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2017 箱館から密出国して帰国後のちの同志社大を設立した新島襄像→青函連絡船摩周丸へ、かつての感動は?

2017年09月02日 | 旅行

2017.8 北海道 大沼・函館を行く ⑨新島襄ブロンズ像を見て、青函連絡船摩周丸へ、50数年前の感動思い出せず
 
 ・・・2017.8 北海道 大沼・箱館①~⑨フルページ・・・

 基坂を下り、海沿いを赤レンガ倉庫群に向かって歩いて行くと、小舟に乗って海を眺める新島襄ブロンズ像が置かれている(下写真)。
 新島襄(1843-1890)は、早くからアメリカの制度を詳しく知りたいと、アメリカ渡航を密かに画策する。1864年、箱館入りし、ロシア領事館付き司祭ニコライに日本語教えながら密出国の機会を探した。同年、小舟で湾内に停泊していたアメリカ商船ベルリン号にたどり着き、密出国に成功する。上海でワイルド・ローヴァ号に乗り変え、ボストン入りする。ワイルド・ローヴァ号の船長の援助で、アカデミーに入学、洗礼を受け、1867年に卒業する。
 1872年、アメリカ訪問中の岩倉使節団とあい、使節団の通訳として、フランス、ドイツ、スイス、ロシアなどを訪ねる。1875年、宣教師の資格を取得し、帰国する。同年、同志社英学校=のちの同志社大学を創設する。NHK大河ドラマ八重の桜は新島襄の夫人八重の半世紀で、同志社英学校設立の苦労が映像化されている。ブロンズ像は小舟で密出国する時の様子だそうだ(写真)。新島襄たちの未知への挑戦が日本を革新していったといえる。
 赤レンガ倉庫街、ラビスタ函館ベイの横を通ってともえ大橋の側道を進むと、青函連絡船記念館摩周丸が見えてくる(次頁写真)。
 始めて北海道に渡ったのは大学1年、50数年前で、当時は連絡船が唯一の交通手段だった。青森駅に着くと、みんながいっせいに荷物を抱えて小走りしながら船に乗り込んだ。初めてのことなので訳が分からず、つられて小走りになった。少しでもいい席を取ろうと、小走りになったようだ。

 そのころは列車も連絡船も1等、2等、3等に別れていて、2階が3等席のベンチと仕切りのある畳敷きだったように記憶している。初めての連絡線だから、最初はデッキに出て、津軽半島、下北半島を眺めて過ごした。
 津軽海峡に出ると波が高くなる。次々と船酔いの人が船室に降りていった。船酔いの経験も初めてである。たいしたことがなかったが、大事を取って船室におり、畳敷きに雑魚寝で横になった。船が右に揺れると右に転がりそうになり、左に揺れると左に転がる。デッキの方がまだいい、ということで、またデッキに出た。風が気持ちいい。

 函館ぐんぐん近づいてくる。北海道に来た、という感動がわき起こってきた。身体全体がジ~ンとしてくる。若さの特権である。
 およそ4時間の初めての船旅は興奮だらけだった。連絡船は八甲田丸、十和田丸、羊蹄丸、摩周丸などが使われていた。連絡船による渡航は2回、往復あわせて4回乗ったが、船名は覚えていない。摩周丸を眺めていると50数年前の感動が思い出され、懐かしく感じた。

 摩周丸は1965年建造で、定員は1200名、青函連絡船が終了する1988年まで運航を続けた。2階に入場口があるが、階下も2階もふさがれているので、3階に上がった。たぶん1階が貨物と車両のデッキ、2階が3等船室、3階が2等船室だったのではないだろうか。縁のない1等船室はまったく記憶にない。
 3階に上がると、グリーン=2等の椅子席と横になれる3等座席が再現されていた。とってつけたようなしつらえで、昔のイメージがわいてこない。デッキに出て甲板を一周したが、昔の感動を思い出せない。50数年間に体験したさまざまな感動が、青函連絡船の記憶を消してしまったのだろうか。4階にあがり、船橋で操舵のまね事をしたが、何かだいじな物を忘れたが見つけられないような気分が残って、落ち着かない。

 見学を早々に切り上げ摩周丸を後にする。足取りが重い。過ぎてしまった感動への期待が大きすぎたようだ。

 ラビスタ函館ベイに隣り合って街並み景観に調和させたデザインの飲食店がいくつか建っている。その一つが外観を蔵造り風に仕上げたラーメン店で行列ができていた。行列は評判の良さを表している。1時を過ぎていたので回転は速く、じきに塩ラーメンを味わうことができた。

 ラビスタ函館ベイで預けた荷物を受け取った。ホテルの玄関を出たところが、元町ベイエリア周遊号のバス停である。バス停で函館山を見上げる。相変わらず雲をかぶっている。昨日の夜景はよほど運が良かったようだ。もう一度、元町ベイエリアを周遊し、見学地を思い出す。函館駅には2時半過ぎに着いた。夕食用に、新鮮な海の幸がのった海鮮弁当を買った。まだ時間にゆとりがある。駅ビルの2階のカフェに入った。西向きに大きなガラスがはめ込まれていて、函館山が見える。晴れていれば絶景を楽しめそうだ。

 これで函館見学は終了である。箱館から函館への変化は日本の維新の縮図でもあることを再認識した。その背景に高田屋嘉兵衛、ペリー提督、土方歳三、新島襄、司祭ニコライ、金森用物店などの活躍があった。歴史を大きく動かした偉人の回りには名を残さない大勢の奮戦があった。名を残さない大勢の力があればこそ偉人が生まれた、といった方が正しい。大勢の力が偉人を生み、偉人が偉人を引き寄せ、ときに偉人と偉人がぶつかり、歴史が劇的に動く。
 3時半過ぎに快速函館ライナーに乗って新函館北斗駅に向かい、4時過ぎのはやぶさに乗った。青函トンネルに入ってからは注意深く車窓を眺めた。かつての駅は終業しているが、途中の灯りが駅の痕跡かも知れない。海鮮駅弁を味わい、夏子の冒険の続きを読み、うとうとしているうち、8時過ぎ、大宮駅に着いた。旅はいいね。

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