ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

シャガを植える

2021年03月28日 | 日記

カリンの花

 私の住む地域では廃校になった小学校を、住民たちが会合や講習会などに使える場所=地域の「ひろば」として、活用している。この施設を維持すること、つまり冷暖房の管理や電球の取り替え、教室やトイレの清掃などだが、これが結構手がかかり、ボランティアの人たちの献身的な活動によって支えられている。
 私も週1回、半日だが校庭の植栽周りの整備に参加している。この学校は開校100年をすぎており、樹木も素人の手に負えない巨木もある。あの大震災の時には、アカメカシワの古木が倒れた。桜も古く、古枝が折れることもママある。ポプラ、タイサンボク、ヒマラヤ杉も巨大で、カラスが巣作りするのに格好な場所だ。
 私たちがするのは、低木の枝下ろしや雑草の除去などだが、何箇所か殺風景な場所があって気になるのだが、いまだ手をつけていない。なんとか手入れしようと思うのだが、そうするには新たに土入れとか、瓦礫などの撤去など、ほぼ開墾に似た作業になるので、費用と時間の関係もあって、手が回らないのである。
 そんな中、先頃思い切って、藤棚の下の砂場と地続きの荒れた場所を整備し、シャガを植えることにした。ほとんど砂地のところに培養土を4袋入れ、整備したのだが、水をかけるとどんどん吸い込む。培養土4袋くらいでは、植物が生育するには効果がないのかもしれない。藤棚のしたなので、適度に木陰を作るので、場所的にはOKのはずだ。ポット苗で10鉢、それぞれ2株ほど入っていたものを、移植した。さてどうなることやら。
 時期を見て、培養土を追加する以外ないかもしれない。しっかり根付き、株が分蘖(ぶんけつ)して、辺り一面に白やピンクの花が咲いてくれるといいのだが。【彬】
 

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2021年の桜

2021年03月25日 | 日記

 先日、東京で桜の満開宣言があった。例年より少し早めのようだ。

 それで、時間をつくり、小金井公園での恒例の短距離走の練習の後、「桜の園」にいってみた。途中、広い芝生の運動広場で、近くの高校の生徒たちが、そろいの運動着の恰好でサッカーの練習や、フリスビーなどに興じているのを見る。クラスごとに記念撮影もしている。どうやら、節目の野外学習、卒業記念のイベントのようだ。それにしても、動きが機敏だ。僕は、それを眺め、羨みながら、痛む左膝をかばい歩く。

 桜は満開には届かないが、花見には充分だ。通常なら、ブルーシートを敷き、花見客のグループで埋まるところだろうが今年はない。来園者は皆、散策しながらの花見。

 幼稚園児たちが、はしゃぎまわる。先ほどの高校生でイベントから流れてきた生徒たちが楽しそうにし興じている。こういった風景は楽しい。園児たちのピンクの顔、女子高生達の赤いユニフォームが、明るい春の日差しの中、満開の桜の花の様に輝く。

 桜を口実に、花を見るより宴会に興じる大人たちに変わり、こういう爽やかに、桜を楽しむ景色。「酒なくて、何が己が桜かな」ではない、静かな「健全」な花見もありだな。

   2021年3月24日  岩下賢治

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宣言解除は早すぎるのか

2021年03月23日 | 日記

ハナニラ

 「朝日新聞社は20、21日に全国世論調査(電話)を実施した。新型コロナウイルス対応で首都圏に出していた緊急事態宣言の解除のタイミングについて聞くと、51%が「早すぎる」と答えた。「適切だ」は32%、「遅すぎる」11%だった。」
 だ、そうです。
 私には到底信じられない結果だ。宣言期間が長すぎて、ウズウズしている人が多いものとばっかり思っていたからである。だから宣言解除で、やったーっとなると思っていたらのだが、逆だというのだ。
 どうして私が判断ミスしているのか。
 考えられるのは、SNSを含め私の接している情報源が偏っているためか。あるいは新聞やテレビの情報を素直に受け入れていないせいなのか。または身近にコロナ感染者がいないので切迫感がないためか、仮にいたとしても軽症ですみ「罹ってしまった」などと笑い事で済ますことができるような状況のためか。
 などと思うのであるが、本当は、朝日の報道が「虚報」なのではないか、とも勘ぐれる。というのも世論調査という形式に、多くの問題があるからだ。
 世論調査というのは、どういうものなのか、なぜ少人数の回答で全国の動向が把握できるのか。元をただせば、統計学でのいわゆるサンプリングの方法である。この手法は地域性や宗教性がない大衆社会の成立を前提にした意識調査方法だ。ところが今現在はマスコミだけでなく多様な情報が入り組んで、いわゆる大衆社会とは大きく異なる多様な意識状況を呈している社会だ。つまり調査の前提が変化していて、方法の正当性が怪しくなっていると思えるのである。
 例えば政党支持率という調査があるが、これは支持政党がないというのが50%前後になる。つまり国民の政治意識が多様化し、いわゆる通常の世論調査の方法では、これを掬うことができなくなっている層が半分を超えているということである。また例えば、テレビの視聴率というのがある。代表的なのが、NHKの紅白だ。この番組はかつては視聴率が50%を超えるのが当たり前だった。しかし現在、50%を超える番組などない。つまり嗜好が多様化し、通常のサンプリングでは、動向を探れない時代になっているのである。
 さらに問題なのは調査方法が電話だということである。個人用のモバイルの普及率はほぼ100%だから、電話を使うことに問題があるわけではない。ただし、電話は面談ではない。しかも質問票が対象者に開示されているわけではない。答えは質問次第でどうにでもなるのだ。
 などと考えると、コロナ解除宣言に対する私の考えが、世の中の動向から必ずしも外れているのだとは言えないのだと思う。
 それはそれとして、非常事態など本来あってはならない施策である。そんな宣言が出せる根拠は憲法にはないし、第一、日本でコロナがパンデミックを引き起こしているとは誰もが思ってはいないはずだ。非常事態宣言を解除するのが早すぎるとか、対策が遅いとかいう国民の判断というのは、一体何なんだろうと思うのは、私だけではあるまい。【彬】

 



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中国が出張っている

2021年03月18日 | 日記

 ユキヤナギ

 尖閣列島付近で中国の警備船が連日出没し、日本の漁業を妨害しているらしい。日本の警備隊も応戦しているが、軍隊ではないので戦闘には至っていないとのこと。が、中国は警備隊の役割を変更し、軍事も可能なように法改正したとの報道がされている。中国は東シナ海に新たな国境を設けようとしているのだ。
 尖閣に限らず最近の中国の膨張路線は露骨で、内モンゴルからインド国境、香港、南シナ海と諍いが絶えない。そんな状況に対して、日本、アメリカ、インド、オーストラリアの四国が共同声明を発し、地域の平和で自由な活動を宣言した(クワッド)。いうまでもなく、中国に対抗する政治的な動きである。
 かつて日中が平和的に和解した時は、周恩来は戦前の日本の中国国内での横暴を許すとして共同宣言を調印したのだが、今昔の思いがする。当時中国は社会主義的建国の真っ最中、周辺国家の動向にかまっていられなかったことも原因していよう。ところが今日、中国はアメリカに次ぐ強大国となって、周辺を睥睨するようになった。
 こうした変化を顧みると、国家という政体はアメーバのように増殖していくものなのだな、とつくづく思う。なぜそうなるのか、説明はつかないが、それが国家というものなのだ。つまり領地を1ミリたりとも広く獲得しようとし、そこに利権が付き纏う。

 中国が国境に食指を動かしているのは、単に利権の問題だけではないだろう。はっきりしているのは、かつての西欧帝国主義時代に中国はアヘン戦争に始まって散々列強諸国に簒奪され、ついに香港をイギリスに割譲するに至ったわけである。香港に限らない。遼東半島、青島なども国外の手に渡った。それを回復することが最大の願いなのではないのだろうか。で、どの時代に戻すのかが問題だが、おそらく漢帝国あたりか。譲歩して清か。
 さらに問題なのは、中国の国共内戦の結果、台湾が分離した。これも中国という国の避けて通れない道なのだろう。
 だから中国の膨張路線と見えるものは、漢か清に戻る欲望とも取れる。王毅外相の尊大で大仰な立ち居振る舞いを見ていると、そんな感じがする。
 そうした中国の思想的核心に触れないで、現在の政治的な動向だけで云々するのは、歴史を蔑ろにするものである。中国の事情をよく調べよく考えるべきではないだろうか。【彬】

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日本文字の多様な表現

2021年03月11日 | 日記

 我が家の椿=新曙光の花

 以前、高尾山の梅見からの帰路、周辺界隈を歩いている時、変わった文字の道路標識に出会ったことがある。「椚」という字である。地名であることは明らかだが、見たことも無い字でもちろん読めない。帰宅後調べたら「くぬぎ」とある。えっ、くぬぎは木偏に楽しい、櫟と書くのではなかったのか。こんな字があるのか。
 樹木の名や魚の類の漢字・宛字は、いろいろであるから読めなくて当然だが、その宛字が一種ではなく、いくつもあるとは思いもよらなかった。
 そんなことがあって、たまたま柳田國男の著作を読んでいたら、国木田独歩のことが出てきて、独歩の姓はもとは椚だったというのである。椚という字はクニノキという意味で、薪炭の材料となる貴重な樹木なので、国の木として大事していたことに由来する字だという。しかし漢字では、このような字はなく、いわゆる国字だということを伝えたら、独歩が椚から国木田に変えたというのである。
 今、独歩をネット上で調べると、本名が国木田になっている。
 国字というのは地名などに多く、例えばアイヌ語由来らしき言葉はたいがい国字や略字、宛字が当てられている。そんなことを思い出したのは、「方言漢字」という本を読んだからである。これは筆者が全国の特異な地名を訪ね、実際に表記されている看板などを巡って歩き調べたもので、地方独特の漢字表記を「方言」と呼べるのではないか、ならば「方言漢字」と命名したい、とした本である。
 印象深い例はいくつかあるが、例えば第二章の東北地方を扱った箇所で、全国でここでしか見ることのできない「ホトケ」という漢字のことが紹介されている。ホトケは「仏」か「佛」であるが、この地域では、人べんに旁が西を書きその下に国と書く。一つの国字だが、どういう経緯でこの国字ができたのか、色々想像がよぎるのである。芥川に「西方の人」という作品があったことも思い出す。
 そのほか、多数の独特な地名を調べ歩いている。私は地方出身だが、子供の頃なじんだ出身地周辺のことなどが思い出される民俗学的な本である。

 ところで、日本語は世界に類例のない表音・表意を併せ持つ言語である。カタカナやひらがなで音を表記し、漢字で意味を表現する。この言語のおかげで、明治以来、多数の西洋文化や先進的な科学的知識が翻訳できた。今でも翻訳が最も盛んな国だと思う。この日本語の特質を、あらゆる側面から考えても蔑ろにしたくはないものだ。【彬】

  笹原宏之「方言漢字」角川ソフィア文庫

 

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