ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

長寿の元は文明

2023年03月27日 | 日記

               サクラ

 私は70代の老人だが、知人などで年齢が60代だという人がとても若い風態なのにびっくりする時がある。それだけ寿命が伸び、元気な老人が多い。以前なら60代というと死も近い相当な老人だと思われたものだ。公務員の定年が60歳なのだから。寿命は本当に伸びた。平均寿命は男女とも80歳を超えたし。
 寿命が伸びたのは、医療が充実したからだという説が多い。確かにそうだろう。でも私には医療を含め、文明の発展に大きく依存していると思う。以前は時代に追いつけない老人は、かえって早死にすると言われていたものだ。
 その文明だが、衣食住でいえば、住まいが大きく変わった。昔の住宅は木造で、隙間だらけ。それがコンクリート住宅になり、外気を遮断し、電気のおかげで夏・冬の寒暖は難なく越せるようになった。薪やコークス、石油を焚いて暖をとっていた時代のように煙を吸うこともない。昔、年寄りは冬場に多く死んだものだ。寒さを凌げなかったのである。
 洗濯機や冷蔵庫の普及も大きい。洗濯機のお陰で、毎日清潔な衣服を着ることができる。冷蔵庫も食品の保存に寄与し、栄養摂取のあり方を大きく変えた。
 こうして私たちは文明の恩恵を受けているわけで、それらの機器は全てエネルギー源を電気に依存している。電気なしには成り立たない。電気が簡便に容易く利用できるようになったことが文明を支えているわけだ。
 原発事故の時、「たかが電気」などとのたまわって無知を曝け出し、顰蹙を買ったミュージシャンがいたが、電気こそ現代社会の基礎なのである。
 電気を活用するには、まず電力を作り出さねばならない。その電力を創造するプロセスは、例えば水力にしろ、火力にしろ、原子力にしろ、私たちの目には見えない。電気そのものが見えないからである。だから私たちには電気は無尽蔵でタダのように思える。
 先頃、再エネの補助金が減額されると決定されたそうだ。その分、電気代が安くなるとのことだが、電源もそうだが、電柱から送電線を含め、文明の基礎である電気を、実感あるものとして、把握したいのものだ。【彬】

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旅・・・エキサイティングな体験

2023年03月23日 | 日記

 米タイム誌の3月27日~4月3日の号の、特集記事は「旅特集」。The world greatest places・・世界の最も素晴らしい場所,である。

 旅行業界は2023年はフル稼働。ということで、世界から、15の場所を選んでいる。それぞれ観光のための斬新で大胆な観光施設、イベント等も紹介している。アメリカ人目線という感じもするが、読むだけでも興味をひかれる。そして、コロナ禍も終わりに近づいてきたかなとも思う。旅では未知なものを見聞きするのが楽しい。それがエキサイティングであればよい。

 旅というのは、いわゆる「旅行」でないものもあると思う。若い時、夏休みに長編の小説を、読んだ後、長い旅をした後の様に世の中が変わったように見え、学校や会社にいくのがつらくなってしまったことがあったな・・・・。エキサイティングな体験をした訳だ。

 日記を小学校の6年生から、つけている。一時中断した時期もあったが、現在まで続いている。先日、6年生から中学校卒業までの4年間の部分を読んだ。これが自分が書いたものか?と驚くことばかり。毎日3~5ページ、時には10ページ以上になるが、その時々の区切りとなる行事などを細かく書いていない。友達との交流、自分の気持ち感情が、まとまった文書でなく、ただ頭に浮かぶものが、日記帳にのこされている。

 読んでいて、これは型破りな文体の「物語」だなという気持ちでページをめくっていく。

 この、12才から15才という時期は、もがいてもがいて、身を包む薄皮を破ろうとする時期なのかな。随分時を経た今、得体のしれない、少年の気持ちを再体験した「旅」であったな。かなりエキサイティングであった。そして面白い体験であった。

 昨年、キビシイ病の治療で、3週間入院した。その時も日記をかいているが、深い谷底での体験は、今では、エキサイティングな「旅」であったと思うのだ。

 絵はタイム誌の表紙の概略。エジプト、ギザのピラミッド。

  2023年3月23日   岩下賢治

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友人の死

2023年03月20日 | 日記

               満開のユキヤナギ

 歳をとってくると、親しくしていた人の死亡通知が届くようになる。死ぬべき年齢がきたのだから、死ぬのは当たり前で、私はつらい想いはあまり持たないほうだが、しかし死に対して、どのように対処してよいか、本当はわからない。悲嘆の情が湧かないし、と言って平然としているわけにもいかない。
 昔、文学者で追悼の名人などという人がいたが、必ずしもそれがよいとも思わない。
 田舎だと地域にそれなりの風習があって、あれやこれや考えずにやり過ごすことができた。だが、都会では地域の風習が当てはまらない。我々、田舎からでて都会民となって、墓をお持たない人も多いから、葬儀らしいものも行われない。家族葬と称してひっそりと送り出す他はない。コロナで蟄居を強いられていたこともあって余計にその傾向がある。
 特定の宗教に帰依している人は別だが・・・。でもキリスト教の葬儀などで讃美歌などを歌うのは全く御免だ。
 宗教を離れ、親しい仲間同士でお別れ会を開くこともできるが、さてお別れ会というのは、どのようにひらけば良いのか。そのような適切な施設があるものなのか。ホテルなど高価な場所は憚れる。都会の葬儀をどのように執行らばよいのか、遺族だけの問題ではなく、友人としても対処の仕方が難しい。
 著名人の場合は、一層、難しいのだろう。
 大江健三郎さんが亡くなった。誰かがお別れ会を計画するに違いない。誰が主宰するのか。作家、言論人、著名人として、大江さん対する想いもさまざまだろう。私にも賛否を含め色々な想いがある。だから、どのように会を設定するのか。主催者は難しいと思う。
 少子化対策など次の世代に対する考えばかりでなく、終焉する世代の、思想、文化など諸々、どうすべきかが、今日の成熟化した時代の大きなテーマのような気がする。【彬】

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官僚の先走り

2023年03月16日 | 日記

           大粒の、あまおう

 放送法の解釈をめぐる行政文書に関して総務省が揺れている。大臣へのレクチャーがあったのかなかったのか、文書は偽造だったのかなど国会・マスコミを賑やかしているが、問題は、官僚の先走りによる文書作成だったのではないかと思う。
 昔、短い期間だったが、新聞記者まがいの仕事をしていたことがあって、農林省を何度か訪ねたことがあった。そこでの見聞だが、課長は滅多に着席していることがなく、帰ってくるとあれこれ指示を出す。そんな中で、へーっ!と思ったことがある。次期予算が議会で可決される前にもかかわらず、予算の執行を指示する。農村振興対策に関わる既存の法律の一環からだろうか、と思う。また、逆に予算の執行を遅らせることもある。年度末ギリギリまで伸ばす。あるいは早々に執行し、対象機関の金融を助ける。いわゆる行政上の差配をおこなっているのを目にしたのである。官僚がそんなことをして良いものなのか、などと思ったものである。
 おそらく課長の一存ではなく、背後には有力な政治家の意向があり、それを汲んでのことだろう。でも執行するのは課長であり、官僚である。有能かつ有力な官僚というのは、そのように動くらしい。
 東大法学部ー大蔵省ー政治家、というのがエリートコースである。行政を知悉することが政治家として大成する条件となっていて、今でも官僚から政治家になる人が多い。そのためか、行政を執行する官僚が、議会を差し置いて先走る傾向があるように思う。その方が物事が円滑に進むのだろう。
 残念ながらこれは、議院内閣制の欠点でもあろうか。大統領制だとこういうことにはならないが、しかしこちらは、行政が一方的に突き進む傾向がある。議会の制御が抑制されるのである。
 当時、総務大臣だった高市さんをめぐる放送法の解釈問題は、先走る官僚システムの難点を露出させているように思える。【彬】

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お婆さんのお供

2023年03月12日 | 日記

                コブシの花

 道で知り合いのお婆さんが声をかけてくれました。

 あなた、お元気そうですね。私は病院の帰りです。手とか足とかあちこち折ってしまって痛いんですよ。先生は歩くように言ってくれますので、外に出向くようにしています。買い物の帰りではないですよ、この手押しの買い物籠はね、外出のお供です。これがないと危なくて歩けない。これにつかまって歩くのです。するとだんだん腰が曲がってきますが、でも籠があると助かります。

 それで思い出したのだが、もう亡くなったが、口達者な老婆がいつも自転車を押していた。乗るわけではない。自転車を押して買い物をしていた。付属の籠が重宝しているのかと思っていたが、そうではなく、本当は自転車につかまって歩いていたのかもしれない。

 お爺さんで買い物籠を押している人を見かけない。
 ある時、顔が膝につくほど腰を曲げ、懸命に歩いている人を見かけたことがあるが、杖を頼りにはしていなかった。杖をついた老人を見かけることがない。男の意地なのかもしれない。

 買い物カートはお婆さんたちの必須のお供なのである。【彬】

 

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