼくは、日本橋、まさに橋のたもと近くの事務所で仕事をしていたことがあった。ここらあたりは、昔に比べ大きく変わったな。そして今も変わりつつある。昨年まであった店が、閉店したり、移転したり、新しい店が出来たり、またビルそのものが外見を変えている。

 東京というところは変化が激しい。だから訪れる度に新鮮で驚くものがある。よく言えば、進歩の先端を進んでいるということか。それは形のあるものだけではない。丸善では書籍や様々な企画展示物を通し、新しい知識に出会うことが出来る。

 実は、この日は丸善に行き、ノーベル文学賞を受けた、Louise Gluckルイーズ・グリュック氏の作品を求めるのが主な目的であった。授賞理由の、「個の存在を普遍的な存在に作り上げる厳粛な美しさを伴った、まごうことなき詩的な声」が気に入り作品に触れたいと思うのだ。

 海外から取り寄せになるので一月後ぐらいです、とのこと。ということで、また一か月後に東京散歩をしよう。そして訪れる先も吟味しよう。

   絵は日本橋

    2020年10月12日  岩下賢治

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肉体の強化と内臓の強化

2020年10月07日 | 日記

キリシマリンドウ

 あちこちの同年代の知人からが、ポリープを摘出したとか、前立腺が癌らしい、あるいは心臓がおかしいなどと言った病状が次々と届く。加齢には病気が伴うことが実感される年代である。
 幸い私は疾患に無縁で、コロナはおろか流行風邪にもこの十数年、かかったことがない。健康診断でも、若干血圧が高めであること、ガンマGTPが高いことを指摘される程度である。根が丈夫だからではない。子供のころは虚弱体質であった。
 元気の元は何かと言えば、運動だろう。現在仲間と一緒に毎週一回、ランニングの会を行って12~3キロ走っている。そのほかにスポーツジムに週1〜2回、通って1時間ほどトレーニングしている。
 だが、こうした運動は筋力の強化にはなっても、健康の元である内臓の働きとはどう繋がっているいるのか、トントわからない。病気というのは、ほとんどの場合、内臓系の疾患であるからだ。もちろん加齢による疾患には、腰痛とか膝、骨の異常などと言ったものもある。でも多くの場合は、内臓系の疾患である。
 だから運動しているせいで健康を維持しているとは、直接的には言えない。書斎に篭り切っている学者や芸術家が意外に元気なこともあるのだ。
 内臓系の病気というのは、本当はどういうことなのか、私にはわからない。内臓は筋力のように刺激を与えることによって強化できるのか、どうなのか。循環器系の臓器は、血液の流れを促す持久系の有酸素運動がある程度は有効だろうが、胃や腸といった消化器系はどのようにしたら強化できるのか。消化剤を飲めばいいのか。
 加齢と共に太った、あるいは痩せたというのは、消化器系の影響である。そうした内臓疾患に対する対処は、食べ物とかで調整するようにとのコマーシャルが目に付くが、本当はどうなのか。
 高齢者に突きつけられた課題である。【彬】

 

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