ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

コロナウィルスはどこにいるか

2021年02月27日 | 日記

ボケの花

 コロナ問題、もう一年をとっくにすぎた。いつまで続くやら。
 でも、こんなに時間を経ったにも拘らず、このウイルスのことがさっぱり理解できない。一番わからないのは、このウイルスはどこに潜んでいるのか、ということ。
 感染者の体内にいることは誰でも理解できる。だから人から人へと伝染しないように隔離する。通常の対処法だ。ならば現在の緊急事態での自粛要請は、なんのためにしているのか。感染者でない人の行動を抑制しても意味がないのではないか、と思わざるを得ない。
 誰が感染しているか、わからないから行動を抑制しているというのなら、感染しても自覚できない潜在的な感染者が数万人というような規模で無数に存在しているからなのか?
 あるいは、人から人へではなく、違った感染ルートがあって規制しているというのだろうか。飲食店に行くと、手を消毒し、テーブルなど丁寧にアルコール消毒している。すると掌から、例えばテーブルとかにウイルスが移り、それで感染するというのだろうか。それならば感染者は体内ではなく、掌や体の表面にウイルスを付着しているということになる。掌を調べたことがあるのだろうか。
 テーブルが媒介するというなら、ウイルスはテーブルにどのような状態で付着しているのか。ウイルスは生き物だから、何か栄養源に寄生する以外に生存する術がない。テーブルに寄生する適した物質があるのだろうか。
 また分からないのは、街頭でマスクをすること。会議などでは発言とともに飛沫が飛ぶからマスクをすることは理解できる。だが、街頭でマスクをするのは、ウイルスをどのように防いでいるのか。空気中にウイルスが浮遊しているというのか。そんなことはあり得ない。
 細菌研究者の皆さん、もうそろそろはっきりさせてください。それさえわかれば対処の方法は明確になる。緊急事態宣言など、全く意味がなくなるはずである。【彬】

 

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20kmウォーキング

2021年02月23日 | 日記

 2月21日(日)は大変良い気候となり、予定していた通り、自宅から、玉川上水沿を西武線拝島駅までのコースおよそ20kmのウォーキングを行った。

 最近、左膝の具合よくなく、長距離のランニングは控えているが、ウォーキングならいいだろうという訳だ。このコースを歩くのは昨年の5月以来のこと。かなり整備されて歩きやすい。とはいえ、痛くないことはなく、歩き方を工夫しながら進む。

 4時間半の歩きは、やはり疲れる。後半は、あのフルマラソンでも経験する、頭のなかがジーンとして、自我、孤独の世界に入り込む感覚になる。脚のシビレや痛みを如何に散らしゴールするかを考える。

 僕は、中学高校は陸上部、大学はワンゲルで脚には自信があった。だが今は、この膝の不調で、意識はかなり変わった。先日、大学のワンダーフォーゲル部時代の友人と電話で話す機会があった。彼とは卒業後会う機会がなかった。・・・話によると、彼も左膝の具合悪く、人工関節にして今でも山登をしているのだ、と言う。その遠因は、スキー合宿で左膝にひどい捻挫をしたことらしい。・・・・驚いたのは、僕自身も同じ合宿で左膝のひどい捻挫をしたのを思い出した。

 人はそれなりに対処し続けたいものは続けているのだな。

 僕自身は、これから、無理のないランニングやウォーキングを続けていくつもりではある。この日は、拝島駅からほぼ同じコースをたどるように電車で帰った。以前、フルマラソンを走っていた頃の、練習コースの折り返し点であったこの拝島駅が、これからのゴールになるのかもしれない。

 絵は、拝島駅へのゴールのイメージ。

  2021年2月22日  岩下賢治

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ワクチン、免罪符なのか

2021年02月20日 | 日記

ユキヤナギ

 コロナ問題、ワクチンを各地にどう円滑に運び、接種するのか問題となっている。ファイザー製の本数が足りるのか、医師会の協力体制がどうの、接種記録をどう管理し2回目の接種に活かすのか、などなど。政治がらみになると、野党だけでなくあちらこちらから雑音が湧き起ってくる。
 私自身は以前にも述べたようにワクチンは無理には打たない。ワクチンに頼らなくとも予防できることは、現在の感染状況から判断できるからである。なぜ日本で感染者が少ないのか、理由は定かではないが、少ないことだけははっきりしている。島国に暮らす長年の生活様式が私たちに生得的な耐性をもたらしているのか、あるいは入浴し、靴を脱ぐ私たちの習俗によるものなのか。
 ともあれ、ワクチンを打つことが感染阻止のバリアになることが喧伝され、一つの社会心理を形成しているらしくて、そのことが接種についてあれやこれやの言説を生んでいる原因のようにも思う。
 今後、ワクチンを接種したことが免罪符になって、様々な行事が進んでいくような気がしてならない。オリンピックもさにあらむ。ということはコロナは既に医療の問題ではなく、社会や政治の問題になっている。医療というのは究極のところ社会問題なのであろう。

 *ワクチンについては、従来型の生ワクチンではなく、DNAを編集する技術を応用しているとのこと。この新しいワクチンについては、副作用とか効果とかではなく、その仕組みについて具体的で啓蒙的な報道がぜひ欲しいものだ。人間の生命に関する画期的な方法らしく、日本でも相当研究が進んでいるとのこと。以前紹介した村上龍の小説『歌うクジラ』にその一端が描かれている。
 このワクチンの開発が進んでいたのは、アメリカ、中国、イギリス、ロシアである。私が想像するに、これは軍事研究の一環ではないのか、ということ。細菌の軍事研究は日本でも行われていた。
 もう一つ。変異株がどうのこうのと言われているが、普通に考えればウイルスの変異は、ウイルス側の生存システムの問題で、対人間に、住み込み易くするための自己変革である。その結果、本体の性質を弱め=弱毒化して浸潤しやすくしているはずである。人間の側からすればそれだけ感染性が高くなるが、弱毒化し、発症しないウイルスになる。人間の体の中には万というウイルスが共存しており、結果としてその一つになるということである。【彬】

 

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正義や倫理の仮面を剥がそう

2021年02月13日 | 日記

先のヤブツバキの下絵に色をつけてみました。絵になっているでしょうか。

 非難の余地のないところで語られる正義や倫理が、欠陥と障害の表出であり、皮膚のすぐ裏側のところで亀裂している退廃と停滞への加担だという文学の本質的な感受性から逃れていってしまうのだろうか? 『反核異論』

 いつも「永遠」で「不変」の底辺があって、そこに身を寄せれば、表層の文化現象が軽薄にみえ、じぶんの方の表現の理念が、本ものだと保証されるなどというのは、「現在」ではとんだ喰わせものの理念だとおもう。 『読書の方法』

 これらは吉本隆明さんの、金言だと思う。ツイッターのbotから引用しました。私は吉本さんの古くからの読者だが、その言辞をいつも意識して参照しているつもりでいるが、今話題の森オリンピック組織委員会会長の女性蔑視をめぐる風潮など、全く上記その通りだと思う。正義や倫理を振り回すことは、逆に欠陥や障害の表出であること、あるいは特定の理念が西洋などの実証付きの「本物」だという言い分は、喰わせものだということ。
 
 私たちは、自らの体験と日々の生活実感を踏まえないマスコミや評論家風情の言辞や風評に惑うことはない。【彬】

 

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エジプト仮想旅行

2021年02月09日 | 日記

 NHK、Eテレで先月1月から、アラビア語講座の新しいシリーズが始まり楽しみながら学んでいる。

 内容は、女優のサヘル・ローズさんが、アラビア語を学ぶため某旅行会社を訪れ、エジプト旅行をしながら様々な体験を通し、言葉を学んでいくというもの。この、コロナ禍ということからか、実際に現地に行くのではなく、魔法の眼鏡を通しての、仮想現実体験というところが面白い。

 僕は、このNHKアラビア語講座が定期番組として始まった2004年から続けている。その間、講座の内容、レベルはかなり変遷してきている。そもそも、かなり難しい言葉なので、制作側は試行錯誤を繰り返してきたのだろう。文法など基礎に重点を置いたもの、また、通常のアラビア語会話に慣れることを主眼としたもの、様々。

 僕自身は、アラビア文字、文法、表現法、アラブの生活習慣、文化歴史など、この番組を通してかなり学ぶことが出来た。現在の番組内容は、アラブ諸国への旅行ですぐに使える、フレーズ紹介となっている。あの、独特のアラビア文字は使わず、ローマ字で表現している。多くの人に気楽にみてもらおうというものなのだろう。

 ところで、面白いと思うのは、サヘルさんはイラン出身でペルシャ語が母国語。同じアラビア文字を使うが、アラビア語とは全く違う言葉。・・・・日本人が中国語をまなぶようなものかな?

 言葉というのは、歴史と文化などが複雑にからみあったもの。様々な事象で他国との食い違いのようなものにぶつかった時は、相手の国の言葉を学び、その違いを理解すること、つまり歴史と文化を理解することが大切ではないと思う。外交でもそう思う。それが相手への敬意にもつながるのではないだろうか。

  絵は、サヘルさん左、と講師のカリーマさん右。

  2021年2月9日  岩下賢治

 

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