備忘録として

タイトルのまま

遠い崖『薩英戦争』

2018-01-14 18:42:35 | 近代史

 NHK大河『西郷どん』は原作者が嫌いなので見ないと決めていた。理由は、超常現象を信じない私のようなものは”心が狭い”と決めつけられたからである。自然科学の世界に想像力のない心の狭い者などいない。さらにアグネス・チャンがスタジオに赤ちゃんを連れて来たことを批判したときには、オピニオンリーダーを自称するなら、同性を罵倒する前に、母親が働きやすい環境について提言すべきだと思った。しかし、作品の出来を先入観や好悪で決めるのは原作者と同じレベルに堕し自己撞着してしまうので『西郷どん』を見てから判断することにした。今読んでいる『遠い崖』に馴染みの面々が出てくるからでもある。以下、2巻目前半のまとめ。

『薩英戦争』

 1862年の生麦事件の賠償金支払いを求めて、イギリスは鹿児島に軍艦を送る。1863年陰暦6月21日に横浜を出港した艦隊は、27日夕刻に錦江湾入り口に到着する。薩摩遠征を決めたときのイギリスは、薩摩が前藩主の島津斉彬以来、開国主義であり、現藩主の久光もそれを引き継いでいると聞いていたため、1か月半前に起こった攘夷実行による下関砲撃事件があっても薩摩での交渉は楽観的に進むと考えていた。同時期イギリスから蒸気船の購入交渉をしていたこともそのような判断をした理由だろう。

 イギリスは「リチャードソン殺害の首謀者の処刑と賠償金支払いがされない場合は、薩摩と戦争をする」という要求書を幕府に出す。薩摩は首謀者を藩主の久光だという翻訳を受け取ったため、到底要求を呑めるものではなかった。福沢諭吉は幕府の翻訳者のひとりで、「襲い懸かりし長立たるもの等を速やかに捕へ----其首を刎ぬべし」(『福翁自伝』)と書いている。長立たる者が藩主ととらえかねないような翻訳を幕府が意図的にしたという説があると萩原は書き、その真偽は不明であるという。萩原は福澤ら複数の翻訳は示しても、イギリスの要求書原文を提示していないので、翻訳に問題があったかは読者にはわからない。萩原が原文を示さないのは不備としかいいようがない。

 それはともかく、当時の責任者であるニール代理公使を乗せて軍艦7隻が薩摩に向かう。アーネスト・サトウとシーボルトは通訳官としてこの遠征に同行する。

 薩摩藩は、錦江湾に姿を現したイギリス軍艦に使者を送り、事件の当事者は見つからないこと、大名行列を乱してはならないのは国法であり、それを外国との条約に盛り込まなかった責任は幕府にあり、幕府と薩摩藩のいずれに責任があるか明らかになってから賠償金について討議すべきであると伝え、イギリスの要求を無視する。

 イギリスは、薩摩が満足すべき条件を提示してくると考えていたようであるが、薩摩の拒絶を受けイギリス側は、艦隊の提督キューパーに対応をゆだねると宣言する。それは強硬手段をとることであり、キューパー提督はただちに湾内にいた薩摩の汽船3隻を拿捕する。拿捕された薩摩の汽船に乗っていた五代友厚と松木弘安(後年の寺島宗則)は捕虜となる。五代と松木は1862年の遣欧使節から帰ったばかりで、松木は英語をよく話したとウィリスの日記に記されている。

 拿捕という強硬手段を受けて薩摩側は、陰暦7月2日正午、艦隊に向かい砲撃を開始する。イギリス艦隊に積載された大砲や新式のアームストロング砲の威力は薩摩側の旧式砲に勝り、射程外からの砲撃で薩摩側砲台をことごとく破壊した。ロケット砲による砲撃は鹿児島の町に対しても行われ、7月2日午後8時には町が炎に包まれた。イギリス艦隊は翌日も砲台を攻撃しながら錦江湾を南下し、7月4日には湾を出て横浜に帰っていった。イギリス艦隊が錦江湾に留まったのは1週間、戦闘は1日半であった。イギリス側の戦死者は9名であった。

  記録に残る薩英戦争に対する薩摩側の評価は、イギリス軍を撃退したというものであったが、薩摩側の砲台がことごとく破壊されたことからもわかるように大砲の威力には歴然とした差があった。イギリス本国では、キューパー提督の鹿児島の町を焼いた措置が非難の対象となった。ロンドンの新聞紙上では、非武装の一般人の家を焼いたことが非人道的でありイギリスの名声を汚す「恥ずべき犯罪行為」として非難された。イギリス政府は、薩英戦争は文明国のあいだで行われる通常の戦闘に違反するとし、キューパー提督の個人的責任を問うとした。

 その後の2度の世界大戦を含む最近の戦争では、民間人に対する無差別攻撃が常態化し、戦争が軍人や戦闘員だけのものではなくなった。150年前の倫理観からすると、近代の戦争は「恥ずべき犯罪行為」ということになる。

 戦争後、西洋の軍事力を目の当たりにした藩主久光は、無謀な攘夷をやめ、西洋文明の長所を取り入れるよう小松帯刀や大久保一蔵(利通)らに命じイギリスとの和睦を進めさせた。和睦交渉は重野厚之丞らが当たった。この後、イギリスと薩摩は急速に親密さを増し、2年半後には新任のイギリス公使パークスは薩摩を訪問する。

 『西郷どん』こと西郷隆盛は1862年から1864年まで徳之島・沖永良部島に遠流になっていて薩英戦争当時、鹿児島にいなかった。西郷が『遠い崖』に登場するのは、1864年の長州征伐と禁門の変のときで3巻目以降になる。

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2017年まとめ

  • 2月上原和逝く
  • 3月イスタンブール
  • 4月船橋へ引越
  • 6月孫訪日+シンガポール
  • 7月二女結婚
  • 8月殺生石+仙台+常磐道
  • 10月ミュンヘン
  • 10月遠い崖開始
  • 11月フルマラソン完走
  • 11月大学入試

2018年が始まった。


遠い崖『旅立ち』

2017-10-29 13:51:56 | 近代史

 アーネスト・サトウ(Earnest Satow)の日記をもとに幕末から明治維新の出来事を描いた荻原延壽の『遠い崖』は文庫本で14巻もあり、本屋で立ち読みはしても購入をずっとためらっていた。神保町の古本屋で1巻と2巻が安価で売られているのを見つけ衝動買いした。ちょうど読んでいた『日本奥地紀行』を読みかけのまま放り出し、1,2巻を読み切ってしまった。イザベラ・バードがアーネスト・サトウに何度も言及していたことも『遠い崖』に手を出した理由だ。

 『日本奥地紀行』に加え、梅原猛の『親鸞4つの謎』に寄り道したりしたので、今、やっと4巻目に入ったところである。薩英戦争から2度目の長州征伐まで、イギリスとフランスの微妙な駆け引き、薩摩、長州、幕府の間の思惑が、アーネスト・サトウの日記だけでなくイギリスとフランスの外交文書や、日本側の様々な資料を参照して語られ興味が尽きない。外交文書には公式文書と送り主が私見を述べる半公信が含まれる。また、初期の巻では、サトウと同時期に医官として日本に駐在しサトウと深い親交のあったジョージ・ウィリスが家族に宛てた手紙が頻繁に引用され、サトウの日記の穴を埋めている。また、同時期、シーボルトの長男アレクサンダー(ドイツ国籍)がサトウとともに通訳としてイギリスに雇われている。ドイツで生まれた彼が来日したのは、3年前の父シーボルトの再来日に付き添ったもので、父が帰国したあとも日本に滞在していた。特別通訳生として雇われた生麦事件のとき、サトウより3歳若い15歳だった。2年後の薩英戦争にサトウとシーボルトはともに通訳として参加する。

 サトウの祖父は、ドイツのバルト海に面するヴィスマールという町でドイツとイギリス間の貿易商を営んでいた。町にはSatowという地名もあり、当地では一般的な姓であった。1825年、サトウの父デーヴィッドはイギリスに移住し、ロンドンで金融業を始める。三男としてアーネストが生まれたのは、1843年のことで日本赴任は1861年18歳のときである。

『旅立ち』

船は東シナ海を横切り、上海をはなれてから三日後には硫黄島の沖を通過した。「午前11時ごろ、九州南方の火山島である硫黄島がみえてくる。山のいただきに雲がかかっているので、活動をつづけているのかどうかよくわからないが、火口のひとつから噴煙がたちのぼっている。」(1862年9月2日の項) 9月8日、サトウを乗せたランスフィールド号は横浜港に到着した。

 サトウは、中国で数か月を過ごしたのち、ジャーディン・マゼソン商会所有のランスフィールド号で上海から横浜に渡航する。4年後の1865年に上海から横浜への途上、シュリーマンが見たはずの硫黄島沖を通過している。

『生麦事件』

 生麦事件が起きたのは、サトウ着任6日後の9月14日のことだった。休暇で上海から日本に来たイギリス人商人リチャードソンが夫人らと馬で遠乗りをしていたところ、通りかかった薩摩藩の行列を横切ろうとして惨殺された事件である。横浜外国人居留地の住民たち大半とヴァイス領事らは、薩摩藩に報復的な行動をとることを主張し、代理公使ニールには伝えずに準備を進める。ニールはフランス、アメリカ、オランダなどの公使と相談の上、日本と戦争になることを避けるため報復行動を起こさない決断をする。このことでニールは、居留地のイギリス人から臆病者とされが、本国のラッセル外相は、ニールの判断を支持し、居留民を扇動したヴァイス領事は後日函館領事に左遷される。

 イギリスは公式に幕府と薩摩に対し賠償請求を行った。幕府に対しては、事件を起こしたことに対する公式な謝罪と犯罪に対する罰として10万ポンドを要求し、薩摩に対しては、リチャードソンを殺害し他の者に危害を加えたものを裁判に付し処刑することと、2万5千ポンドの損害賠償を要求した。生麦事件の前に発生した東禅寺でのイギリス兵殺害事件の賠償も同時に追及された。幕府が要求を拒む場合は軍事行動を起こすこと、薩摩が拒否する場合は鹿児島を砲撃することが考慮された。

 このころ諸外国の日本への対応は微妙に異なり、日本との外交交渉の主役は、ペルー来航からパリスによる通商条約で日本との交渉を主導してきたアメリカからイギリスに移っている。これは、1863年当時、横浜での貿易額の81%をイギリスが占め、日本に展開する軍艦の数もイギリスが圧倒的に多かったことが理由である。

次回は『薩英戦争』。


イザベラ・バードの日本紀行

2017-05-27 22:36:48 | 近代史

 イギリス人女性イザベラ・バードは、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京、日光、新潟、山形、秋田を巡り、青森から津軽海峡をわたり、函館から室蘭、白老、苫小牧、幌別、長万部など蝦夷地南部を旅した。これはその旅行記である。文明国から来た彼女の立場から見れば、封建制を捨て近代国家を歩み始めたばかりの日本で、それも外国人未踏の地をめぐっているので、旅行記というよりは探検記に近いかもしれない。原題は『Unbeaten Tracks in Japan(日本の未踏の地)』であることからも、探検記としたほうがいいように思う。別の出版社の邦題は『日本奥地紀行』としていた。

左上:日光から山形まで 右上:山形から青森まで(google mapに立ち寄った場所を示した)

 イザベラは18日間の船旅ののち1871年5月20日横浜に上陸する。横浜・東京に20日ほど滞在したのち、通訳兼従者の伊藤鶴吉を雇い日光に向かい、村長の金谷邸に10日間滞在し、周辺の東照宮などを訪れるかたわら旅の準備をすすめる。当時の日光は日本在住外国人の保養地になっていたが、金谷ホテルはまだ開業前で、金谷はイザベラに外国人向けのホテルを始めるつもりだと語っている。金谷邸での滞在はかなり快適だったようだ。準備の整った6月24日、イザベラは伊藤を伴い馬に乗って東北奥地へ旅立つ。

 本は妹に送る書簡として、訪れた場所の自然地理、地方に生きる日本の人々の生活、アイヌ人の風俗や風習を詳細に描写する。明治初期の山村の人々の暮らしは貧しく栄養状態や衛生状態は極めて悪かった。外国人に対して好奇心が旺盛で決して排他的ではなく、また外国人女性がひとりで旅ができたように治安の問題はなかった。観察は女性らしく丁寧で細部にわたり、通訳の伊藤から聞き取った部分も含め正確に記載されている。しかし、見聞の正確な描写と比べ、その評価は西洋的、キリスト教的な倫理観に基づいているため、公平性に欠けると思われる部分もあった。通訳の伊藤に対する評価も同様で、伊藤の能力や献身を絶賛するかと思えば、あるときはまるで悪人であるかのようにこき下ろし、日によって評価が180度変わるときなど精神分裂症ではないかと疑ってしまった。しかし、よく考えてみると、山中の悪路、調教不十分の馬、劣悪な宿、貧しい食事、蚊、悪天候、異国人の中に外国人がひとりだけなど旅は過酷で、体力的にも精神的にもぎりぎりの状態が連日続き、時に感情的になり冷静さを欠いた評論になるのは仕方がなかったと想像できる。旅の大半は乗馬だったが、津川から新潟までは阿賀野川を、秋田の神宮寺からは雄物川を舟航している。雄物川の河口にある久保田とは秋田市のことで、1871年(明治4年)に久保田藩を秋田藩、久保田城下町を秋田町と改称し、同年すぐに廃藩置県をしている。7年後イザベラ・バードが訪れたときは、まだ久保田と呼んでいたようだ。イザベラが会った明治初年のアイヌは身体的特徴だけでなく、言語、文化、風俗、宗教など完全な異人種であり、日本語を話すものも少数だった。現状を考えると、その後、日本への同化が急速に進んだと想像される。

 イザベラが日本を訪れた1878年(明治11年)は、本のまえがきを引用すると「封建制が廃止されてからわずか9年しかたっていないのである」。続けて当時の日本を以下のように評している。

多くのヨーロッパ人が日本の発展は「模倣」だとあざ笑い、清国人と朝鮮人は日本の発展を怒りもあらわに、また嫉妬混じりに眺めているが、それでも日本はみずからの進路を保持している。日本の将来をあえて予言するようなことはしないが、わたしには他の東洋諸国から日本を孤立させた永続性を怪しむ理由がなにも見当たらない。また実にさまざまな行きすぎや愚行がありながらも、この動きは日々成長し増大しているのである。(中略)一時は約500人の外国人が政府に雇われていたこともあり、---部門の運営がつぎからつぎへと、外国人の手から日本人の手へ移っていくことを忘れてはならない。お雇い外国人を引きとめておくことは発展の計画にはない。

 明治初期の日本は、初めて足を踏み入れた40年前のシンガポールが、隣国マレーシアやインドネシアと経済的に同レベルだったものが、東南アジア諸国の中から突出して発展したことと酷似している。明治の日本とシンガポールが、周辺国と差別的に発展した理由は、明確な理念にもとづき国づくりを進めた優秀なリーダーとそれを支えた政府や官僚組織の存在に起因することはあきらかだと思う。

 イザベラ・バードの本を読んでいたとき、以前から気になっていたアーネスト・サトウの日記をもとにした萩原延壽の『遠い崖』1,2巻が古本屋で売られていたのを見つけ衝動買いをした。そのままそちらを読み始めたら面白くて中断できず、結局2巻を読み終えてしまった。それでも『遠い崖』は14巻あるので、3巻以降の購入をぐっと我慢し『日本紀行』を読みにもどった。そのため読み始めてから読了するまでずいぶん時間がかかってしまった。イザベラが日本に来たとき、アーネスト・サトウは東京のイギリス公使館書記官で、彼の名はイザベラの本に何度も登場する。『遠い崖』14巻を読み通すのは気力が必要で、いつ読後感想ができるかわからない。そちらは気になる出来事を折々に取り上げて記事にしようと考えている。


幕末の外交

2016-05-15 22:41:01 | 近代史

昨日のNHKブラタモリは横浜だった。ハリスが神奈川の開港を要求したとき、幕府は東海道から離れた寒村の横浜を神奈川の一部だと強弁したという話だった。上は広重の神奈川宿と北斎の神奈川沖浪裏(いずれもwikiより)で番組の中で使われていた。

幕府役人の外交のしたたかさは、ちょうど読んでいる井上勝生『幕末・維新』シリーズ日本近現代史①にたっぷりと書かれている。従来の幕府外交は弱腰だったという通説を否定し、それを当時の幕府の交渉記録(『対話書』、『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』、『オランダ別段風説書』)や外国側の記録(『ペリー提督日本遠征記』、ハリス日記『日本滞在記』、ゴンチャローフ著『日本渡航記』)を参照しながら検証したものである。

左上絵は『幕末・維新』に掲載された『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』挿絵『米国使節久里浜上陸之絵図』 この場所は幕府のゲベール銃部隊の訓練場だったところで幔幕の陰に幕府のゲーベル銃部隊が並び、そこに米国使節を周到に誘い込んでいる。この図とペリーの記述は正確に照応している。右上図は同じく『ペリー提督日本遠征記』挿絵にある函館湾のペリー艦隊。

1853年ペリー来航

ペリー来航の目的は通商と貯炭所開設要求であった。ペリーは、1837年にモリソン号が日本の漂流民を返還し通商をしようと日本側に迫ったが砲撃を受け退去させられたことを累年の人道問題であるとし、人道的待遇も得られない場合は戦争も辞さないと恫喝した。それに対し、モリソン号事件以降、幕府は漂流民を長崎のオランダを経由して返還していると実例を挙げて反論し、人命保護不履行の名目で非人道的な戦争をするというのは無理だということを巧みに指摘した。また、交易は利益のことであり人道支援とは別の話で、強いて交渉する必要はないとした。ペリーは人道問題を取り上げ通商交渉を有利にしようとしたが、幕府側はそれを逆手に取ったのである。不平等条約を結んだことで、幕府側の軟弱、卑屈な外交という思い込みがあるが、武力を背景にしたペリーの方が柔軟性に欠け、幕府役人側は、軍事的に非力な状況のなか、率直で巧みな外交を行った。

幕府はオランダ政府が毎年世界の情勢を知らせて寄越す『別段風説書』によってアメリカ艦船の規模やペリーが来航することを前年には知っていたように、十分な情報量に裏付けられた外交を繰り広げたのである。

1854年日米和親条約

日米和親条約は、漂流民の保護、薪水の補給、下田・函館2港の開港、領事駐在、片務的最恵国待遇からなる。そのうち片務的最恵国待遇がアメリカだけに有利で不平等だった。当時の列強は双務的最恵国待遇を結ぶのが通例だったからだ。一方、領事駐在では、函館でのペリーの約束違反を指摘するなどしてしたたかに交渉し外交員の外出範囲の制限に成功した。ペリーの約束違反とは、直前の函館行は視察だけのはずがペリー一行が上陸し松前藩を恫喝し個別交渉をしていたことである。ペリーはその話が幕府に伝わるには50日はかかると思い、函館から江戸に戻ると松前藩とのことを隠して幕府との交渉に臨んだ。ところが、幕府には松前藩とのことはすでに伝わっていたのである。違反を指摘され、うろたえたペリーが中国人通訳の所為にしようとした様子が『対話書』や通訳ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』に記されている。(最恵国待遇=他国に与える待遇と同等の待遇をその国に与えることを約束する。片務的は一方的、双務的は双方向)

1856年には幕府も薩摩藩の島津斉彬らも貿易が富国強兵の基本だとして積極的・消極的という程度の差はあれ開国論に変わっていた。朝廷(天皇)は攘夷にこだわった。

1857年日米修好通商条約

1856年に来日したハリスは神奈川に領事館を置き強硬な外交を展開した。ハリスは、アメリカは日本の友人であり、戦争で領土を奪うことはなくアヘン貿易はしない。イギリスはアロー戦争が終われば、すぐに日本にやって来るので、すぐにアメリカと通商条約を結ぶべきであると説いた。これに対し『別段風説書』の報告により、アメリカが戦争に勝ったメキシコからカルフォルニアを奪い、中国にはアヘンを売っていることを知っていた勘定奉行の川路らは、ハリスの言の偽りを含んでおいて交渉に臨めばいいと上申する。合意された条約は、自由貿易、神奈川など5港の開港、江戸・大阪の開市、アメリカ人遊歩範囲の限定、協定関税、アヘン輸入禁止などだった。日本側に裁判権と関税自主権のない不平等条約だったが、日本にとっては外国商人による居留地以外での商行為禁止の方が重要だった。中国の天津条約が外国人の自由通商権を認めていたことや低率関税であったのと比べ、日本の条約内容は各段に有利な条件であった。高い関税は日本の在来産業の保護をある程度果たした。

ブラタモリでも東海道沿いの神奈川宿付近ではなく、寒村の横浜を開港場としてアメリカに認めさせ、その後貿易が発展し始めると、横浜の開発を急速に進めたことが紹介されていた。極めて柔軟な実利政策を展開したことがわかる。

 『幕末・維新』の筆者によると、かつて、江戸時代後期は欧米の文明に対し半未開と位置付けられていたが、その見方は変わってきているという。江戸の民衆活動は抑圧的だと考えられていたが、民衆が訴訟を願い出る活動ははるかに活発で、百姓一揆への一般百姓の参加は事実上公認され、藩や幕府は訴えを受容していた。欧米列強の到来に際し、このような成熟した伝統社会を背景にその力量を発揮し、開国を受容し、開国はゆっくりと定着し日本の自立が守られた。伝統社会の力は、幕府の外交力だけに限らず、商人たち自らが欧米列強の到来を利用し、貿易を内から定着させたというのである。

北斎や広重らが活躍した江戸後期の高度な文化、民衆の教養レベル、社会の成熟度を考えたとき、産業面や軍事力で欧米に劣る部分があったとしても、欧米から突然もたらされた変化に日本社会が柔軟に対応できるものであったろうと容易に想像できるのである。幕府が外国に対し弱腰で時代遅れだったとか、百姓が直訴し一揆を画策していたことがばれると打ち首になるという時代劇や時代小説で刷り込まれたイメージを払しょくしなければならない。


留魂録

2015-05-03 12:42:13 | 近代史

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』吉田松陰の最期は心に響いた。

親思ふ こころにまさる親こころ けふの音づれ 何ときくらん 

伝馬町牢に幽閉された松陰が、死罪と決まったときに家族に宛てた『永訣の書』の中の歌で、子が先に逝くことを聞く親の悲しみを思いやり自責と謝罪の気持ちが伝わってくる。しかし、同じく獄中で同志に宛てた遺書『留魂録』では、自分が死んでも志を継いでくれることを願っている。死に臨んでも、猛々しい志を貫く”公”と、家族を思いやる優しい”私”を明白にわけていた人間松陰の生き方に深く共感できる。『留魂録』は松陰.comなどネットで全文を読むことができる。

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

十月念五日  二十一回猛士

『留魂録』はこの有名な辞世の句で始まる。旧暦安政6年10月25日(1859年11月21日)に書き始める。二十一回猛士は松陰が好んで使った号で、21回猛を奮う意味がある。松陰は最初に野山獄から出たとき、脱藩、藩主に意見書、密航と3回猛を奮ったので、あと18回だと兄の梅太郎に告げる。『留魂録』は以下につづく。

第一章 

「趙貫高を希ひ、屈平を仰ぐ」、松陰は、自分が漢の高祖・劉邦の圧力にも屈せず趙の君主に忠実であろうとして死んだ貫高や国の施政を批判して死んだ楚の屈平(屈原)の生き方を手本にしていたことは皆が知っていたとおりであると書く。貫高は趙王・張耳の息子・趙傲に仕えた大臣で『史記列伝 張耳・陳余列伝 第29』に出てくる。秦末の動乱時、張耳は漢の高祖に助力したので趙王となり、息子の趙傲は高祖の娘婿となっていた。高祖が趙を訪れたとき、乱暴で傲慢な態度をとった。主君・趙傲が侮辱されたことを恨んだ貫高は高祖を殺害する計画を立てた。しかし、密謀は露見し貫高は捕えられ拷問を受ける。主君の趙傲もその計画に加担したことを疑われたが、貫高は自分が計画したもので趙傲は関与していないことを訴えた。貫高が高潔な人物であることがわかり、趙傲の嫌疑は晴れた。同時に貫高も赦免されることになったが、貫高は「主君殺害の嫌疑をうけたものが、何の面目があって再び主君に仕えられようか」と言って自害する。屈原は楚の主君に忠を持って仕え、国を思うが故に王を諌言したが聞き入られず失脚し悲嘆のあまり汨羅に身を投げる。至誠をもってすれば幕府の役人をも動かせると思っていたが、自分の徳が至らず至誠が通じなかったことを悔いる。

第二章 取り調べの様子

第三章 

『新唐書』に出てくる唐の段秀実は人並み外れた正義感の持ち主で、反乱者である朱(しゅせい)に会いに行くが説得が聞き入れられなかったため、朱の額を笏で叩き割りその場で殺された。文天祥の『正気の歌』の第2段にある「或いは賊を撃つ笏と為り、反逆者の頭は破裂する」は、この段秀実のことを述べたものである。第1章と同様、松陰が中国史の人物の中でも特に秋霜烈日の義人を尊崇していたことがわかる。秋霜烈日は日本の検察官バッジのデザインとして有名。「要は内に省みてやましからざるなり」、すなわち、自分をかえりみてやましいことがないことが肝要で、人の価値は死んでから評価される。

第四章 取り調べの様子

第五章 自分一人が罪をかぶるので、心して今後の行動をとるようにと、同志に語りかける。

第六章 

取り調べ供述書に、自分が述べていない事実と違うことが書かれているが、「成仁の一死、区々一言の特質に非ず。今日義卿奸権の為めに死す。天地神明照鑑上にあり、何惜しむことかあらん」、すなわち、仁を成すのに言葉はどうでもよい。今日、奸権によって殺されるが、(自分の誠志は)天地神明が明らかにしてくれる(お天道さまが知っている)ので、何を惜しむことがあろうか。

第七章 

「継盛唯 當甘市戮 倉公寧 復望生還」、継盛と倉公という中国史上の人物に触れ、自分は元より死を覚悟していたと述べる。明の楊継盛は権力者を諌言したのち死を甘んじて受けた。手元の『史記列伝 扁鵠倉公列伝 第45』はなぜか省略され、倉公の事績がわからなかったが、ネット情報によると倉公・淳于意は漢初の医者で、罪を着て投獄されたとき生きて帰ることを望まなかったという。松陰は当初、生死については考えていなかったが、取り調べの過程で一度は死を覚悟し、次に、「天下の形勢を考察し、神国のこと猶為すべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり」、すなわち、天下の形勢を見ると、まだ自分がすべきことがあることがわかり、生きたいと思うようになった。しかし、今は幕府が自分を死罪にしたがっていることがわかり、生を願う心はなくなった。これも平生学問をしていたおかげである。

第八章 

人間の人生には四季があり、「春種まきし、夏苗うえし、秋刈り、冬蔵する」。10歳には10歳の、20歳には20歳の、30歳には30歳の、50歳には50歳の、100歳には100歳の四季がある。一事も成すことなく死ねば悔いが残るが、自分は30歳でもすでに四季が備わり、今まさに秀実(花が咲き実り)のときを迎えている。私の志を継ぐ人があるなら、自分の蒔いた種が絶えることはない。

第九章 同志に伝馬町の牢屋にいた水戸藩士や医者の山口某と交わりをもつとともに、尊皇攘夷で大功を立てるようにと言い残す。

第十章 尊皇攘夷の思想を継承するために京に大学をつくれ

第十一章 京都で事を起こすときは小林民部と連絡をとれ

第十二章 獄中で会った高松藩士長谷川宗右衛門の言葉「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」を意に感じる。

第十三章 天下のことを成し遂げるには天下有志の士と志を通じなければならない。一度敗れたぐらいで挫折するな。「切に嘱す、切に嘱す」と松陰は繰り返し頼んでいる。

第十四章 橋本佐内は26歳で死罪になった。獄中で資治通観を読み注を作り、漢紀を読み終わった。佐内と議論したかった。

第十五章 清狂(僧月照)の護国論と吟稿、口羽(毛利藩の重臣)の詩稿を水戸藩士鮎沢に贈ることを約束したので私の代わりに誰か約束を果たしてくれ

第十六章 

同志諸友のうち、小田村(伊之助)、中谷、久保、久坂(玄瑞)、子遠(入江杉蔵)とその兄弟(野村和作)のことは、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らに話しておいた。(松下)村塾のこと、須佐、阿月のことも告げておいた。飯田(正伯)、尾寺(新之丞)、高杉(晋作)と(伊藤)利輔のことも告げて置いた。

かきつけ終わりて後

心なることの種々かき置きぬ思いのこせることなかりけり
呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友どもとめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや

十月二十六日黄昏書す  二十一回猛士

松陰は『留魂録』を二日がかりで書き上げ、斬首されたのはその翌日二十七日のことだった。 松陰は同じものを2部用意し、一通は死後同志の飯田正伯から萩に伝わる。別の一通は牢名主の沼崎吉五郎に託す。こちらは、沼崎がその後島流しとなり明治7年に赦免後、明治9年に神奈川県令になっていた野村靖(和作)に手渡された。原本は萩の松陰神社に残されているという。

史記、漢書、唐書などの中国の史書は儒家、老荘、国学などの書と並び幕末の人々の必読書で、「共有された知」だったことがわかる。


暗号

2013-12-09 22:46:25 | 近代史

 昨日12月8日は1941年に日本が米英に宣戦布告し真珠湾を攻撃した日である。NHKは「日米開戦への道、知られざる国際情報戦」という番組を放映した。最近イギリスで公開された機密文書に、チャーチルが進めた世界規模の情報戦が記録されていて、そこに日米開戦に至った経緯が読み取れるという。その頃、チャーチルは各国情報の暗号解読に注力しスパイを駆使し情報戦を有利に展開しようとしていた。その情報網でいち早く日本の南部仏印(インドシナ)への進駐計画を知り、マレーシアやシンガポールの自国の利権が日本によって侵害されるのではという危惧を持つ。しかし、イギリスはドイツによる空爆を受けヨーロッパ戦線では劣勢にあったため遠く東南アジアに兵力を割く余裕はなかった。そこで、チャーチルは日本の南方進駐による危機感を煽り、アメリカを戦争に引きずり込もうとする。手始めにイギリスはアメリカとともに日本に対し経済制裁を発動する。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって経済制裁は死活問題だった。アメリカは制裁解除の条件として南部仏印からの撤退だけでなく中国での権益を放棄するよう要求するハルノートを突き付ける。ハルノートを創案したアメリカの要人ハリー・ホワイトは実はソビエトのスパイで、ハルノートの中身はソビエトに有利な内容になっていたという。また、アメリカがハルノートに添えた南部仏印や中国からの撤退の代わりに資金援助をするという妥協案は、アメリカを太平洋戦争に引きずり込みたかったチャーチルの工作によって日本側に提示されなかったともいう。その頃、ワシントンの駐米大使や大使館付武官の必死の非戦努力や情報はアメリカによって妨害され日本の中枢には伝達されず国策を変えるには至らなかった。ハルノートは日本が戦争を回避できなくなった決定的な原因だったとされている。番組の解説者である静岡県立大学准教授は結局、日本の中枢の政策決定者たちは新しい情報がもたらされても既定路線を修正することができず、内向きの論理で政策決定していたと断じた。日本海軍の証言で陸軍参謀や海軍軍令部の目的が組織防衛になっていたという結論と同じだ。折しも日本では特定秘密保護法案が可決され、番組で扱われたような秘密情報が向う何十年も保護されることになる。国家権力が言論の封殺、スパイ冤罪、極端な国家主義に向かわないことを祈るばかりである。

 ハワイ沖海底で旧日本海軍の伊400という巨大潜水艦が見つかったというニュースが先日流れた。全長120mの巨大潜水艦で、水上飛行艇3機を搭載する当時の最先端技術を有していた。アメリカ軍は戦後すぐこの潜水艦を旧日本軍から接収しハワイへ回航し調査の後、技術が旧ソ連に漏れることを危惧しハワイ沖に沈めた。取得した技術は後の原子力潜水艦に生かされたという。そのころ日本の航空機技術も高度で、開戦当初「風立ちぬ」のゼロ戦との空中戦でアメリカはまったく歯が立たなかった。アリューシャン列島で偶然無傷のゼロ戦を入手しゼロ戦の性能をアメリカは徹底的に研究した。以降、機動性で劣るグラマンがゼロ戦に勝つため、上空から一気に急降下しヒットエンドランで打撃を与え逃走するという戦法を採用し空中戦での劣勢を挽回した。戦時中コロンビア大学において日本研究で学位をとったドナルド・キーンは情報士官としてアリューシャン列島のキスカ島に上陸している。映画「Big Year」で主人公たちはアッツ島へバードウォッチングに行くが何もない最果ての島である。アッツ島で日本軍は玉砕しキスカ島の日本軍は無傷の撤退に成功する。戦時中も何もなかったに違いないこんな島に大勢の日本兵が駐留していた理由がわからない。何もない島が戦略的に重要だったのだろうか。太平洋戦争で日本軍は、北はアリューシャン列島、広大な中国本土、さらに広い東南アジア、南太平洋、果てはオーストラリア本土にまで戦線を広げすぎている。兵站確保は兵法の基本なのに誰も疑問に思わなかったのだろうか。こちらはシンガポール拠点に東南アジアを駆け回っているが、情報入手が容易な現在でも隣国マレーシアの市場(戦線)でさえ担当者の報告のみで状況判断しているに過ぎない。ましてや広いインドネシアやビルマ(ミャンマー)のことまで責任が持てるはずがない。目の届く範囲で地道に仕事していようと思う。

 もうひとつ、暗号の話題としてBitcoinというインターネット上で流通する仮想電子マネーがある。別名、暗号通貨とも呼ばれる。Minerと言われる人たち(金鉱掘りのような人)がコンピューター上の暗号を解読することで少しずつBitcoinを手に入れられる仕組みになっているらしい。円やドルのように国が管理する通貨ではなく、また運営会社が発行する電子マネーでもない。正体不明の“中本哲史”という人物が2008年に出した論文に基づいてネット上に提供されている通貨で、徐々に利用する人が広がり今ではBitcoinで買い物ができるショップも出現しているという。Bitcoinが投機の対象になり急速に値上がりしたため、取扱量の多い中国の人民銀行が、個人的な取引は容認するが銀行がBitcoinを取引することは禁ずるという通達を出した。この12月5日のニュースを知るまでBitcoinの存在を知らなかった。著名な経済学者のBitcoinに対する評価は、将来性があるとする肯定的な意見と、破たんや負の側面が多いという否定的な意見に割れている。でも短期間で値が何十倍にも変動する通貨が物を売り買いする通貨として機能するのだろうか。結局、投機対象の仮想通貨でしかありえないような気がする。Bitcoinが外国為替クロスレートにでも入るようになったら通貨として認知されたことになるので利用してみるかな。


南方熊楠記念館

2012-05-26 14:14:37 | 近代史

 5月21日の金環日食は志摩のホテルで見た。京都でレンタカーを借りて伊勢神宮~志摩~那智大社~串本~白浜~海南~大阪と紀伊半島をぐるっと一周し、また京都へ戻る2泊3日の旅である。同行者は妻、娘二人、徳島の母の総勢5人で息子は学校に行くと称して参加しなかった。旅の最大の目的は、白浜の南方熊楠記念館と海南の藤白坂で絞殺された有間皇子の碑を訪ねることである。

観測グラスを持ってなかったので鏡に反射させた壁に写る太陽を撮ろうとしていたところ、うまく雲を通して金環を撮ることができた。

 

上は、南方熊楠記念館の屋上から見た神島(かしま)と、記念館前の天皇御製の歌碑

雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

 1929年熊楠と神島で会った昭和天皇が、33年後の1962年に亡き熊楠を回想し詠んだ歌である。わずか30分程度だったが熊楠によるご進講は忘れがたいものだったと想像できる。記念館は白浜の岬突端の京大白浜水族館の奥の丘の上に建ち、周囲の森は植物園のようになっていてよく手入れがされていた。(http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/index.html) 記念館の展示は、熊楠の生涯が通観できるように簡潔に並べられ、わかりやすく非常に有意義だった。白浜には15年以上も前に家族と徳島の母の6人で訪ねているが、そのころは南方熊楠の存在さえ知らなかった。そのとき幼子中心で行ったアドベンチャーワールドや京大白浜水族館や三段壁は今回すべてパスした。

記念館web-siteより

 鶴見和子の「南方熊楠」は彼の生涯を最大もらさず紹介しているので記念館でも新しい知見はなかった。しかし、本では想像するしかなかった熊楠の書いた粘菌のスケッチ、英語の文章、当時の写真などの実物に触れることができたことは、400円という入館料も含めて有意義で大満足だった。ちなみに、誰が行くのかわからないがクジラで有名な太地町でたまたま通り過ぎた有名プロ野球選手の記念館の入館料は2000円だった。

 記念館展示品の孫文が熊楠に宛てた英語の手紙を途中まで読んだが、熊楠へ返信が遅れたことのお詫びからはじまる手紙は孫文の人柄と二人の関係が偲ばれるものだった。記念館で買った松居竜五著「クマグスの森」のIII章「内的宇宙へ」は興味深かった。熊楠が”「物」と「心」の接触によって生ずる「事」の世界を学問の対象にしたい”と語っている個所であり、「事」の事例として夢を分析していることであり、真言密教の発想を借りて自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を統合する学問モデルを表そうとした「南方マンダラ」である。

左:松井竜五「クマグスの森」より  右:記念館で買った絵葉書の南方マンダラ

 心と物は別の事象ではではなく相互に干渉し事が生じる。夢は自分の精神の中に外からの事象が入り込み形作られていく。ということを熊楠は自分の夢を分析することで確かめようとし、晩年の熊楠の日記は夢を書き留める夢日記のようになっているらしい。荘子は”胡蝶の夢”で、夢も現実も一つの変化のあらわれであり相対差別すべきものではないという万物斉同の思想を展開する。老荘思想を基本に据えた淮南子は、道(哲学)と事(現実)という分け方をしていて、この場合の”事”は熊楠のいう”物”に相当し彼の”事”とは異なる。しかし、淮南子が道(哲学=形而上=心)と事(現実=形而下=物)の統合を目指すのと、熊楠が心と物を統合しようとする点はまったく同じである。アインシュタインも最後は神の声を聴いた(これは嘘らしい)というように、自然科学を極めると形而上の境地に入っていくと言われるが、真言宗徒であり、てんかんを持っていた熊楠はより以上に形而上的な世界に近かっただろうし、研究対象が動物か植物か区別ががつかない変形菌だったことも輪廻や空を説く仏教世界につながっていたのではと想像される。

 熊楠と同郷の明恵上人は同じように夢を書き残した。白洲正子の描く「明恵上人」の生涯にはまったく共感できなかったが、明恵の夢を分析し本の解説を書いた河合隼雄の明恵論が白洲正子の本文より面白く分かりやすかったことを思い出す。

 今回、田辺の南方熊楠顕彰館には行かなかった。事前にネットで顕彰館の存在を確認していたが、近代的な建物と顕彰館という名前に、どこか”うさんくさい”感じがしたので旅程に入れなかった。しかし、よく調べてみると当時のままの熊楠旧宅を併設しており、熊楠の田辺での生活に触れることができたのにと、立ち寄らなかったことをちょっぴり後悔している。


寺田寅彦 その2

2012-01-04 01:44:49 | 近代史

NHK「坂の上の雲」第3部は多々不満に思う部分はあったが、とにかく3年にわたる大作が完結した。最大の不満点は、演出家の”どうだ迫力満点だろう”という自信満々の戦闘場面で、銃撃、突撃、爆発、流血という似た場面の繰り返しに閉口した。人物の描写や脚本にも注文したいことがあった。1部、2部は純粋に物語が楽しめたのに、3部の出来は残念だった。はるか昔、原作を読んだときも同じような感覚を味わったような気がする。耽読していたものが子規が死に203高地が終わるころから急速に冷めていった記憶がある。

ところで、「坂の上の雲」第3部、日露戦争の最中に、子規の弟子たちと夏目漱石が子規庵に集い、子規や戦争について議論する場面が出てくる。寺田寅彦は、その弟子たちの中に混じっていたのではないかと思う。

青空文庫には寺田寅彦の作品287編が公開されていて、内容は専門の物理学や自然科学に関するものから、映画評、日々の雑感など多岐にわたり、まさに寺田のブログなのである。その中に子規について書かれた作品があり、寺田が頻繁に子規とその弟子たちと交流していたことが窺えるのである。以下、子規との交流を描いた作品。

「子規自筆の根岸地図」昭和9年8月 

寺田寅彦は子規の自筆を二つ持っていて、一つははがき、もう一つは子規の家から中村不折(洋画家、「吾輩は猫である」の挿絵を描いた)の家までの道順を教える根岸の地図である。”仰向けに寝ていて描いたのだと思うがなかなか威勢のいい地図で、また頭のいい地図である。その頃はもう寝たきりで動けなくなっていた子規が頭の中で根岸の町を歩いて画いてくれた図だと思うと特別に面白いような気がする。”と寺田は書いている。また、鶯谷の子規庵の近くに書道博物館というのがあるが、それは中村不折が収集した書の博物館だそうだ。

「子規の追憶」昭和3年9月

子規は自然科学に興味を持っていた。学芸の純粋な発展を阻害する政治的な圧力に対し憤懣を持っていた。ゾラの「ナナ」の筋や若い僧侶が古い壁画の裸体画を見て春の目覚めを感じると話す病子規を若々しく水々しい人のように感じた。と寺田は記す。

「高浜さんと私」昭和5年4月 

出版社から高浜虚子のことを書けと言われて書いた随筆である。上京して始めて子規庵を訪ねたときに虚子とすれ違ったことと虚子が描いた熟柿を本人が馬の肛門のようだと言ったことを笑った寅彦に向かって、”ほんとうにそう思ったから面白いのだ”と子規が虚子を弁護したことが書かれている。また、子規の葬式で会った憔悴した虚子を回想している。千駄木の夏目漱石宅で開かれた文章会では虚子が文章を少し松山訛りで読む話を載せている。

 

2012年初詣は、昨年同様、西新井大師へ行った。基本的に不可知論者(agnostic)なので実証されていないものや理屈に合わないことは信じないのだが、毎年のように初詣に行き、神仏祈願し、死後の世界、天国地獄、宗教、SFやUFO、最近では老荘思想と仙人思想などが大好きだというのだから、自己矛盾がはなはだしい。一種の人格破綻者かもしれない。とはいえ、矛盾する理想(信条)と現実(現業)の狭間に自分を置いて今年も生き抜きたいと思う。


寺田寅彦

2011-12-29 18:17:44 | 近代史

今年もあと3日。テレビは今年を振り返る番組で連日、3.11の津波映像を流している。自然の脅威を思い知らされた年だった。ところが80年前の寺田寅彦は、津波被害に遭った人や地域でも時間が経つとその災厄を忘れてしまい、同じ被害が繰り返されることを警告している。以下は昭和8年3月の三陸津浪に際して寺田が書いた「津浪と人間」の抜粋である。

和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端からぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。

津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では
枉まげられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界きょうがいにある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄す鉢ばちの哲学も可能である。

日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効なものの一つであろうと思われるのである。

青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html

寺田寅彦は、津浪は必ず繰り返されるので対策を怠らないようにすべきだが、被災者の記憶は年月とともに希薄になり政府も積極的な対策をしなくなるのは”人間界の自然の法則”なのだと警告する。だから学校での継続した津浪の予防教育が最も有効であると述べている。今年の3.11津波で犠牲が大きかった原因の一端にはこの人間界の自然の法則があり、子供たちが先頭に立って避難し子供犠牲者ゼロをもたらした”釜石の奇跡”(群馬大学防災センター)は予防教育の成果だったのである。80年前の寺田の警告と予防教育の重要性は実証されたのである。

寺田寅彦の言う津波被害後の人間の性向は、以下の随筆「日本人の自然観」(抜粋)に記された彼の自然に対する認識に立脚している。

吾々は通例便宜上自然と人間とを對立させ兩方別々の存在のやうに考へる。これが現代の科學的方法の長所であると同時に短所である。この兩者は實は合して一つの有機體を構成してゐるのであつて究極的には獨立に切離して考へることの出來ないものである。人類もあらゆる植物や動物と同樣に永い永い歳月の間に自然の懷にはぐゝまれてその環境に適應するやうに育て上げられて來たもの---。 

人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科學の發達を促がした。何故に東洋の文化國日本にどうしてそれと同じやうな科學が同じ歩調で進歩しなかつたかと云ふ問題は---- (日本は)自然の十分な恩惠を甘受すると同時に自然に對する反逆を斷念し、自然に順應する爲の經驗的知識を集輯し蓄積することをつとめて來た。

日本人は矢張日本人であり日本の自然は殆ど昔のまゝの日本の自然である。科學の力を以てしても、日本人の人種的特質を改造し、日本全體の風土を自由に支配することは不可能である。

http://www.geocities.jp/sybrma/393nihonjinnoshizenkan.html

要するに寺田寅彦は日本の自然はとりわけ過酷で、科学技術で自然を支配することは不可能であり、自然は畏怖すべきもの自然とは共生すべきものという思想が伝統的に育まれてきたと言うのである。これは同じ時代に生きた宮沢賢治の自然観と同じである。

寺田寅彦(1878-1935)物理学者、高知県出身、随筆家、俳人でもある。夏目漱石「三四郎」の野々宮宗八や「吾輩は猫である」の水島寒月のモデルと言われる。

寺田に言わせると、人間は総じて健忘症で、それは人間界の自然の法則であり、同じ失敗を繰り返す。失敗を防ぐには、1年の終わりは忘年ではなく、しっかりとその1年の自分を振り返る、すなわち寺田のいう予防教育を繰り返すことが大切なのである。なんてことを思うのだが、2,3日もすれば忘れてしまうことは目に見えているのだ。


Footprints of Gods

2011-05-07 14:07:16 | 近代史

 南方熊楠 (その2)、は、英国の「Notes and Queries」という雑誌に、Footprints of Godsというテーマで何度も寄稿していたということが、今読んでいる鶴見和子の「南方熊楠」に書いてある。その後、熊楠は中身を少し変えて「神跡考」と題する日本語の論文も出している。Footprints of Godsとは、神様の足跡で世界各地にある。13世紀のマルコポーロの東方見聞録や14世紀のイブンバトゥータの旅行記二人の旅程地図)にも記されているスリランカのAdam’s Peakにも巨大なFootprintがあるが、仏教徒は仏陀、イスラム教徒はアダム、ヒンズー教徒はシバの足跡だと主張している。

http://sacredsites.com/asia/sri_lanka/adams_peak.htmlより拝借

 誰のでもいいのだけれど(不謹慎か?)、世界中にあるそんな足跡や足跡信仰の起源などを「Notes and Queries」に不特定の読者が寄稿し論争する。「Notes and Queries」は、あるテーマに対し専門家もアマチュアも関係なく寄稿し議論する場を提供する雑誌で、今のネット上の掲示板のようなものである。熊楠は自分が日本人・アジア人であることを利点として日本、中国、インドにある足跡を紹介し、足跡信仰がなぜ同時並行的に世界中に存在するかについての自説も披露している。後年、神跡考を読んだ柳田国男が”外国人の東洋研究者が一人多くなった”だけだと熊楠に忠告するのに対し、熊楠は”東洋人の世界研究者がひとり出た”と自己評価した手紙を返している。柳田国男との交流は1911年から1926年まで続くが、熊楠のあっせんで知り合いの娘が柳田家で働くようになったころに”何か面白くないこと”があり、その娘が柳田家を去ってから絶交する。しかし、柳田は熊楠死後も彼の才能と業績を高く評価していたらしい。逆に、有名な植物学の泰斗・牧野富太郎は邦文での論文発表がないことと、外国での発表は熊楠が英国在住中のことで、帰国後はこれといった業績はないという憶測により、植物学者として熊楠をまったく評価しなかったらしい。鶴見和子は、熊楠が帰国後も長くNatureやNotes and Queriesの雑誌に投稿していたことをあげ、牧野が熊楠の死後憶測でこのような文章を残したことをFairじゃないと言っている。鶴見はそれに続けて、死んだ牧野を、自分がこうして批判するのも公平じゃない。と、きわめて抑制的な文章で結んでいる。梅原だったらボロクソに書いただろうに。

 柳田国男は日本人の枠から抜けられず、日本人とは何かを問い続けたが、熊楠は人間とは何かという問いへの解決にまで踏み込もうとした。という谷川健一の評価を鶴見和子は載せている。熊楠の英文の一部をネットで探して読んだが、格調高く日本語よりわかりやすい。

 ところで南方熊楠は東大予備門を中退しているが、同期生に正岡子規や夏目漱石がいる。後年、夏目漱石はロンドンに留学(1900~1902年)しほとんどノイローゼになりわずか2年ほどで帰国する。これに対し熊楠は、1886年二十歳でアメリカに単身渡り、15年後に帰国するまで、キューバ、ハイチやドミニカなどの西インド諸島を曲芸団の一員として放浪したのち、1892年にロンドンに渡り、主に大英博物館で勤務する。その間、孫文と知己になったり、大英博物館でけんかしたり罷免されたりがある中、前出のNatureやNotes and Queriesに投稿を続け、1900年夏目漱石とは入れ違いで34歳で帰国する。柳田や夏目漱石とは視点が違ってあたり前なのである。

 さて、足跡にもどって、身近にFootprintはないものかと考えたがない。似たものは、娘が幼稚園の時に粘土に押し付けて作った手形のついた彫塑の板ぐらいのものだ。ところがネットで調べると、あるわあるわ、特に釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象とした仏足石は日本だけでなくインド、中国、タイなど山ほどある。タイでは、涅槃の仏陀像の足が体に比べやけに大きいことに驚いたが、足が信仰の対象になっていたとは知らなかった。日本では奈良の薬師寺の仏足石が有名らしい。また薬師寺では仏足石の脇に仏足跡歌碑が立ち、5,7,5,7,7,7の仏を礼賛する和歌が刻まれている。同じ形式の歌は古事記、万葉集、播磨風土記にも1首づつあるという。万葉辞典が今手元にないので確認できないのが残念だ。薬師寺の仏足跡は唐からわたってきたものだと紹介(Wiki)されているが、熊楠の論文にも日本の足跡はインド・中国からわたってきたと書いてあるということだ。福井県にも神の足跡があった。大きな岩盤が足跡に似ていることで観光地にしているようだが、こちらは信仰とはあまり関係なさそうである。


子規庵

2010-12-19 18:45:29 | 近代史

先週の”坂の上の雲”で子規が死んだ。ので、昨日、根岸の子規庵へ行ってきた。狭い子規庵に10組ほどの60前後の夫婦がひしめいていたが、同じ理由で来た人たちだと思う。

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をととひのへちまの水も取らざりき

子規が死んだのは明治三十五年九月十八日で、上の絶筆3句を色紙に残したことから糸瓜忌という。写真撮影禁止だったので上の絵葉書を買った。六尺の病室から見た子規の天地と糸瓜(ヘチマ)の絵葉書だが、昨日も糸瓜棚からヘチマがぶらさがっていて、ほぼこの写真と同じ景色だった。机には曲がらなくなった足を入れるために四角い切れ込みがある。この六尺間で子規が激痛に泣き叫び、妹の律や母八重に悪態をつき、律が1時間かけて包帯を変え、”病床六尺”(前半後半)を書き、弟子たちと俳句を論じたと思うと胸がいっぱいになった。脊椎カリエスの膿のみちを示す人体図も強烈だった。

松江の小泉八雲邸も子規庵と同じような広さで八雲の使った机や小さな庭と作品の展示があり、子規庵とほぼ似たようなものだったが、松江時代の八雲には子規のような壮絶な出来事がなかったためか特に感慨もなく、拝観料の300円を高く感じた記憶がある。しかし、八雲邸は松江城下のよく整備された武家屋敷地区に立派に保存されているのに比し、子規庵のまわりのホテル群はなんとかならなかったのかと思う。子規庵程度では街は守れないということか。

鶯谷駅近くの豆腐の”笹の雪”で昼食に豆腐コースを食べた。豆腐はどれも美味だった。

今日の”坂の上の雲”はいよいよ日露開戦だ。

昨日、Jack Nichlsonの”About Schmidt”2002年を借りて観た。監督:アレクサンダー・ペイン、出演:ジャック・ニコルソン、ジャック・ニコルソンはいつもと違い毒気のない役で、まわりの人間のほうが変人に見えたから不思議だ。定年退職して自分と周囲の人間との関わりが表面的だったことや周りの人間の軽薄さに気付く。本当の自分を殺し周囲の軽薄さに適当に自分を合わせて人間関係を繋ぎとめるやりかたは、ずっと家族や友人や会社の同僚に対してやってきたことの延長でしかない。結局、人に頼られない孤独や本当の自分をわかってもらえない孤独は、生きる価値や人生の意味にも関わるのできつい。最後に毎月22ドルの支援金を送っている会ったこともないアフリカの少年からの便りに救われる。人生の後半戦に入っているので考えさせられた。★★★★☆


南方熊楠 その2

2010-11-14 18:52:57 | 近代史

南方熊楠は1867年に生まれ、1941年に74歳で没した。宮沢賢治は1896年生まれで熊楠より30歳ほど若いが、1933年に37歳で早逝したので熊楠の活躍した時期に重なる。二人の性格は相当異なっているが、熊楠は粘菌、賢治は化石の収集と研究、自然に対する敬意と仏教を信じたところなどは共通する。熊楠は真言密教、賢治は法華経に帰依(どこまで信心深かったかは不明)し、それぞれの生き方や作品に影響を与えている。

 水木しげるの漫画「猫楠」によると、熊楠は粘菌の研究を通して、”粘菌の一生は生死の現象を見せてくれる。生命現象の奥に潜んでいる大宇宙の根源は何かをつきとめたかったのである。”、”彼を支えたバックボーンは、真言密教の教えだった。”という。真言密教で大宇宙の根源は大日如来である。熊楠は高野山の住職と知り合いで高野山で粘菌採集もしている。熊楠は採集した粘菌を、かつて働いて(研究して)いた大英博物館のGulielma Listerに数多く送っていたが、そのうち彼の自宅の庭の柿の木から採取した変形菌は、新種であったため彼女によってMinakatella Longifila Listerと名付けられた。写真は南方熊楠記念館Web-siteより。

 下は国立科学博物館のWeb-siteのススホコリの写真である。子のうから胞子を出して繁殖する。風で運ばれた胞子は発芽し粘菌アメーバが這い出してくる。粘菌アメーバは水の中をべん毛を使って泳ぎ分裂を繰り返し増える。+と-の異性粘菌アメーバは接合し、さらにバクテリアやカビを食べて変形体に成長する。変形体は自在に移動する。変形体は生活環境が合わないと菌核をつくり休眠し、温かく水分があると活動し始める。変形体はその後、胞子を内包する子のうに変形する。

”動物? それとも、植物? 
変形菌は、 巨大なアメーバ状の体を変身させてキノコのように胞子をつくる 不思議な生き物です。
別名を粘菌(ねんきん)、ホコリカビとも いいます。”

国立科学博物館のWeb-siteの変形菌のサイトに書かれた説明だが、結局、不思議な生き物と言うだけで動物か植物か教えてくれなかった。乾燥や暑さで休眠し環境が整うと活動を再開する自然適合性、きのこと同じように胞子で繁殖するが胞子からアメーバとして這い出してきてべん毛を使って動き回る。雄雌が合体し成長し、変形体は迷路を解くこともできる。からくりテレビの子供、熊楠や昭和天皇が熱中して不思議のない生き物だ。

      「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

昭和天皇が昭和37年(1962)に白浜町に行脚したときに、33年前に会った熊楠を偲んで詠んだ歌である。


南方熊楠

2010-11-13 21:41:06 | 近代史

何週間か前、さんまのスーパーからくりテレビに変形菌の天才キッズが出ていた。同時に変形菌が迷路を解いた話をしていた。変形菌(真性粘菌)がいっぱいに広がった迷路(a)の入り口と出口に変形菌のエサAGを置くと、変形菌が最短距離(c)で並ぶ。

北海道大学の中垣先生らは、これで2008年にイグ・ノーベル賞(ノーベル賞のパロディーで、first make people laugh, and then make them thinkな研究に送られる)を受賞し、2010年の今年、粘菌のその能力を活かして最適な鉄道網モデルを作ることを見つけたとして再受賞した。日本人では、ドクター中松が35年間自分の食事と行動パターンを記録し続け何が体調や頭の働きに影響するか突き止めたことで受賞している。他に、たまごっちやカラオケの発明者、足のにおい成分発見者や牛やパンダの排泄物から役に立つ物質を発見した人も受賞している。

さて、粘菌に話を戻す。粘菌といえば和歌山県の田辺に住む南方熊楠である。南方熊楠は政府が明治39年に出した神社合祀令に反対し原生林を伐採から守った。神社合祀は、一部の例外を除き、”<span >一町村に一社”を標準とするもので、小さな神社は大きな神社に併合し、神社を取り壊し、まわりの鎮守の森を伐採するものであった。熊楠の神社合祀に関する反対意見は青空文庫で読むことができる。

森林の重要性は、”これがため山地は土崩れ、岩墜ち、風水の難おびただしく、県庁も気がつき、今月たちまち樹林を開墾するを禁ずるに及べり。千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民なしとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言わるるを聞くなり。”と述べ、続けて8か条の反対理由を列挙する。神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。”とし、孔子、玉葉、続日本紀や西行の山家集などの古典を引用し、歴史、宗教、環境論を駆使し、外国の事例にも言及したものである。

8か条の反対意見の要旨(速読したうえ相当に意訳した)

第1 政府の言う神社合祀で神を敬う気持ちが高まるというのは嘘である。合祀で身近にあった神社にお参りすることができなくなり、和歌山のように山の多い地方で遠くまでお参りにいくことなど考えられない。

第2 合祀は人々の和を損なう。漁師たちは漁の無事を海辺の身近な神社で信心深く祈ってきたが内陸に神社が移されると、漁師から魚神を奪い、山人から山神を奪うようなものだ。

第3 合祀は地方を衰微させる。地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林や神田を持ち、周辺の住民が集い祭りや市で賑わい潤っている。

第4 国民の慰安を奪い人情を薄くし風俗を害する。森林は神そのものであり、神社に張られたしめ縄ひとつで公序が守られる。

第5 合祀は愛国心を損なう。神社なければ故郷を慕うことがなくなる。合祀により木を売ったりわいろを要求したりする神職が出てきたが、このような神職に愛国心を説かれても誰が従うというのだ。

第6 土地の治安と利益に大害あり。地震、火難等の避難の地となる。森林を切ることで生態系が破壊され田畑に被害が出る。

第7 合祀は史跡と古伝を消滅させる。

第8 合祀は天然記念物を消滅させる。

田辺に、熊楠が自然を守り昭和天皇も訪れた神島という島がある。粘菌の研究者だった昭和天皇は1929年(昭和5年)田辺の神島を訪れ熊楠に会っている。瀬戸内海の神島で読まれた万葉歌をこの島とする説もあるという。

南方熊楠の伝記を漫画にした水木しげるの「猫熊、南方熊楠の生涯」も買って読んだ。熊楠の変人ぶりはこの漫画にいやというほど描かれている。


昭和の名将と愚将

2010-02-24 22:18:49 | 近代史
 半藤一利と保坂正康が太平洋戦争時の軍人を名将と愚将にわけて評価する対談集である。予想通り「硫黄島からの手紙」の栗林忠道や戦艦大和の伊藤整一や連合艦隊司令長官の山本五十六は名将とされている。一方、ノモンハン事件を進めた服部卓四郎や辻政信、無謀なインパール作戦を立案命令した牟田口廉也、特攻隊の責任者たちに並んで瀬島龍三が愚将とされている。台湾沖航空戦の戦果は間違っていたという電報を握りつぶしたために次のレイテ戦に大敗北を喫したことやソ連の学者によるシベリヤ抑留の研究内容を改竄したことなどを理由としている。半藤と保坂は、瀬島龍三は一度も参謀本部を出たことがないので「戦闘を知らない、戦争を知らない、アメリカもイギリスも知らない」「国家の一大事と自分の点数を引き換えにする軍人」と結論付けている。
 意外だったのは、山下奉文と石原莞爾が名将とされていることだ。山下奉文はシンガポール陥落のときイギリスの将軍に「Yes or No」を迫った強面の軍人という印象しかなかったし、石原莞爾は彼の世界最終戦争論や満洲事変の首謀者ということで拒否感を持っていたから、どちらについても人物や事跡を知ろうという気もなかった。ところが、この本によると山下は温和で、たとえ敵将であっても高圧的に出るような人物ではなかったらしいし、フィリピンの最前線で抵抗戦を指揮し投降したのち泰然自若と死刑を受け入れる。石原莞爾は本気で東亜に理想郷をつくるつもりだったが、東条らによって満州は完全に日本の植民地にされたと激怒している。対ソ戦略の練り直しや参謀本部の組織改革などを行う天才だったが、体制派から疎まれ昭和13年以降左遷されて太平洋戦争のときには予備役として一線から退いてしまっている。
 愚将とされたのは、東条英機に気に入られた軍人、自己顕示欲のかたまり、組織防衛に走り国家を見ていなかった軍人たちである。
 昭和史、特に太平洋戦争のことを読んでいるが、半藤や保坂、家永三郎などが集めた当事者の証言、瀬島などの当事者自身の話など、立場によって評価が異なり興味は尽きない。とりわけ、この本によって石原莞爾の印象がまったく違ってきた。以前、長女が石原莞爾と日蓮宗について話していたのを適当に聞き流していたが、再チェックが必要だ。

大東亜戦争の実相

2010-02-18 23:07:09 | 近代史
 今日の「不毛地帯」の壱岐は、モスクワ行きを懇願する部下に対し、”極寒の暗闇で11年間つるはしを振るっていた人間の気持ちが判るか!”と声を荒げるが、結局モスクワへ旅立つ。

 「大東亜戦争の実相」は、山崎豊子の「不毛地帯」の主人公”壱岐”のモデルになった瀬島龍三の本である。壱岐が関東軍参謀として満洲で終戦を迎えシベリアに11年間抑留されたように、瀬島龍三は全く同じ経歴を持ち、帰国後総合商社の伊藤忠に入り会長にまで上り詰める。この本は1972年にハーバード大学で行った「1930年代より大東亜戦争開戦までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマの講演録である。

 講演は戦前の日本の政治体制の問題点の指摘から始まる。
① 軍隊の用兵、作戦のことまたは軍を指揮することを統帥、その権限を統帥権と称した。
② 日本では統帥権は内閣(行政)にはなく天皇にあり、天皇に直属する統帥部(海軍の軍令部と陸軍の参謀本部)が天皇の統帥権行使を補佐した。
③ 陸軍大臣や海軍大臣はそれぞれの予算編成などを管轄する行政職で、陸軍の参謀総長や海軍の軍令部総長はそれと併立する独立機関であった。
④ 旧憲法下では、内閣総理大臣、各国務大臣、参謀総長、軍令部総長らはいずれも同格で天皇の下に併立していた。
⑤ 陸軍と海軍の対立は深刻であったが、これを統括できるのは天皇しかいなかった。しかし、天皇は「君臨すれども統治せず」という立場を守り、その権力を行使することはなかった。

 日本の政治体制、軍政を明らかにした後、満洲事変、満洲国の独立、支那事変、日独伊三国同盟、東条内閣登場、ハル・ノート、開戦を順を追って説明し、その時々の日本の国防方針や上層部の対応が詳細に語られる。大東亜戦争は自存自衛の戦争だったという瀬島の考えや、天皇の「聖断」も出てくる。国際社会の中で、日本がどんどん追い込まれて行き、英米の経済制裁により開戦せざるを得なくなることが、よくわかる。さらに、瀬島は、ここでこうしていれば戦争は回避できたというターニングポイントを示すことも忘れていない。ターニングポイントは1度だけではなく何度も出現する。東条英機も責任の所在がはっきりしない政府の一人にすぎない。

 瀬島龍三の示す教訓
① 結果的に日本の大陸政策はアメリカや中国の反発を招いたため賢明ではなかった
② 満州権益だけを守り、支那事変を防止すべきだった。
③ 旧憲法下では天皇の下に各大臣、参謀が並立し、陸軍と海軍の対立、統帥部と行政の不調和、計画の一貫性の欠如、権力分散に伴う責任所在の不明確があった。
④ 軍事が政治に優先した。最大の問題点は現役武官が陸海軍大臣を歴任したことだという。この制度だと軍の意に沿わない内閣をすぐに倒すことができる。さらに軍人によるテロの脅威がこれに拍車をかけた。
⑤ 海軍と陸軍で国防方針が分裂していた。軍備の増強が戦争抑止になると考えていたが、軍備は戦争促進に直結する。陸海軍それぞれが自軍の軍備に注力し、国を見ていない状態だった。
⑥ 少ない陸軍兵力で南方を制圧や大艦巨砲主義など重大な戦局判断のミスがあった。
⑦ 首脳会談が開けていれば戦争は回避できたかもしれない。

 本を手にした当初は、”大東亜戦争は自存自衛の戦争だった”や”必死に日本を守ろうとした人々(戦犯を含む)の行動は再評価されるべき”や戦時の参謀としての自己批判がないことなどから、右翼思想家の話だと思い、かなり批判的に読んでいた。ところが、最後の教訓まで読み進んだ時点で、この本は一貫して事実と人々の行動を詳細に捉え多角的に分析したものであり、右翼や左翼などの思想をもって語られたものではないことに気付いた。参謀が戦局を分析するのに思想などあるはずもないのである。