昨日、鑑真が仏教を学んだ中国揚州の大明寺に、唐招提寺の鑑真像(江戸時代の木造像)が送られ展示公開される式典の模様が、”鑑真和上像里帰り”としてテレビニュースで流れていた。送られた木造像は、上原和が一日中御前に坐して対面しまつ毛の1本1本が確認できたという7世紀の乾漆像を模したものということで、それも国宝になっている。
今日は鑑真の話ではなく、孔子の話を記す。史記列伝を読み終えた後、井上靖の『孔子』(上は表紙の井上靖による題字)を読んだ。
これまで、孔子といえば、高校の漢文の授業で出てきた”子曰く、”で始まる詞の一部、大学の教養部で受講した『論語』、白川静の『孔子伝』、中島敦の『弟子』の子路の目を通した孔子、史記世家にあった孔子世家、シンガポール航空の機内で観た孔子の中国映画である。論語と白川静の孔子伝までは興味はあったものの孔子に人間的な魅力は感じなかった。大学の論語の授業は単位が簡単にもらえると聞いて取ったもので受講者が多く大教室での講義だった。出席をとらなかったので1回授業に出ただけで最後はレポート提出で単位がもらえたと記憶している。その程度だったから、
”子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。”
といった有名な詞に”ほ~”と感心する程度で、論語の人生訓や道徳臭が好きになれなかったことにもよる。
井上靖の『孔子』は、孔子の弟子の一人が孔子の死後、孔子を研究する人々の前で孔子と行動をともにしたときの孔子や弟子の顔回、子路、子貢らの言葉や行動を解釈する態で話がすすむ。
孔子一行が陳から蔡へ向かうときに食料がなくなり皆が困窮したとき、子路が突然立ち上がり孔子に向かって、”君子も窮しますか?”と子に投げつけるようにまるで怒っているように言葉を発する。”君子も窮しますか?”子路は、また言いました。孔子は、子路のほうに顔を向け、”君子、もとより窮す。小人、窮すれば、斯(ここ)に乱る。”と、皆がはっとするほど大きな、力の入った声で答える。それを聞いた弟子たちは皆、居住まいを正し、この詞を聞いた以上、飢えようが死のうがもう構わない、そんな思いで感動した。という話が、まさに物語として語られているのである。
”五十にして天命を知る”についても、しつこいほどその意味が語られる。自分の生涯の仕事を見つけた。人間がなすことは正しいことであれ悪いことであれ天が定める。人は常に正しいことを行うことに努めなければならず、その場合に天は嘉してくれる。などいろいろな意見が人々によって語られる。
小説には弟子の品定めもある。顔回が一番だとか、子路だとか、いや子貢だという意見が戦わされる。最後には孔子は3人の弟子が互いに助け合って孔子の意思を継ぐことを願っていたという意見に落ち着く。
論語の人生訓が羅列された中にある同じ詞が、井上靖の小説の中で生きた言葉になっているのである。自分の中で知識としてしか感知されていなかった孔子の言葉が生き生きとしてくる。これが小説の力なのだろう。『孔子』は井上靖が80から82歳のときに書いた小説で、翌年83歳で亡くなっているので最後の長編になる。同じ話が何度も出てきてしつこいと感じる個所も多々あるが、井上靖の力を感じた小説である。
下の写真は白川静の『孔子伝』の表紙に使われた孔子像で、和刻『聖賢像賛』寛永20年刊よりとある。その下の写真は、大学の授業で使った金谷治訳注『論語』の巻頭写真にある明の時代の孔子像で、従っているのは顔回である。