ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

世界人の国家意識

2018年06月27日 | 日記

 先日、6月23日(土)NHKBSで、ハーバード大学の政治哲学教授、マイケル・サンデル「白熱教室2018」の放送があった。

 この授業は、随分前から政治経済などにからむ現実の問題を、学生たちと直接議論し答えを求めていくことで、話題となっていて、僕もよくみていたし教授の本も読んでいた。今回は、民主主義と西洋哲学発祥の地、ギリシャの古代遺跡を教室の場として、世界から21名の若者を集め、テーマを「移民と国境問題」で進められた。参加者のほとんどは、欧米出身の30歳前後でこのテーマにかなり関心があるはず。僕としては、彼らがどのような考えをもっているか関心をもって見ていた。

 議論の流れは以下の通り。

 移民は、次のように、災難から逃れようとする難民と、より良い生活を求めての難民に線引きされる。

  ①    戦争や迫害などを逃れての難民は受け入れる。全員道義的に賛成。

  ②    より良い生活を求めての移住は一部反対。・・・反対理由は、既存住民の文化や所得にマイナス影響をおよぼす。・・・賛成理由は、異文化を受け入れることで、より多様性にある強い社会が築ける。今の、アメリカ、イギリスのように。

 さらに、議論は、国家、国境問題に入り、

  ③    現在の、ヨーロッパなど豊かな国は、世界中に植民地を持っていた。それにより今の富を築いた。

  ④    いや、アメリカは自らの力で植民地を切り開き国を作った。

  ⑤    難民を生み出す原因には、先進国はすべてがなんらかの関わりをもっている。

 そして、議論の終盤では、人々はコスモポリタン「世界人」でありたいという意見が出てきた。しかし、固有の文化、国家意識を持たないで自分らしい生活ができるだろうか?・・・のような議論の流れになった。

 最後に、サンデル教授のまとめは、今回のテーマで結論まで行きつけなかったが、常に現実をみて議論を交わしていいかなければならない、であった。 

 さて、話は飛んで。今、ワールドカップ真っ最中。特にサッカーに興味のない僕も、日本の対コロンビヤ、セネガル戦には大変興奮した。その興奮は、どこからくるのだろうか。冷静に観察すると80%は、日本国民という国家意識によるようだ。グローバル化の時代にあっても国家意識は変わりなく、むしろ強くなるようにも思う。

 おそらく、ほとんどの人は、先ずは世界人でありたいという考えに反対する人は少ないだろう。だが、実際はどう振舞えばよいか分からず、僕の場合、「日本人」という枠に避難し、安ど感を感じる。「白熱教室」で出てきた「世界人としての国家意識」とはどういうものなのなのだろうか? グローバル化にあって課題であると思うのだが、現実には、欧米の一部は、むしろ保護主義化に傾いている。 

   絵は、白熱教室の様子。

     2018年6月26日  岩下賢治

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義務教育にスクーリングを

2018年06月25日 | 日記

  ヒルガオ、です。


 少子化が進んで、廃校になる地域が後を絶たない。廃校になると子供達は、新たに建設された地元とは離れたところの学校に通うことになる。当然ながら遠距離通学になる。今までのように歩いて通学することはできないから、スクールバスが運行される。バスだから、登下校が均一になる。そして集合時間がきちんと通達され、守ることが義務づけられる。
 私の小中学校時代を思い出してみる。登下校は、本人の意思により自由であった。気分の悪い時には、いろいろ理由をつけて遅刻した。下校の時は、道草を食ったり、寄り道したり、そして同級生や下級生と、いろいろ悪さをしたりして、そこで子ども同士の視野の広がりや情緒を養う機会があったと思う。ところが、今はスクールバスでの集団登下校で、見守り父兄の監視といったスタイルが一般的になっている。
 通学問題を横に置いて、さらに思うのは、児童数がどんなに少なくなっても地域の拠り所は学校だということだ。学校は勉学の場所ではあるが、地域共同体の象徴としての意味を持っている。まだ学校がなかった大昔には、寺社がその役割を負っていた。寺社は聖地であるとともに子どもの遊び場所でもあったのだ。そこから子供達は地域意識を身につけていったのである。地域の共同意識は法律ではないから、学習科目のように黒板を通して学ぶものではない。生活の中で自然と身についていくものである。学校はこの共同意識を涵養する不可欠の場所なのである。
 つまり、学校はいくら生徒数が減っても廃校にすべきではないということである。 
 では少人数の生徒、例えば学年で3〜5人しか生徒がいない場合、昔でいうと山の学校、分校などと呼ばれていたものを、どうするのか?
 昔と違って、今はコンピュータの教育システムが普及している。先生は教科を教えるというより、その補助をするだけで足りる。規模が小さくても、学業に地域差はないようになっているのである。だから学校運営は校長と教師が一人いれば十分やっていけるのである。
 小規模の場合おそらく問題となるのは学力ではなく、意識が内閉してしまう、そうしたことではないだろうか。これを防ぐためには、大勢の生徒が集まるスクーリングが有効と思う。他所の子どたちと一緒にし集会し、外部と触れることを体験させるのである。月に1〜2回、地域の子供達が合同して触れ合う授業をする。その場合、おそらく体育や音楽、図工のような課目が適しているように思う。新たに新設される統合校はこうした学業の場にすべきである。
 スクーリングというのは、通信教育など、直接指導を受けられない人たち用の勉学の場であったが、この制度こそ生徒数の少ない学校に適用すべきだと思う。通学が規制されているのは少子化している地方だけではない。都会でも交通事故や誘拐などからの危険から守るための通学規制が行われている。子どもたちを子ども同士の外部世界に接触させるためにも、スクーリングは是非とも行われるべきことのように思う。昔、行われていた夏の学校など、学校単位の行事ではなく、地域全体の合同した行事として復活していくのも一つの手だと思う。【彬】

 

 

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義務教育から技術系課目を削除すべし

2018年06月13日 | 日記

                   紫陽花の花

 小中学校の先生が、課外活動などで過剰な負担となっていることが問題となっている。なるほど、登校時間が早い上に、課外活動についても、顧問、あるいは部長として付きそうことが義務づけられているため、実際、教師は休む暇がないようだ。肝心の教科の下準備もできないようなら、大いに問題だ。日教組全盛の頃は、各学科の教研集会が全国的に展開され、口角泡を飛ばして議論していた頃が嘘みたいな時代となっている。

 何が問題なのか。
 私は義務教育課程でのカリキュラムの中で、技術系の課目が多すぎるのが、原因だと思っている。例えば、体育、音楽、家庭科、図画工作、である。こうした課目が教科に取り入れられたのは、敗戦後、貧しい時代の中で子どもに西欧的な健康的で文化的な体験をさせるためであった。例えば栄養や衛生面、あるいは衣服や睡眠についての科学的知識の教育。その結果として各家庭の古い習慣は、子どもを通じて徐々に改善されていった。日本の近代化、民主化、経済発展の礎は、学校を通じて浸透していったと言える。
 だが今日、そうした教育指針は、生活文化の圧倒的向上、それにマスコミやインターネットの普及によって、時代遅れでその役割を終了していることが明らかになっている。例えば音楽。今、音楽好きの子は、学校からではなく、様ざまな社会的機会を利用してギターやピアノなどの器楽はおろか、ロックやフォークなどのポピュラーな音楽を自在に習得するようになっている。かつてピアニカという奇妙奇天烈な楽器が発明され、子どもたちに分け隔てのない音楽教育を施そうとしたことなど、ほとんど嗤い話に過ぎなくなっているのだ。図画工作も同じである。絵の好きな人は独自にマンガ家の道を歩んでいる。これら技術系の科目は、学校外で学び接する機会が格段に広がっていて、学校での均一的な指導を逆に嫌がる傾向にある。
 体育系はどうなのだろう。各学校にプールが設置され、水に親しむことが行われているが、しかし現在は公共の施設が普及して正式の指導員もいる。学校に依存することはない。身体の健全な育成にしても、かつての農山村の肉体駆使の生活から開放された現在、学校の果たす役割は少ない。野球とかサッカーとかの種目は、校庭をスポーツの場所として開放すれば、父兄や関係者が喜んで指導する。
 こんな意見を、ある教師に披露したら、賛成どころか、ひどく反発を喰らった。そんなことをしたら教育で一番大切な機会均等が損なわれる、というのだ。学校という場所でこうした技術系を廃止したら、貧しい人はその文化に接する機会がなくなってしまうというのだ。
 憲法で謳われている教育を受ける国民の権利は、確かにこうした主張に導く。しかし、ここでいう権利というのは、文化的生活を送るための最低限の権利であり、プールが無くて泳ぐことができないことが、教育の機会均等を阻害することになるのだろうか? 形式的な機会均等にこだわっることが、逆に教師の首を絞めていることになるのではないのか。
 主題から逸脱するが、教育としての部活動、特にスポーツ系のあり方は日大のアメフト部問題ではないが、日本が抱えた大きな文化的な問題である。学校教育からスポーツ教育を排除すべきである。朝日新聞が連日に渡って高校野球を称揚している紙面を作っていることに、特に私は苛立つのである。【彬】

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ドローンの時代

2018年06月09日 | 日記

 米国タイム誌の、6月11日付けの特集記事は、the drone age (ドローンの時代)である。特集を組んだ理由は、昨年9月プエルトリコを襲ったハリケーン、マリヤが、島の電気配線網や流通システムを破壊し、米国本土に住む、プエルトリコの人々5百万人が島との連絡を絶たれた。そして、その復旧に、ドローンが大活躍した。ここで、改めて、ドローンというものをあらゆる面から見ていこうということのようだ。

記事の概略は、

①    全世界で、2017年は3百万台が販売され、米国は百万台以上が登録され、少なくとも12万人がプロとして操縦している。様々な種類、そして用途で使われるが、安全性と利便性のバランスをとりながら整理統合の動きもある。好き嫌いにかかわらずこの上空はドローンであふれることになりそう。

②    新たな脅威として、武器としての使用の問題がある。武器の運搬、またそれ自体が武器となる。また小さなドローンを大型ジェット機のエンジンが吸い込み大事故にもなりえる。あるドローン研究レポートによると、33か国155社の、230もの製品が悪役ドローンになりそうだ。

③    2016年12月21日、アフリカのルワンダ。医療施設の不足している地域の2歳の子供が、ドローンが運ぶ輸血血液で間一髪命が助かった。これがドローン運搬による最初の救命事例となった。以降、ドローンを使った医療体制整備が進められる。

④    ミケランジェロは、モナ・リザを描きながら、空を飛ぶ方法を考えた。空を飛びたいというのは、物理の研究よりは、空から世界を眺めたいという欲望から。現在では映像、映画製作でドローンが使われている、

 以上が概要ですが、当然のことのように理解しやすいものだと思う。

  僕は、④の内容に興味を持つ。というのは、子供のころから空を飛ぶ夢を見るのが至福の時だったから。「夢」というのは、眠っていて見る夢のことですが。

 ところで、人間は飛行機により空を飛ぶ夢を実現しましたが、眠っている時に見る夢のように自由に空から下を眺めることは、ドローンでようやく実現出来きたのだと思う。狭いところ、垂直の側面を、鳥や、蜂(ドローン)のようにホバリングしながら、舐めるよう見ること。ゾクゾクするのは、飛ぶことそのものではなく、空から眺めることなのですね。僕自身がドローンを操縦することはないのですが、いろいろな機会で様々な映像に出会える楽しみな時代になりました。

 絵は以前見た夢の中での空からの眺め。ジブリのアニメに出てきそうな絵。

        2018年6月9日  岩下賢治

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日大アメフト問題、アマチュアスポーツの根の深さ

2018年06月06日 | 日記

   カタバミの花です。

 日大のアメフト部の引き起こした反則プレイが大ごとになって、当該試合だけでなく、スポーツ界全体のパワーハラスメント状況の問題にまで広がってしまった。広告塔の役割を背負ってしまったスポーツの、勝利という結果を最優先にもとめる、言ってみれば自業自得のようなものである。
 今回のプレーを巡っては、思うことがいくつかある。
 アメリカンフットボールというのは闘球と訳されるほどの格闘技である。だからラフなプレーは当たり前、そのための防具も身につけている。が、インプレー中ならともかく、笛が鳴ってプレーがストップしたのにもかかわらず、背後から相手を痛めつけることの、競技的な意味があるとは到底おもえない。監督は秋の本戦に有利だからと指示したとされるが、いくら強権的な監督とはいえ、そんな作戦指示はありえない。おそらく、選手と監督・コーチの間で大きな齟齬、あるいは副次的問題があったに違いない。
 こうした問題は、細かく見れば、日大のアメフトティームに特徴的なものではなく、野球やサッカーを含め、すべてのティームスポーツが抱える問題なのではないのか。指導する側と、受け取る側の間で、あるいは選手間(特に上級生下級生間の)での、戦術や技術的な問題とは関わりのない、嫌がらせや暴力的な行為が日常的に起こっているのではないだろうか。
 特に、アマチュアスポーツ界が問題である。
 プロスポーツなら、勝敗の結果がすべて金銭の報酬に帰せられるから、陰湿な暴力沙汰は起こらない。監督やコーチにしたって、勝ってなんぼ、その報酬が自分にはね返ってくるわけだから、明快である。ところがアマチュアスポーツの場合、勝ち負けは報酬ではなく、栄誉の問題であって、そこに過度な幻想的な価値が付いて回る。大学や高校などは、スポーツの成果を仕立て上げ、学校の価値を高めるのに利用している。高校野球などをみれば明らかである。
 スポーツは目的が明快である。だから分かりやすいドラマが生まれる。昔、「孤独の報酬」というイギリスの名画あった。主人公は好きな女性に気に入られるよう、人気のラグビーに打ち込む。そして勝つために主審の目の届かないところで汚い反則行為を行い、そして成り上がっていくストーリーである。
 スポーツは単純で明快だ。そこから正義や純真さを学ぶべきと言った言説が横行する。しかしアマチュアスポーツに馴染んだ人は、その背後に訳の分からないいびつな考えがはびこることを知っているのである。【彬】
 

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