ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

晩秋の日、ロシア絵画を鑑賞する。

2018年11月25日 | 日記

 趣味でロシア語を勉強している流れの中で、最近行き詰まりを感じていて、何か新しい刺激を受けたいと、11月23日、勤労感謝の日に一日をかけ、ロシア絵画展を二つ訪れた。

 午前中に、八王子市の東京富士美術館で、サンクトペテルブの国立ロシア美術館所蔵の40点を。午後は、渋谷のザ・ミュージアムで、モスクワの国立トレチャコフ美術館所蔵の72点を。両者とも、19世紀から20世紀のロシア帝政時代にロシア人画家により描かれたもので写実で緻密な名作ばかりである。

 春夏秋冬、豊かな自然の風景からは、大地や森をわたる風と匂いを、海辺からは濃い潮の香を感じる。田舎の庶民の宗教儀式を覗いたり、村の子供たちが集まり精霊や妖怪の話をしているのに加わる。彼らの間からは生き生きとしたロシア語が聞こえてくるようだ。そして

 高貴なご婦人にもお会いする機会を得たりもする・・・・。

 そんな風に、美術展のテーマ、「夢、希望、愛」そして「ロマンティック ロシア」に沿った帝政ロシア時代末期へ時空を超えた旅を終日楽しんだ。

 ところで、まったくの余談であるが、これらの絵が描かれた時代は、日本では明治維新の頃になる。当時の政府指導者がロシアの絵を見たかどうかわからないが、仮に見たとしたらその素晴らしさに驚いただろう。それよりか、このような絵画を生み出すロシアという国の力に恐怖を感じたに違いない。南下してきて日本を飲み込んでしまうのではないか、と。

 実際、絵を鑑賞しながらそんなことも想像していた。それはともかく、今はこうして素晴らしい絵画作品を日本で鑑賞できるのだ。

 さて、頭もリフレッシュしたことだし、ロシア語の勉強を進めることにしよう。

 絵は、イワン・クラムスコイ、の「忘れえぬ女」の一部を概略スケッチしたもの。

     2018年11月25日  岩下賢治

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「ふ」という文字・言葉

2018年11月21日 | 日記

   絵は斑入りのケヤキ

 公園の植え込みに、変わった樹が植えられている。ケヤキのようだが、それほど大きくはなく、葉に白いまだら模様が入っている。目立つのだが、なんだか毒々しい。

 ある時、植木屋さんが剪定作業をしているところに出くわしたので、ちょうど良い機会と「この木なんというの?」と尋ねだ。
 すると「ふいりのケヤキ」だと言う。「珍しいです。」と答えてくれた。「ふいり、ですかと」なんだかよくわからないままにその場を離れ、自宅に帰って「ふいり」という言葉を探してみた。そして「斑入り」という漢字を探し当てた。
 その後久しくして、ふと「ふいり」と言う言葉を思い出し、なにか読みや音に記憶違いがあったかもしれないと思い、パソコンで調べてみた。そしたら、漢字に変換しても該当の字が出てこない。確か「ハン」「班」という字であったはずだと、班の字を調べてみても「ふ」という読みは出てこない。焦った。
 調べ方についていろいろ考えてみた。そして思いついたのが、音読みで「フ」と言う字がないかという考えだった。パソコン上でフという音を探した。当然ながら「フ」たくさんある。画面の文字をずっとスクロールしていくうち、ありました。「班」ではなく、「斑」です。よく見てください。「班」という字と「斑」という字は違うのです。王に挟まれている「リ」と「文」の違いがあるのです。私はこの区別を知らずに、「斑」と「班」を同じ文字として記憶していたのでした。
 班という字はつくりが王篇であるのに対し、斑という字は、中の文がつくりになってブンニョウだという。似た文字なのに意味も由来も全く違うのである。
 斑の音は「ハン」でもあり、子どもの青アザである蒙古斑、皮膚病の白斑もそう。思えば親しみのある字なのである。そして意味の「まだら」ということからスキー場で名高い斑尾高原という地名もある。
 「ふ」としたことから、班と斑の違いを学び、「ふ」というのに、巫女とか巫覡いうのもあったな、と漢字の奥深さに思い至った次第。【彬】

 

 

 

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新奇な言葉 

2018年11月11日 | 日記

     色づいてきたキンカン

 パソコンに「まぎゃく」と打ち込むと「真逆」と変換される。辞書にも真逆という項目があって、「まぎゃく」という言葉がすっかり市民権を持ったようだ。

 私たちの時代にはこんな言葉はなかった。同じ意味で言うなら、正反対とか、単に逆という言葉を使った。真上とか、真南とか、真下とかとおなじように、「逆」という言葉に、なぜ「ま」という接頭語をつけたのだろうか。

「逆」という表現は、かなりキツイ言い回しである。だから意味を損なわずに、より緩やかな感じがする「真」というコトバを加え、対話や討論の時に角が立たないようにしたのかもしれない。それが今の人たちの語感なのだろう。

 言葉は生き物だから時代と共に変化していく。しかし、その変化の様子に違和感を感ずるものと、納得できるものがある。「真逆」というのは、私にとっては前者だと思う。

「重複」というのもそうだ。いつのまにか「じゅうふく」が一般的になった。私の学生の頃は「じゅうふく」だとバツになったと思う。そんなことを思っていると、テレビ画面で「そっきゅう」という言い回しに出会った。早急の新たな読み方なのだろうか。「早急」は「さっきゅう」のはずだが、いつのまにか「そうきゅう」になった。そして「そっきゅう」になるのか。

 日本語には和語と漢語が入り混じっている。その区別に敏感になることが、教養の第一の条件であった。これからはこれに西洋語が噛んでくる。西洋語をいかに上手に組み込んでいくかが日本人の教養のひとつになっていくのであろう。そしてSNS語もそのひとつ。わたしたち老人には、対応の難しい時代になった。【彬】

 
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憎しみを越えて

2018年11月09日 | 日記

 少し、厳しいタイトルになりますが、米タイム誌の11月12日付けの特集記事のタイトル、 Beyond hate (憎しみを越えて)です。米国中間選挙直前なので、hate、は「分断」の比喩かと思いつつ読んだが、更に深く微妙なものだ。

 この、10月27日に起きた、ペンシルベニア州、ピッツバーグのユダヤ教礼拝所(tree of life synagogue in pittsburgh)が、反ユダヤの男に襲撃され11名が亡くなった事件その他の最近のヘイトクライムについて、5名の有識者の寄稿文が紹介されている。

総じて、共通し主張しているのは、

①    反ユダヤによるヘイトクライムの犠牲者は最近ふえている。

②    トランプ大統領の、アメリカ第一主義、という主張は、遠いスローガンで個々の人の心にとどくか疑問。

③    同大統領は、人種、宗教、などでの少数弱者への対策が弱い。

④    これからの世界の運命を決めるのは、リーダーによる以上に自分たちの意志の統合による。

 この記事の編集責任者は、「憎しみ」は人間のあらゆる本能の中で最も顕著なものだ。他の動物は生き残りの手段として、暴力や毒牙をつかうことがある、と述べる。タイム誌はリベラルな主張を繰り返えしてきた。だから、今回の記事も、選挙を前にした、反トランプ、反共和党の側に立った記事と読めないこともない。突き詰めれば、選挙の結果は選挙民の個人の利害を総計したものだと思う。個人が崇高な政治思想から投票することはあまりないだろう。かくして、選挙結果は、上院は共和党、下院は民主党が勝利した。

 今回のタイム特集記事により、複雑で、困難な課題を抱える巨大国家の、ほんの一面を知ることができた。

 絵はタイム誌の表紙を概略スケッチした。礼拝所の壁絵(生命の木)をモチーフにしたものと思う。

     2018年11月8日  岩下賢治

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