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2017 毛利庭園を見学したあとボストン美術館至宝展へ、日本美術の逸品やゴッホのルーラン夫妻を鑑賞

2017年09月06日 | よしなしごと

2017.8 六本木ヒルズ&東京都美術館

 東京都美術館で「ボストン美術館の至宝展」が開催されている(2017.7.20~10.9)。ポスターの中央にフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の「ルーラン夫妻」が並んで座り、招いているようだ。
 ボストン美術館は1870年設立で、日本美術の収蔵にも力を入れてきた。さかのぼって、岡倉天心(1863-1913)は日本美術研究家・アーネスト・フェノロサ(1857-1908)の助手を務めて日本美術収集の手伝いをした。フェノロサは1890年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に努めた。日本美術の収集家だったウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926)は岡倉天心と知己で、1890年、ボストン美術館の理事になり、1904年、天心をボストン美術館中国・日本美術部に招いた。天心は、1910年に中国・日本美術部長に就任している。ということで、ボストン美術館における日本美術品は定評がある。
 ポスターには日本美術も載っている。ゴッホと日本美術が期待できそうだ。さいわい、東京都は毎月第3水曜をシルバーデーとしていて、65才以上は無料になる。いつもかなり混雑するし、今日は朝から雨模様で混雑に拍車がかかりそうだが、覚悟して出かけた。

 都美術館に先立ち、六本木ヒルズまで足を伸ばした。六本木ヒルズは遠くから何度も眺めているが、出かけるのは初めてである。朝のモーニングショーの天気予報でときどき毛利庭園が映る。大きな庭園のように見える。さすが毛利家は大きな屋敷だったと思っていた。ところがところが、予想に反して実際はさほど大きくはなかった(写真)。やはりプロのカメラマンは撮影がうまい。
 略史・出来事、1650年、長州藩毛利家の分家の長府藩毛利家の上屋敷がここに建てられた。1702年の赤穂事件では赤穂浪士10名が毛利家預かりとなり、ここで切腹した。陸軍大将となる乃木希典がここで生まれた。明治新政府は長州藩などとともに毛利家上屋敷を没収する。1952年ニッカウィスキーがここを買収、東京工場とする。東映が買収し撮影所となる。1977年テレビ朝日の敷地となり、2003年にいまの六本木ヒルズが竣工する(写真)。
 雨にもかかわらず、夏休みのイベントのためか大勢の子どもたちと付き添いのママやじ~ば~で大賑わいだった。広場や通りには著名なアーチストのストリート・ファニチャーが置かれているらしいが、雨足が速いので次の機会にして、予約しておいた52階のレストランに向かった。150mほどの高みから雨でくすんだ東京の街を見下ろし、ランチを楽しんだ。

 食後、上野の東京都美術館に向かった。「ボストン美術館の至宝展」は予想を超えて長蛇の列だった。30分ほど並び、入場する。
 上野の森は風致地区のため、東京都美術館の入口は地下1階にあり、展示は地下1階、1階、2階と縦に重なっている。地下1階では、1.古代エジプト美術、2.中国美術、3.日本美術、エスカレータで1階に上がり、4.フランス美術、5.アメリカ美術、エスカレータで2階に上がり、6.版画・写真、7.現代美術が展示され、その先に、映像シアター、ミュージアムショップがあり、エスカレータで地下1階まで下りて、出場となる。
 目指すは日本美術とゴッホなので、1.古代エジプト美術、2.中国美術はサーと眺めて通り過ぎた。というか、展示品が小さく、大勢の見学者が展示品を取り巻いていて、後ろからはよく見えなかった。
 3.日本美術室は、英一蝶、蘇我蕭白、酒井抱一、喜多川歌麿、与謝蕪村の屏風、掛け軸などの逸品が飾られていた。英一蝶(1652-1724)の「涅槃図」は高さ4.8mに及ぶ巨大な絵で、釈迦の回りに集まった菩薩や羅漢、その下の動物たちが悲しみの顔に描かれている。あまりにも大勢の見学者で後ろから鑑賞していると下の動物たちが見えなかったほどだ。右上の雲上から釈迦の母・マヤ夫人が見守っている。雲を入れて2つの場面を同時に描くのは日本の伝統的手法であろうか。美人画や掛け軸をゆっくり鑑賞した。
 4.フランス絵画室には、ジャン・フランソワ・ミレー、アルフレッド・シスレー、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール・オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌなどの絵が飾られている。
 「ルーラン夫妻」の2枚は比較的大きく、少し上に飾られていたせいか、じっくり鑑賞できた。
 オランダの牧師の長男として生まれたフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、聖職者を目指す一方、絵画にも親しんだ。1886年弟テオを頼ってパリに出てきて、印象派の影響を受ける。「タンギー爺さん」を描いたのはこのころである。1888年2月、フランス・アルルに移り住み、画家の協同組合をつくろうとした。1888年7月に「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」・・ポスター中央左側、堂々とした郵便配達人が描かれている・・、1888年9月には「夜のカフェテラス」を描いている・・2001.10南フランスの旅で絵のカフェテラス前を歩いた、2001南フランスを行くa176・・。どちらも明るい色調である。
 1888年10月、アルルにポール・ゴーギャン(1848-1903)到着する。ファン・ゴッホはとても喜んだが、やがて性分の不一致が目立ってくる。ゴーギャンはパリに帰ろうと思い始めていたらしい。1888年12月、ファン・ゴッホは発作的に耳たぶを切り落としてしまい、アルル市立病院に収容される・・南フランスの旅で改装された元病院の中庭をのぞいた。2001南フランスを行くa173・・。ポール・ゴーギャン(1848-1903)はパリに戻ってしまう。
 1889年1月に病院を退院し、気持ちが落ち着いたころ、「子守唄・ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人」・・ポスター中央左・・を描く。夫のルーランがしっかりこちらを向いているのに対し、ルーラン夫人の目はうつむいている。赤い床も左より右が下がっている。まだ精神が不安定だったのだろうか?。4月にサン・レミ精神病院に入院する。1889年6月ごろ、S状にうねる「星月夜」、「二本の糸杉」、「オリーブ畑」などを次々と描く。復調したり、病状が再発したりして、1890年5月に転地したが7月に銃で自殺してしまう。
 「ひまわり」は数多く描かれているから、いろいろな美術館、美術展で鑑賞できる。しかし、ボストン美術館所蔵のルーラン夫妻を同時に見ることができるのはまたとない機会である。
 美術は鑑賞者の好みが出るから、すべての作品をじっくり鑑賞したわけではないが、ボストン美術館の底力には驚かされた。ふだん、日本では見ることのできない名品を楽しませてもらった。
 外に出ると雨は上がっていて、上野はどこも混みあっていたので、そのまま帰路についた。

コメント
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