ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

私のことしの3冊

2018年12月29日 | 日記

 学生の頃、仲間が集まって風俗文化に関する年度のベストテンを選ぶ、といったようことをやっていた。印象に残っていることでいうと、フォークソングが隆盛になった頃のフォーククルセダーズの「帰った来たよっぱらい」とか、埴谷雄高の「死霊」などが、リストアップされたような記憶がある。
 それに倣って、年の暮れ、私がことし印象に残ったものを3つ上げておく。(ただしスポーツ界は除く)
 ①四方田犬彦「鳥を放つ」新潮9月号掲載
 このブログの8月2日付記事にも記したが、四方田さんは私より何歳か年下で、ちょうど新左翼の学生運動、政治運動が、退潮し始めた頃。そこにフランスの哲学、思潮が華々しく登場した時代。そうした世情に飲み込まれた東大生男女の物語であるが、その悲惨な結末は、時代や思潮が今日、見事にひっくり返っていることを小説の形式を借りて述べたものである。
 ②こだま「夫のちんぽが入らない」扶桑社・講談社文庫
 性をテーマにした文学、小説は数限りないが、この作品は「性」というより「生理」に焦点を当てているところが斬新である。しかも、その手法は車谷長吉さんを思い起こす極度の「私」小説になっている。マスコミの表面には出てこないが、本屋では平積み状態、女性の読者が多いことも、このベストセラーの特徴である。
 ③嵐山光三郎「文人悪食」新潮文庫
 いっときマスコミでタレント扱いされていたこともあって、私は嵐山さんの作品をちゃんと読む機会がなかった。しかし本書は、そんなことを吹っ飛ばす名著と言っていいのではないか。本書は古く平成9年にマガジンハウスより刊行され、現在文庫で14刷を数えている。
 日本だけでなく文学作品はふつう作品論として語られるが、本書は作家の食べ物へのこだわり、食嗜好を通して作品の背景を追跡している、稀有な近代文学論である。漱石から始まって三島まで、日本文学の特異な側面が余すところなく記されている。たとえば子規。病状に伏す身でありながら、「すさまじい食欲である。三度の食事と間食と服薬とカリエス患部包帯の交換の繰り返しのなかで、子規は、食いすぎて吐き、大食のため腹が痛むのに苦悶し、歯ぐきの膿を押し出してまた食い、便を山のように出す」とされる。触発されることの多い書物である。【彬】

 

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真実を伝える人達(守る人達)

2018年12月26日 | 日記

 タイム誌の12月24日、31日合併号の、今年のperson of the year(世界に最も影響を与えた人)に、the guardians(守る人達)が選ばれた。真実を伝えるため身の危険を冒しても活動した(真実を守る)ジャーナリストや組織で、

①   ジャマル カショギ氏:サウジアラビアのジャーナリスト

②   マリア レッサ氏:フィリピンのニュースサイトを設立運営する人

③   ワ ロウン氏、と、クワウ スー オー氏:ミャンマー人でロイター社の記者

①   キャピタルガゼット (アメリカ、メインランド州の地方新聞社)

を選んでいる。ここで、詳細を書くのは控えるが、彼らは真実を伝えようとして活動するなかで、殺害され、また、テロ攻撃を受け、または、投獄されている。

 タイム誌は、38ページを使い、現在のジャーナリズム全体にかかわる現状を載せている。

 重要なところを整理すると、

1.ジャーナリズムの、正確性、公平性、専門性、は米国と英国で根付き世界中に広まり標準化された。

2.民主主義の旗印(人権と自由)を掲げる米国が、今混迷している。

3.世界中の民主主義はこの10年危機に直面している。

4.世界中で、2017年、ジャーナリスト262人が投獄され、52人が活動中死亡。

5.報道は常に、判断ミス、見落とし、正確性の誤り、などに直面し格闘する。

6.アメリカ人の2/3は、ソーシャルメディアからニュースを得ていると言いながら、ニュースの65%は誤った報道だとみている。

7.アメリカの地方新聞の発行部数が減少している。

 さて、この記事を読んで思うことは、

 ・ジャーナリズム、正しい報道、がなければ、我々はどう行動したらよいか判らない。

 ・ジャーナリズムの、質、自由、は世界の中では国ごとにレベルが異なる。

 ・民主主義の質の高さは、報道の質と自由の高さに比例している。

 ・民主主義と言っても国によって目指す形は異なり、また変化していくものだろう。

  絵は、サウジアラビアのジャーナリスト、カショギ氏。記事の中の写真からスケッチした。

     2018年12月25日  岩下賢治

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眉唾な新聞世論調査

2018年12月19日 | 日記

ご近所の見事な南天

 私は新聞を読まないが、事情があって新聞は取っている。そのまま捨て置くにはもったいないので、見出しだけをざっと見渡し、掲載広告の質が落ちたな、などと思っている。

 そんな中、12月18日づけ朝日新聞は1、2面の大半を使って、内閣の支持率に関する世論調査の結果を報じている。その報じ方が、気になったので記しておきたい。
 リード面で「11月の前回調査にくらべ、支持率は40%にやや下がり、不支持率41%と拮抗した。特に女性の支持率が前回11月調査の39%から34 %に下落。不支持率が34%→43%に増えて支持率を上回った。」と、政局が動いているかのように述べている。
 本当なのだろうか。
 私は統計学の専門家ではないが、世論調査の些細なデータの変化を過度にバイアスをかけ言論を誘導しているようにしか思えないのだ。そもそもSNSが発達した今日、私は世論調査という、そのものに疑問を持っていいる。というのも、社会調査による統計法というのは、今日の社会を類推するにはふさわしい手法とは思えないからだ。この調査法というのはマスメディアによって一元化された大衆社会を前提にしているものなのである。
 朝日新聞の場合、この調査について、次のように説明している。
 「調査方法=コンピュータで無作為に電話番号を作成し、固定電話と携帯電話に調査員が電話をかけるRDD方式、15,16の両日に全国の有権者を対象に調査した。固定は有権者がいると判明した1928世帯から1003人(回答率52%)、携帯は有権者につながった1942件のうち916人(同47%)、計1919人の有効回答を得た。」という。
 この調査方法によって獲得した支持率が、40%ということである。
 ここですぐ問題となるのは全有権者と、調査対象者として抽出された人々との関係である。社会統計法では、母集団(ここでは全有権者)の動向を把握するためには、どのくらいの量をピックアップすれば、どのくらいの確率で全動向を把握することができるかが、公式づけられているが、今回の調査では母集団と、固定電話と携帯電話の関係がどう関連付けられるのものなのか。
 すぐ疑問に思うのは、固定電話の場合、対象者は誰かということ。有権者というのはあくまでも個人であるが、固定電話は家族全員が使用する。だから対象者は、主人なのか、奥さんなのか、子どもなのかという問題。携帯電話の場合は、有権者ではなく子どもの保有者もいるし、男女構成も把捉できない。さらに番号だけでは地域性は調整できないから、全国調査にはならにのではないか。つまり今日の多様なメディア環境、生活環境の中で、有権者を電話の所有者として抽出することの客観性をどのように保障しているのかという疑問である。さらに言えば、2000名弱の回答者で、全国の動向を把握できるのか。などなど疑問がある。また根本的には回答率の問題だ。今回の調査では回答率は50%前後である。該当者のうちの半数の人が回答を拒否しているのである。
 そうした基底の上にたって、調査結果の、安倍内閣の支持率40%と前回の43%の間に統計学的有意な差があるのかどうか。私には誤差の範囲内でしかないのでなのではないか、と思う。
 この世論調査に限らず、各種の支持率、好感度などの数値化されたデータが報道される。そして、それがさも客観的であるかのような装いをほどこして伝えられる。私には、こうした言辞を扱う連中に対する警戒心が膨らむばかりである。【彬】

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冬の匂い、そして音。

2018年12月13日 | 日記

 ランニングの練習では、夏場は暑さを避け、小金井公園の日陰コースで200m*10本のインターバル走をやっていたが、冬場になった今でも続けている。寒さの中の短距離走は体がシャキッとして気合が入る。そして、楽しみなのは「冬の匂い」を感じられることだ。冬が近づき寒くなると、鼻の奥がツーンとして爽やかな匂いがする。街中でもあるのだが、自然の中では特に強い。そして「冬の音」もある。この二つの不思議な感覚は、今は、この練習の時に得られるものだ。

「冬の匂い」とはどういうものなのか?よく観察すると、春、夏、秋、の季節に感じる様々な花や、葉、木々、果実などからの匂いが全て削ぎ落された「無」の状態を、「匂い」として感じているようなのだ。外部からの実際の匂いが無いなかでの感覚、心理状態のようなのだ。それが何故か爽やかで甘いミントのような匂いなのだ。

 それでは「冬の音」とはどういうものなのか? 昆虫たちの鳴き声は消え、人々は家の中にこもり、木々は葉を落とし、葉のざわめきはなくなる。僅かに遠くから鳥の声が乾いた空気を通して甲高くきこえるくらい。そういう時に、キーンという耳鳴りのような「冬の音」が聞こえてくる。それが精神を浄化してくれるような感覚なのだ。

 三年前まで住んでいた自然豊かな茨城県北西部では、冬場のランニングは、里山の中の道を走っていたが、今は、小金井公園の自然の中を走る。そして、「冬の匂い、音」を感じることがある。このような時は、凛とした自己というもの、自分の存在というものを強く感じることができるのだ。これが冬の練習の楽しみであり充実感でもある。

   絵は冬の小金井公園

    2018年12月12日  岩下賢治

 

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都会の共用地

2018年12月09日 | 日記

  収穫した鈴なりの柿の実

 私の住まいの近くに国道と国道が立体で交差する場所がある。そこにやや広めの法面があって当然ながら色々な植物が植えられている。国有地だから管理者は国土交通省である。しかし管理者が定期的に管理しているとは思えなく、雑木が生い茂っている。
 そんな中に柿の木がある。今年は豊作で万燈のように実をつけている。あまり見事だから、下枝のほうの実をもいでみたら、これがなんと甘柿である。近くに倉庫があって、そこで働いている人に尋ねてみた。すると、かつて住んでいた植木屋さんが植えたものだというが、あまり関心がない様子。そこで管理者である国土交通省に問い合わせた。すると、国が植えたものではないから、収穫云々はご近所の人と対処するのがよいのではないか、という返事だった。
 管理が行き届かなくて放置されている、こうした公有地というか、共有地というか、昔でいうと入会地のような性格の細々した土地が各地にある。例えば大通りの並木の根元、公園や学校の境目にあるマウント、切通しのような場所の法面、など。こうした場所をどのように始末して美観やら有用性を確保していったらよののだろうか。場所によっては植木鉢を放置して置いたり、勝手に草花や果樹を植えたり、物置がわりにしている場所もある。また逆に町内会や商店組合が定期的に清掃しているところもある。
 周囲から怪訝な目や白い目で見られるだろうが、そうした場所には、すすんで手を加えることが必要だと思う。管理者である国が費用をかけて動き出すのを待たずに、である。昔の田舎町だったら、小学校の生徒たちが神社や境内などの清掃活動をしていたものだ。今、都会なら、老人たちがその役目を果たすのがよいのだろうと思う。そんな思いで目配りをしては、私は時にゴミを拾ったり剪定したりしている。
 今度の柿の始末も、その一貫だと言えば、身贔屓すぎるだろうか。私が高枝鋏で柿をもいでいても誰も注目しない。共有地を地元の人たちが管理する、それが共同体を形成する基礎のように思うのだが‥‥。【彬】

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