ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

世の中はマンガではない

2015年01月27日 | 日記

                            ご近所からローバイを頂きました。

 中東イスラム混沌地域で日本人2人が誘拐された。1人は「海外で警備などを請け負う民間軍事会社を立ち上げた。ただ、その分野での経験はまったくなかったという」(ロイター、2014/9/3)いう人物で、もう1人は実績のあるジャーナリストという。ジャーナリストの後藤某氏は、拘束されたらしい一方の軍事会社の湯川某を助けに行った結果だと報じられている。どういう経緯があっての拘束なのか、我々には正確なところはわからないが、ビジネスや観光ではなく、ある種の正義感による政治的な活動の結果のようだ。

 私は海外のことは皆目分からないが、今回のような事件や女性の一人歩きの末の暴行殺害などの報に接すると、日本人の状況認識の脆弱さだけが、いやが上でも浮かび上がってくる。これは外国の事情に疎いというのではない。おそらく被害者は私たちより現地の事情を数倍知っていると思う。だから出かける訳である。それなのにこうした結果に至るのは、こららの人の世界観に、どこか偏頗なところがあるせいだと思われる。話し合えば理解し合えるとか、大義があるとか、貧困や医療を支援したいなどという、上ずった思考にとらわれているのだ。日本国内でそうした表層部分での活動に意義を見いだす思潮があるが、それは言わばマンガの世界にすぎない。貧困や抗争が善意で解決できると思うのは、私たちの身の回りの奥底に「国家」という大きな壁があることを見過ごしているためである。

 また、今回の拘束事件の裏側に安倍首相のイスラエルでの演説がある。中東の人道支援に多額の援助をするというのだ。抗争の激しい特定の地域に、たとえ人道的だからといって援助を申し出るということがどういう結果もたらすのか、政治的な想像力が欠如している。国家というものを首相は会社組織や地方の行政機関と同じように認識しているのではないか。国という壁がみえていない。だから、拘束と演説とは表裏のパラレルな関係になっているように思えるのである。国会やマスコミの過剰とも言える反応も同様である。

 だが、ひょっとして、こうしたポップでマンガ的な状況判断は、日本だけでなく世界の一つの潮流になっているのだろうか?  【彬】

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老老社会を構想する

2015年01月22日 | 日記

絵=入澤光世・水仙。もうじき花が咲きますよ。

 京都府下の笠置町で、昨年の出生児がゼロだったことが報告されている(京都新聞1月14日)。この町に限らず、地方の小さな自治体では、同じようなことが起こっているように思う。出産年齢の男女が都市に移住してしまっているのだから、致し方ないことである。そうしたところでは、若者の雇用を確保できる地域産業を起こす画策を色々工夫しているが、成果が出るまでには至っていない。僕の田舎でもそうである。

 老人だからというわけではないが、僕だったら若者対策とか産業誘致といった施策ではなく、残された老人をどうするか、という対策を地方活性の要に据えたい。若者は都会に出て仕事を見つけることができるが、老人はそうはいかない。地域にとどまるほかない老人達をどうするのか、という問題である。

 で現在、老人問題の解決を若者に依存にするのが、主な考えや制度の中心となっているが、これは状況を顧みない時代錯誤だと思う。社会保障制度など、現役世代で先行世代をカバーしようとする制度は、今日のような少子社会では、若者世代に負担を押しつけるばかりである。

 そういう視角ではなく、老人が老人自身をまかなう、老老社会を構想したい。

 ひとつの具体的な考えだが、限界集落に近い自治体では給食センターをつくるべきだ。都会だと和民(居酒屋チェーン)などがすでに単身老人所帯に食事を配達する取り組みを行っている。これは本来、交通の不便な地方ですべき事業である。廃校になった施設などを利用して給食センターをつくり、地域の老人達に食事を配る。その献立や食事づくりには地域の老婦人達が担当する。管理栄養士などいらない。かつて冠婚葬祭の時にはそのように隣近所の夫人達が協力して、食事づくりをしてきたのである。配達には運転のできる老人たちで分担すればいい。こうした場合の労力には当然ながら僅かであっても対価を払うべきで、そこに雇用が生まれる。昔とちがって、老人自身が活動できる体力は、今日の長寿社会では十分可能なのである。

 そのほか、地域に銭湯をつくることなど、自治体が多少の援助をすればできることはたくさんある。ぜひ、実験的にでも取り組んでもらいたいことである。

 老人をまったく受け身の存在と位置づけるのではなく、活動の主体とすることによって、地域の動きがでてくる。そうした動きに民間の事業者が近づいてくるのだ。企業誘致ではなく、まず地域の老老社会の動きを始めるべきだ。【彬】

 
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知ろうとすること。

2015年01月18日 | 日記

絵は糸井さんと早野さん 

 早野龍五さんと糸井重里さんの対談本

   「知ろうとすること。」新潮文庫 2014年10月1日発行 430円

が、痛く心にしみたのでご案内します。 

 早野龍五さんは東大・理学の教授。糸井重里さんは西武百貨店のキャチコピー「おいしい生活」などでおなじみのコピーライター。お二人は、2011年3月11日の福島原発事故とそれ以降の様々な情報の流布を巡って、逡巡と活動の結果、知り合った間柄。現在もそして今後も長く引きずるだろう原発事故による放射能被害を巡るお二人の対談である。サブカルチャーを専門とする糸井さんと理論物理の先端を行く早野さんの組み合せというのが、不釣り合いに見えるが、そうではない。

 早野さんは原発の専門家ではないが、事故の翌日セシウムが検出されたというニュースに触れ、「Cs137が出す662keVのガンマ線を確認したという意味か。」とツィッターで発信し、「セシウムが原子炉の外で検出されるっていうことは、とってもまずいことだ」と、科学者意識が触発され、東電や自治体が公表しているデータを探しまくり、グラフ化する。それを見た各地の、同じような習性(科学者?)をもった人たちから、データが次々に送られてくる。それらをまとめ、ツィートすると、そのホロワーが一気に15万人くらいになった。糸井さんはそのホロワーの1人で、早野さんのツィートを広める一役を買うことになる。

 早野さん自身は定期的に福島に出向き、学校や病院などスタッフとさらに詳しいデータを蒐集し、ついには自らの費用で乳幼児用の測定器を開発するまでにいたる。

 デマ情報に惑わされるのではなく、まるでドラマを見るような活動ぶりである。それが科学者なのだろう。早野さんだけでなく、そういう科学者が日本に相当数おり、いざというときひとつの文化のように活動しあえたという現実が、私たち日本の未来を明るくさせてくれる。

 難しいテーマではあるが、話の内容は分りやすく手に汗を握るようだ。皆さん、ぜひご購読を奨めます。

 あとがきで糸井さんは今回の事故のように事実の有り様が不分明な時のとる姿勢として次のように書いています。

 ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしていないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。

 原発に限らず、いろいろな社会運動や政治的発言に対しても、この糸井さんの判断基準はおおいに参考にしたいものである。【彬】

 
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所得格差について

2015年01月17日 | 日記

 フランスの経済学者、トマ・ピケティ氏の著書「21世紀の資本」が欧米ほか、そして日本でもよく売れている。この本の論旨は「資本主義経済下では、資本の収益率が経済成長率を長期的に上回り、富は資本家に集まり、所得格差が広がり社会不安の要因となる。世界レベルで富裕税を導入するなどの政府による干渉が必要」ということ。

 資本主義経済にあっては、資本家が取得を得るのに有利であることは、今までの経済理論で説明でき、また歴史的事実であり、これまで様々な取得の再分配政策が取られてきたと思う。この「21世紀の資本」では、多くの富が資本家に蓄積されることを過去200年に及ぶ経済データから示したことが革新的な書物ということだ。見方を変えれば再分配政策がうまくいってこなかったことを説明しているとも言えるのかもしれない。

 僕は、まだこの本を読んでいないが、関連して自分の考えを言いますと、

 ①自由競争下での資本主義経済の所得分配は一定条件下で合理的で公正。

 ②経済制度は完全なものはなく、現実に合わせ運用、修正していかなければならない。

 ③根っこにある、いかにして資本家になったかという問題?相続か、才覚かを問うのは意味がない。

 ④社会主義計画経済は難しく、歴史が失敗を示している。

 ⑤今一番の問題なのは、世界的に経済が低成長の時代になっているということ。制度上多少の矛盾があっても経済成長が続き、全体のパイが大きければ、労働者側の取り分がある程度大きく、富裕層とのギャップは大きな問題になりにくい。

 なお、この本は、フランスの学者によるものだが、格差の大きいアメリカで大変話題になっている。日本でも低成長と所得格差は大変問題だが、アベノミックスの3本目の矢でこれに対応しようとしている。または、民主党の主張する分厚い中間層を再生するということでもあると思う。

 p.s.「21世紀の資本」は経済書であるが、歴史書としても素晴らしいと評判だ。英語版でペーパーバックスが出たら読んでみよう。

                          2015年1月13日   岩下賢治

 

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素足のすすめ

2015年01月11日 | 日記

                       絵=私のお正月の食膳

 最近、知人を含め、何人かが自宅内でつまづいて、骨折したという知らせがあった。道路や階段でころんだというのではなく、自宅での事故だというのが、すごく気になることである。それぞれ個別の理由があると思うのだが、想像するに、床に置いた荷物に引っかかったのだと思う。マンションタイプの集合住宅の中で、年配の人が生活するには物が多すぎる昨今である。断捨離などという言葉を使う人がいるが、物を捨てられずに、つい床に放置するというのが、転ぶことにつながっているのではないか。

 人には目線というのがある。小さな子供は上に視線が届かないから、テーブルや引き出しなどによく頭をぶつける。反対に年寄りになると、こごむのが億劫なものだから、足元に視線が届かないようになる。荷物はなるべく目の高さに置けば良いのだが、そういうスペースは現在の居住空間にはない。食卓などのテーブルの脇に物入れ用のラックなどを掛けるとか、壁に棚など取り付けられればよいのだが、と思う。老人向けにそういう家具部品の開発が望まれる。

 と同時に、転ぶというのは筋肉の衰えだから、防ぎようがないのだが、足の感覚を敏感にしておくことが大事なことのように思う。そのためには素足で動くとよい。寒い最中でも暖かい時間をみつけ、小一時間でも素足で活動したい。靴下やスリッパを履くとどうしても感覚がにぶるのである。まわりまわってそれがけつまづく遠因になっているような気がするのである。

 私がそのことに気がついたのは、ランニングシューズを素足ではいた経験による。素足だと身体の動き全体が、足裏にビビットに伝わってくるのである。(ただ長時間だとマメをつくったり、いろいろな弊害がでてくる)身の回りや環境に気を配ることと同時に、自分の足の感覚を大事にすることが、家庭内の事故を防ぐひとつの方法のように思うのである。  【彬】

 

 

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