ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

夏の終わりに想うこと

2018年08月29日 | 日記

 この夏の終わりあたりの夜明け前、夢をみた。・・・どこか旅行に行って、あるホテルでのこと。帰り支度しているうち、いつも携帯しているバックが紛失しているのに気がつく。

 状況から見て戻ってこない。お金と切符は身に着けていたので帰ることはできる。だがバックの中には何よりも大切なものが入っている。旅に出る時も常に持っていく日記帳だ。がっくりして帰る気にもならず、大変悲しく夢であってほしいと願う。・・・・・・・やがて明るくなり、眼をさまし現実にもどると、おもわず、日記が手元にあることを確認しホットする。

 なぜ、こんな夢を見たのだろうか。 

 先日、大変お世話になった会社の大先輩から本が届いた。高齢になったので、今まで、新聞、雑誌、会報等に書いてきたものを一冊の本にまとめたということ。本人は、自分のことを書いたのではないので自分史ではないというだが、読んでみると、小学生時代からの作文もあるので、ご本人の人生の総体として読めるものだ。

 僕は、感じ入って自分自身のことを振り返る。小学生のころから続けている日記がある。

 読み返すと、ただただ懐かしくその時代に入り込む。今となれば面白いノンフィクションだ。また、今まで一生懸命生きてきと思う一方、悔いることはたくさんあるものだ。今こうしてある自分自身は過去から集積した総体なのだ。過去を振り返ることは後ろ向きではない。これからのために大切ことだ。そのためにも、自分の歴史を綴った日記は途切れさせたくない。

 日記を読むことで大切なのは、これから何をどうしていくのかの指針にすることだ。過去は変えることはできないが、未来は自分の意志で決めていくものだ。自分の歴史は、今現在、進行中なのだ。

 8月下旬、今年はまだまだ暑く、ゆく夏を惜しむなどという気持ちにもなりにくいが、季節の変わり目には、想うことがいろいろあるものだ。

   絵は、思い出の青春の一コマ。大学時代、群馬県武尊山の春山登山。左端が自分。

  写真を元に絵にした。  2018年8月27日  岩下賢治

 

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高校・部活としてのスポーツについて

2018年08月26日 | 日記

    大きな葉の中に、ドングリが実っています。クヌギの木です。

 今年の夏はスポーツイベントの花盛りで、次々とビックイベントが開催されている。そんな中、スポーツの社会的な側面、特に高校スポーツのあり方について思うことがあるので、私はスポーツの専門家ではないが、メモしておきたい。
 まず、甲子園の高校野球。最近いろいろ指摘されるようになったが、この大会は1つの球場で、都道府県の代表校がすべて競技するのを特徴としている。その結果、大会日程が大幅に伸びる。試合のない学校は地元に戻るわけにもいかず、長い間、旅館やホテルに滞留する。この間、ほぼ合宿状態で、その費用は果たしていくらくらいかかるものなのか。
 交通費を含め、選手個人では贖いきれないのは当然で、学校や大会本部が相当部分を負担しているのだろうが、お金の工面がつかない選手も当然いるはず。その手当をどのようにしているものやら。親が借金しているのだろうか。昔は将来プロになるとか優秀さを見込まれた選手は、大学やら、社会人チィーム、あるいはプロ野球球団から資金面の面倒をみてもらうことが半ば公然と行われていたようだ。しかし、すべての選手が一流ではないから、その負担は父兄の重荷になる。大会だけでなく、日頃の練習や遠征の出費も相当のはず。
 費用の問題だけでない。試合を待っている間、まともな練習場はない。試合の当日は甲子園球場での練習時間は15分だったか、ほんの少ない時間しか与えられていない。室内競技ならいざ知らず、フィールド競技でこうした制約など、本来ありえない運営である。
 野球だけではない。各種競技の高校選手権、通称インタ杯は、選手の参加費用をどのように工面しているものなのか。
 また、スポーツ用具の改良も進んでおり、従って値段も高くなっている。その用具代はどう工面しているのか。甲子園出場校の練習風景を映像でチラ見したかぎり、練習ボールに綻びはなかった。ボールの損傷は激しいから、そのボール代だけでも相当な費用がかかっているものと思う。
 昔、スポーツをハングリー精神で捉えようとする雰囲気があった。しかし、成り立ちから言って、暇とお金の余裕がないことには成り立たない活動が、スポーツなのである。今日の隆盛は、だから生活水準が高まっていることの証明でもあって、喜ばしい限りではあるが、その負担に耐えない家庭も多いのではないかと危惧する。
 高校生の部活としてのスポーツは、なるべく費用の負担を少なくしたい。そのための方法は、公式試合を多くすることである。現在、公式というと、甲子園の予選か、国体の予選、インタ杯でしかない。県が予選、全国が本戦と一本化する仕組みが公式試合を制約している。だから有力校は練習試合として、適切な相手校を求めて全国に長期の遠征試合を組む場合もあるほどだ。こうした状況が、費用の嵩みと、選手権試合重視の背景だと思う。
 思うに、近県や地域単位で任意による数校のリーグ戦制度を作ることができないだろうか。それを公式戦として、記録していく。そうした公式戦が制度化されれば、過度な甲子園野球のような愚は避けられるはずだ。地元でのリーグ戦だから費用それほどもかからない。
 私はスポーツが好きである。スポーツの成果は、例えば大谷翔平選手や池井梨香子選手などにみるように、人間の身体能力の、想像以上の向上に寄与していくのである。言って見れば人間の潜在的な肉体能力には、計り知れない可能性を秘めているのだ。そのためにも、もっと気安くスポーツに親しめる環境や施設、そしてよき指導者が求められる。そして、その運営には新しいスポーツ思想が込められていくべきだと思う。【彬】

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東京に台風が来ない不思議

2018年08月14日 | 日記

ミニトマト、です。

 このところ、台風が立て続けてやってくる。13号は東京や関東を直撃などという予報もでたのだが、幸い銚子沖にそれた。

 思えば近年、東京が台風に直撃されたことはない。台風だけではない、落雷などの荒れた天候も、都心に影響を与えたことはない。どうも台風や前線を伴う低気圧が、東京という大都会を避けているのではないか。ひょっとして高層ビルや密集した建物のせいで、上空は自然状態とはちょっと違った様相を呈していて、台風などの現象が通過しにくくなっているのではないか。たとえば山塊が風雲をせき止める役割をするのと同じように高層ビル群が気流をさえぎり、広大な建物群が水蒸気などの蒸発を制限しているような。

 以上は全くの冗談だが、ひょっとすると、ということもある。気象関係者の頭の片隅にでも置いていてもらいたいものだ。ヒートアイランドという言い方がある。この状況が地域の気象にどんな影響を与えているのか、はっきりしたことは分かっていないと思う。実際、冬場だと都心の気温は郊外と3度前後の差があるのである。

 また、東京に記録的な暴風雨がやってきたら、都市機能が麻痺するのではないかなど、いつも言われることである。少しでも水などの被害がでると、災害に弱い都市というのがテレビや新聞の言い草である。しかし私は、都市ほど災害に堅牢な場所はない、と思っている。昔は台風が来ると、東京も神田川や石神井川など小河川が氾濫し、ひどい状況だった。地下鉄の構内に水が浸水したこともあった。しかし今日、都市の整備が進み、水に対しては地下に巨大な貯水槽が作られ、そこに流れ込むようになっている。また地震対策なども進んでいて、ほとんど耐震対火の建物になっている。万全とはいかないが、交通や通信システムも整備されている。問題となるのは電力だけである。いまのところ、自前の電力はないので、災害時でも、電線を通して遠方から送ってもらうほかない。

 ところが、折に触れ、地震学会やら様々な組織が、巨大地震が起きたらとか、津波が襲ったら、何十、何百万人もの死者が出るいう。9月は防災の時期にあたる。でも過度の言いふらしは、まったく利がない。着々と都市の整備を進めることが大事なことだと思う。【彬】

 
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猛暑の夏、ひとときの涼を楽しむ

2018年08月09日 | 日記

 今年の夏は大変な暑さで外出がつらい。それでも、週二回、近くの小金井公園で日陰を利用して、短距離走のインターバルをしている。以前に、「夏に鍛える」とか「夏の暑さを楽しむ」とか言って、ブログに書きましたが、今年はかなりきびしい。

 そんな中、8月7日は、台風の影響で冷気が入り、朝から雨となった。この日は練習予定日であり、躊躇なく傘をさして出かけた。風と共に素肌にあたる雨は冷たい。なんと贅沢なことか。公園での、200m*10本のランニングはなんと楽しいものか。小雨にけむる、公園の草、森の緑は深く目にしみる。

 朝の9時は、雨のためだろう、普段と違い人影がない。人のいない広い公園では、大自然の中にいるような気持になる。僕の好きな景色だ。 いつもより多数のカラスが飛び交い、降りて来ては地面をつついている。雨で顔を出したミミズかなにかを探しているのか。ムクドリの鳴き声も生き生きしてる。 この鳥たちを見ていると、この夏の猛暑から逃れてひとときの涼を楽しんでいるようで不思議な共感を感じるのだ。この地球上の同じ生き物なのだな。

 10時を過ぎると、ジョギングやウォーキングをする人が現れて、いつもの小金井公園になっていく。 今、夏は中盤。暑さは続く。夏は、暑さを、「鍛える」「楽しむ」を旨としたいものだが、今年は乗り越えていくものだ。

  絵は、雨の小金井公園。       2018年8月8日   岩下賢治

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夏のターミナル

2018年08月06日 | 日記

夏の花、ムクゲ


 つい先日、入り用があって東京駅を利用した。あまり出歩くことがなかったのだが、その雑踏、変容ぶりにびっくりした。夏は観光シーズンであるので、旅行客が大勢いることは折り込み済みだったが、それでも海外の人を含め、その多様な人たちの賑わいには、かつての東京駅を知る人には驚きであった。
 驚きはなにか。行き交う人の多さだけでなく、東京駅という建物、システムに驚く。先年来、注目を集めている丸の内側の情景を含め、今注目すべきは、反対側の八重洲口の景観だと思う。駅前の大きな広場を、テントを思わせる大きな天屋根が覆う駅前を、長距離バスと、都バスがひっきりなしに離発着している。200メートルはあろうか、天空のテラスから見下ろすと、飛行場の駐機場から、次々に出て行くような、そんな幻想を抱かせる光景だ。
 丸の内側が煉瓦造りで、皇居につながる迎賓の回廊とすると、反対の八重洲口は、人々の生活を背負った交叉路のような光景になっていて、まったく対照的である。
 もちろん、丸の内も八重洲も、中心となるのは鉄道で、新幹線をふくめ、鉄道網はどれだけ、多くの人を運ぶのか。都市の中心はまさしく駅の隆盛にある。地方の衰退は駅の衰退を意味していいると言って良いくらいだ。 
 駅と言えば、映画を思い出す。日本映画では高倉健の「駅」だろうか。ビクトリオ・デ・シーカの「終着駅」も思い出す。さらにはジョンウェインの「駅馬車」も欠かせない。でも、現代の駅は、そうしたロマンチックな思いを粉々にする巨大なシステムである。昔、都市工学という学問が脚光を浴びていたときがあった。都市を問題にするとき、巨大な駅を無視するわけにはいかないだろう。というより、都市のあり方を考えるとき、その中心は駅であるのだ。パリの凱旋門は、今でいえば巨大な駅ではなかったのか。【彬】

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