アイリス あいりす 

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「天皇まんざーい」 あめゆきさん 山田わか <3314>追記あり

2016-01-02 12:28:53 | 天皇まんざーい

 http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/singapore/singa2/ameyuki.htm より転載しました   

あめゆきさんの歌

 山田わかの数奇なる生涯

山崎朋子の「サンダカン八番娼館」に続くアメリカに渡った日本人女性娼婦に関する著書

山崎朋子は1975年10月にアメリカに行き、在留邦人向けの講演会の講師をつとめた。 
ホテルの近くの日本料理店でのレセプションで、近くに座ったある老人から 
戦前に女流評論家として活躍した山田わかのことを知っているかと尋ねられた。

女性史研究者を自認する山崎は、とうぜん山田わかのことは知っていて 
山田わかは社会学者山田嘉吉の妻であり、山田わかの著書を4,5冊もっていると答えると 
その老人は、山田わかがサンフランシスコで白人専門に客をとっていた売春婦で 
アラビヤお八重という名であったということを教えてくれた。

驚いた山崎は、山田わかのことを調べて本に書きたいと思い、後日その老人に会いに行く。

この老人は北米毎日新聞社長の清水巌であった。 
彼は山崎が「サンダカン八番娼館」を書いたので、山田わかについて関心をもち 
きっと山田わかの伝記のような本を書くだろうと思ったのだった。

清水巌は、山田わかを知っている人として、 
娼館が軒をつらねたチャイナタウンでホテルを経営していた90歳の北野基次と 
94~95歳の日本料理レストランを経営していた泉イエを紹介してくれる。

アメリカ講演を終えていったん帰国した山崎は、ふたたびアメリカに来たのは 
その年の12月だった。

サンフランシスコ空港には、清水から紹介された川瀬泰一という初老の男が迎えに来ていた。 
そして、その日の朝に北野基次が急死したことを告げられる。 
がっかりした山崎はともかく泉イエに会うが、結局泉イエは山田わかの具体的なことは 
何一つ知らないということがわかる。

山崎朋子が10月の講演を終えて12月に再び渡米するまでの間に日本において 
とりあえず山田わかについて調べる。山田の生まれ故郷の久里浜にも行ってみる。 
また彼女は市川房枝から、山田わかのことを聞く。 
山田わかは過去のことはどこにも書いていないが、一度だけ 
岡崎の宿で一緒に泊まった平塚らいてう(らいちょう)に少し話をしたことがあり 
平塚らいてうから市川房枝が聞いたので、その話を山崎は市川房枝から聞く。

さて、サンフランシスコで、山崎朋子は 
せっかく教えてもらった北野基次は急逝して会えず 
もう一人の泉イエに会うが、泉イエから山田わかの具体的なことは何一つ聞くことはできなかった。

がっかりした山崎朋子は清水に報告すると 
清水は日本人の読みそうな新聞数紙に山田わかのことを知りたいと新聞広告を出す。

広告を見た日本人からホテルに泊まっている山崎のもとに何件かの電話があり 
とうとう、山田わかの過去のことがわかる。

「サンダカン八番娼館」では、天草でからゆきさんのことを地元の人に聞いても 
誰も口をつぐんで教えてくれなかったが、小さな港町の食堂で運良く北川サキに会い 
サキの家について行って、やっと念願の話を聞くことができたのだった。

それにくらべると 
山田わかも彼女を知っている人もほとんど生きていないかったのだが 
彼女のことをまとめた新聞記事があって、それを保管してあるカリフルニアの大学に行って 
コピーをとってからは、比較的容易に伝記を書くことができた。

さすが作家なので 
苦労の末やっと手がかりをつかめたという経過を書いて 
読者の興味をつなぐように上手に書いている。

むかしサンフランシスコで出ていた「アメリカ新聞」の発行者は岡繁樹で 
彼が山田わかの一代記「アラビアお八重出世物語」を書いて載せた。 
「アメリカ新聞」のバックナンバーはカリフォルニア大学の図書館に保管されてあった。

以下に、「アメリカ新聞」の「アラビアお八重出世物語」のコピーをもとに 
山崎朋子がまとめたもののなかから手短に紹介する。

 

山田わかは横浜でだまされて、アメリカの娼館に売られ
シアトルのアロハハウス娼館から、新聞記者立井信三郎の決死的協力で足抜けをする。

立井と山田はポートランド経由でコロンビア川を河口のアストリアまで下り
追っ手の及ぶであろう陸路をさけ、太平洋を南下してサンフランシスコに到達した。

そこで二人は別れることになる。
彼はサンフランシスコの宿屋の世話で、わかをサンフランシスコの娼館に売った。
しばらく稼いでから、資金を貯めて結婚しようというのが彼の考えであったのだろうか。
それはともかく、わかは突然姿を消す。

わかはどこで知ったのか、サンフランシスコの厚生施設キャメロン・ハウスに逃げ込んだ。
わかはキャメロン・ハウスから時々、牧師坂部多三郎の手芸教室に通っていた。
キャメロンハウスに探しに来た立井は彼女に会えず、牧師坂部の所にやっと行ったが会わしてくれず
絶望して毒薬を飲み自殺する。

立井の死後、わかはキャメロン・ハウスのキャメロン女史の指導を受け
キャメロン女史の手伝いをしたり通訳をするようになった。

そのうち学力をつけるため山田英学塾に通うようになり、私塾経営者の山田嘉吉と知り合い結婚したわけである。
山田嘉吉は小学校しか出ていなかったわかの素質を認め、熱心に教育し彼女の天分を引きだしたのであった。 

山田嘉吉はわかの教師であり、父親であり、夫であったと言えよう。

山田嘉吉は、わかに決して過去の話を誰にもしてはいけないと厳命した。
だから、わかは娼婦だった過去のことは何にも書いていない。
わずかに名古屋に講演に行ったあと紡績工場で女工の働く姿を見てから
岡崎の安宿で、一緒に泊まった平塚らいてうに少しだけ話したことがある。
その話が市川房枝を通じて、山崎朋子に伝わったのである。
「アメリカ新聞」の「アラビアお八重出世物語」の最終にあたる第五回目の記事の末尾に 1938.3.20 岡繁樹記と署名があり、後書めいた短文が載っている。  筆者は、此稿を終るに臨んで、山田わか女史に一言のお詫びの挨拶を書かねばならぬ。  現在のあなたの名声と地位に対して、前身を洗ふが如き事は誠に申訳がない。  あなたの事に関して兎に角と考へて居る人達が多いが、それを知る由もないのであった。  もしあなたの死後に間違ふた話が伝へられる事は尚更遺憾ではないか。  筆者は決してあなたに悪意を持ち、あなたを傷つける為めに此一文を書いたのではない。  筆者は、一度行く道を過った人でも本人の考へ方一つで、勇気と決心さえ起せば、  あなたの様にエライ人になれると云う事を教へる為めにおなたを手本としたのである。  同時現在暗黒街に身を落としてゐる人達の為めに反省の機会を与へたい為めである。  此あなたの記事について或は誤聞があるかもしれん、又あなたとしても此記事によって  忘れてゐた昔を偲ばれる事もありはせぬかと思ふ。  もしあなたの為めに訂正の要もあれば、申込んで貰ひたい。  どうぞ、大海の様なあなたの心でこの妄言を許して下さい。

決して過去を語るなと戒めた夫嘉吉は昭和9年に亡くなった。

彼女は主婦の友社の企画で、昭和12年10月から12月まで渡米して 
日米親善のため講演をしたり、大統領夫人をはじめとして米国婦人団体の代表者らと会見・懇談をしている。

特に米国の最後の講演をシアトルで行った。 
おそらく夫が生きていたら実現しなかったアメリカ講演であったろうが 
彼女は平塚らいてうに語ったように、自分は過去のことにはこだわっていなかったようだった。 
シアトルでの講演はやじがあったが、彼女の真面目な講演はやがて聴衆に深い感銘を与え、そのときの感激をある老婦人から山崎朋子は聞いたのだった。

  アジア女性交流史

 山崎朋子の自伝

~~~~~~~~~~

♫ 「天皇のまんざい」は蓄財だけではありませんでした。このようにうら若い日本女子を海外へ売りとばしていたのです。

これが天皇の正体です。

笑顔の正体は、隠しているからだったのです。

ロス茶の血筋の可能性のある、今上天皇なら直の事、この忌まわしい歴史がわかって

くるはずです。日本人は騙されています。明治維新はテロでした。滑稽なことに時代を作ったと、もちあげているのです。明治明治と、バカバカしいですね。

多くの歴史本がありますが、よいしょ本が多い事はなぜなのか、これでわかりますね。

嘘がまかり通る、そういう政治を今もしているのも、同じ田布施Sです。

あめゆきさんのひとりであった、山田わかは、成長著しく悲惨さから抜け出たひとでしたが、多くの人はどうだったのでしょう?

娼婦として立ちいかなくなる年齢まで、働き日本に帰ることもなく、異国の地でみな過去をかくして、生きざるを得なかったはずです。少しでも幸せな人生があったでしょうか?

天皇の蓄財の為に。このようにして女性が売られてきたのは、事実なのです。従軍慰安婦も同じことです。

私達は、歴史の恥部ともいうべきこのことを、決して忘れてはいけないと、思います。

戦争をしたがっているのは、確かに偽物政府のようにしか見えません。しかも笑顔でテレビに映る姿しか私達は知ることがありません。

だからといって、このような真実がなかったこととして、葬りさられていいのでしょうか?

真実を表に出して国民は知るべきです。そして自分の心で感じて、考えるべきです。

日本と言う国の形を、知るべきです。国民の権利です。

 

追記=========

フラッシュバックが起こり、私は過去の思い出を思い出しました。それはとてもショッキングな内容でした。

私が中学生の時に、2度目の母の実家に家族で行った時の事でした。二度目の母の妹の一人であるおばさんと一緒に、近くの河原に出かけました。その時おばさんから聞かされた話です。

「〇ちゃんは、人形の洋服を作ったりしているんだって?服を作りたいと思っているの?」

「洋服を作れるようになりたいと、思っているよ。」

「じゃあ、もしも大きくなって、洋裁をするようになって、外国で洋裁の勉強ができるなら、行きたいと思うの?」

「うーん、まだそこまでは考えたことはないけれども、もしできるなら、そうしたいとも思うよ。」

「実はね、〇ちゃん、おばさんの洋裁教室で一緒だった、知り合いのお姉さんのことだけど、そのお姉さんが、天皇の船でアメリカに洋裁の勉強できるメイドの仕事があるからと、船に乗っていったのよね。行く前におばさんも行きたがっていたので、後で手紙を書くから、それから考えてはどう?と言われてね。それでそのお姉さんは、船でアメリカに行ったんだけど、実はその話、メイドや洋裁の話は嘘で、お姉さんは売られたのよ。売られたって、わかる?女郎屋に売られたの。まだ結婚もしていない生娘だったのよ。そのお姉さんからおばさんに手紙がきて、そう書いてあったの。だからおばさんにも船でアメリカに来てはだめだよ。来ないでと書いてあったの。それにお姉さんは自分の家族には絶対に内緒にしておいて、と書いてあったのよ。わかる?この話?」

「おばさんの話は、わかったよ。悲しい話だよね。」

「そうだよ。だからこのお姉さんのように、〇ちゃんもなってはいけないからね。天皇を信じてはダメ!わかった?」

「わかったよ。」

という話を私はおばさんから、直接聞いたのです。この話はそれ以後おばさんからも、2度目の母の家族からも何も聞いていませんが、これは子供心にとてもショックでした。それで私はおばさんの話てくれたお姉さんの事も考えて、誰にもこの話はしていませんでした。

遠く過ぎ去って、「あめゆきさん」 の事を記事で見たときに、フラッシュバックが起こったのです。フラッシュが沢山見えるなか、画像のページが激しく捲れていき、そのおばさんとの会話した土手に、私とおばさん二人が話している場面にストンと画像が出たのです。これがフラッシュバックなのです。

この話は、私の思い出の中では、とてもショッキングな内容でした。ですから心の中にしまい込んで、誰にも話すことはありませんでした。こうしてそれが今蘇った次第です。

真実を私は知っていましたから、ここに記しておきたいと思います。

多くのお姉さんたちがアメリカに騙されて渡り売られたのです。その人達は普通の女性たちです。夢見てアメリカで働こうとしていた若き女性たちです。その人達の事を少しでもわかってあげたいです。その人達は確かにいたのですから。その後調べて見たら、何万人もの被害者の女性がいたのです。この人達のことをいなかったかのようにしていいのでしょうか?

日本人女性はこういったことは、被害を受けても「家族に迷惑となる」などと思い黙って耐え忍んで生きていたのでしょう。そういう国民性を実は天皇たちはしっていたのでしょう。声を上げる国民性をもたない日本人女性たちを、私は忘れないです。

 


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「天皇まんざーい」 からゆきさん <3313>

2016-01-02 12:14:48 | 天皇まんざーい

https://ja.wikipedia.org/wiki/からゆきさん より転載しました

「からゆきさん」

概要[編集]

からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。代表的な女衒として長崎出身の村岡伊平治がいる。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。

こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍[1]として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。

第二次世界大戦後、からゆきさんの存在は「戦前日本の恥部」として一般に知られることは少なかったが、1972年山崎朋子サンダカン八番娼館』の出版によって広く知られるようになり、以後、からゆきさんについてのルポルタージュや研究書が現れた。

からゆきさんの主な渡航先は、シンガポール中国香港フィリピンボルネオタイインドネシアなどアジア各地である。特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。 また、さらに遠くシベリア満州ハワイ、北米(カリフォルニアなど)、アフリカザンジバルなど)に渡った日本人女性の例もある。

20世紀後半、逆に日本に渡航し、ダンサー歌手ホステスストリッパーなどとして働いた外国人女性は「ジャパゆきさん」と類似した呼称で呼ばれた。

からゆきさんの労働条件[編集]

からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた)。

普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。

現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

関連文献[編集]

脚註[編集]

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  1. ^ その稼ぎが資本となりまたその人数が日本人の進出の手がかりともなって、娘子軍と言われた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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「天皇まんざーい」 天皇の蓄財 6 <3312>

2016-01-02 12:08:53 | 天皇まんざーい

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=304490

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304492 より転載しました

「天皇家のもうけ方 1・2」

(前略)
1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立されました。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていましたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはありませんでした。

そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われる事になりました。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた事は言うまでもありません。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人と言われております。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていたのです。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだわけです。

その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられましたが、大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」されました。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来ました。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者なのです。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁されました。

そして売春を強制されました。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型とも言えるでしょう。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化しました。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設することになりました。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設されたしろものです。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する事に至りました。

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されています。
 

(前略)
戦争中、全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていたのです。

そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していたわけです。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財されたといわれています。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争は天皇の個人的蓄財のために行われていたのです。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っています。(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は、この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始めました。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。

この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していました。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されました。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路アルゼンチン、スイス等に運び出していました。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?ん???

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行くことになります。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンで、そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」であります。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めますが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行でした。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していました。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であったわけです。(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ 及び、濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立さましたが、日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった事は知られていません。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉があります。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言です。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのです。
天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団でしかありません。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

~~~~~~~~~~~~~

♫ 売春婦として日本から海外へ送られた女性、そしてブラジルや中南米へ移住という形をとり、日本人を減らしてきたのが、天皇です。

売春婦として売られることを、知らずに海を渡り、恥ずかしくて声も上げることもできない女性は、闇に埋もれてしまいました。

彼女たちの命と取り換えに大儲けして、そのお金が大企業からの寄付と言う形で、皇居の御殿が建っているのです。

あの御殿は彼女たちの血と涙そのものです。国民は忘れないです。忘れてはならないのです。

 

天皇まんざーい!!!


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「天皇まんざーい」 天皇の蓄財 5 <3311>

2016-01-02 11:54:11 | 天皇まんざーい

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=298765 より転載しました

「天皇の蓄財 天皇家は世界一の大資本家であった」

次の表をご覧ください。

【御資財本現在高】 
慶応3年 102268万円 
明治8年度始 510572円 
明治9年度始 583519円 
明治10年度始 805982円 
明治11年度始 1072663円 
明治12年度始 1085423円 
明治13年度始 1218385円 
明治14年度始 1320173円 
明治15年度始 1442345円 
明治16年度始 1710182円 
明治17年度始 1927665円 
明治17年度末 4374935円 
(日銀・正金株編入) 
明治18年度末 4505967円 
明治年19度末 5157230円 
明治年20度末 7885841円 
(日本郵船株編入) 
明治年21度末 9189268円 
明治年22度末 9747517円 

天皇家は封建時代の末期、慶応三年全資産の現金評価金額がわずか10万2268円でした。
この頃天皇家では、出入りの豆腐屋さんに「今日の支払いはちょっと待って下さい」と言ったことがあるほど貧乏していたという話が、京都には伝わっています。
ところが明治になって、日本が資本主義的発展を始めてからは、表にみられるように、鰻登りに資産が増え続けています。最初の頃は、当時の権力者、伊藤博文たちが、天皇に力をつけて、その力を利用して、日本を資本主義的に発展させようと考え、『金は力なり』と言って、明治維新のときに地方の大名から取り上げた、国の資産を次々に天皇家の資産にした結果のようです。それも憲法が制定され、国会が開設されてからでは、やりにくくなるからと、国会開設以前に駆け込むように行なっています。 
そして日本が、アジアに侵略を開始してからは、雪だるま式に資産を増やして、経済学者の報告では、1917年ロシア革命でロシアの皇帝が倒されてからは、天皇が世界一の大富豪になったとのことです。 
明治天皇は日清戦争に勝って、賠償金から二千万円を手に入れたこと。そして植民地にした台湾の最大の産業、台湾製糖の第二位の株主になって、20年後には100%の配当を手に入れていたことは前にお伝えしました。二度目の侵略戦争の日露戦争後植民地にした朝鮮に、植民地支配の動脈のように施設した、京釜鉄道の上位株主は次のとおりです。

【京釜鉄道上位株主(1903年2月現在)】 
氏名 持ち株数 備考 
日本皇室 5000 
朝鮮皇室 2000 
岩崎久弥 1000 三菱財閥 
三井高保 1000 三井財閥 
渋沢栄一 1000 第一銀行 
大和田荘一 1000 大和田銀行 
朝鮮皇室 1000 
住友吉左衛門 864 住友財閥 
阿部くに 509 明治生命 
阿部長蔵 500 子爵 

また天皇が保有していた主な株は次のとおりです。 

【天皇家の保有株数(1905年)】 
会社名 株数 
日本銀行 65650 
日本興行銀行 5000 
横浜正金銀行 60400 
北海道拓殖銀行 67 
日本鉄道 27422 
北海道鉄道 1000 
岩越鉄道 2000 
京都鉄道 3000 
京釜鉄道 5000 
北海道炭鉱鉄道 27690 
日本汽船 80550 
湘南汽船 4400 
帝国ホテル 4400 
合計 286329 

【天皇家の保有株数(1942年)】 
会社名 株数 
日本銀行 211528 
日本興行銀行 22725 
横浜正金銀行 224912 
北海道拓殖銀行 3000 
日本勧業銀行 12750 
第十五銀行 3055 
第一銀行 5000 
三井銀行 4500 
三菱銀行 4500 
住友銀行 3000 
三菱信託 5000 
北海道炭鉱鉄道 159776 
日本汽船 161000 
大阪商船 12825 
台湾銀行 15132 
朝鮮銀行 2600 
南満州鉄道 37500 
東洋拓殖 50000 
台湾製糖 39600 
東京電気 23842 
東京瓦斯 62068 
帝国ホテル 14700 
合計 993103 

天皇が大量の株を保有していた企業は、ほとんど日本が行なう侵略戦争に関わっている企業や戦争の結果獲得した植民地支配関連企業です。
つまり天皇は、日本が侵略戦争をして、植民地を拡大すれば着実に巨大な利益が得られる仕組みになっていました。 
その挙句の果てが次に紹介する、1945年日本敗戦時に米軍が調査して発表した数字です。日本の国土面積の10%を天皇家が所有していました。経済学者の試算によると天皇家の全財産の現金評価額は、当時のお金で660億円だったそうです。

【1945年当時の皇室財産資産】 
種別 数量 評価額 備考 
土地 1352210町歩 362293953円 平均1反歩26円70銭に当たる 
木材 561519千石 592865000円 1石につき約1円に当たる 
建物 約150000坪 299296657円 坪当たり約2000円 
現金    24788387円    
有価証券   311871503円 購入及び出資金額による 
合計    1590615599円    

天皇家の資産は、戦後、GHQによって財産税33億4268万円が課税され、そのほとんどは物納されたそうです。 その後、天皇家に残された金融資産は1500万円。この1500万円が、昭和天皇が亡くなった時には、20億円にも膨らんでいました。
天皇家に経済顧問として投資のアドバイスをしていたのは、元経団連会長の石坂泰三氏や元三菱銀行頭取の加藤武男氏、元日銀総裁の森永貞一氏だったそうです。

~~~~~~~~~~

♫ 投資の顧問として経団連会長、三菱B 日銀総裁が、相談をうけて投資をしているのですから。絶対に損はないですね。これって、インサイダーではないですか?

天皇だけ、インサイダーが出来るって、いう事ですよね。

天皇まんざーい!!!


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「天皇 まんざーい」 天皇の蓄財 4 <3310>

2016-01-02 11:40:24 | 天皇まんざーい

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828 より転載しました

(♫ この記事のみ、再投稿しました)

天皇の蓄財 4

引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。

さて、私はこの項を書くためにたくさんの本を読んできた。私はポール・マニングの『米従軍記者が見た昭和天皇』を読んでいる。興味ある読者は是非読んでほしい。もう一度、この本から引用する。今までの私の推理を裏付けてくれそうである。

「1944年1月、昭和天皇参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室財政顧問でもある主要銀行経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイス銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行スイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資ドイツの信用を付け、天皇流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタントルコスペインポルトガルスウェーデン朝鮮香港満州フランスドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイス銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。

占領期間中、日本銀行横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」

私が書いた赤十字天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。

日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。

もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。

赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」

ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。

「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチス資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。

スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイス銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチス日本戦争中も取引を続けた。では引用する。

BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドンブリュッセルローマ日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンストウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツ連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行イングランド銀行フランス銀行ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」

ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、天皇スイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。

<中略>

日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

皇室は蓄えた資産モルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイスバチカンスウェーデン銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチス資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチス戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室バチカンフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産戦後日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産戦後日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。

マーク・ゲインの『ニッポン日記』には天皇財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本に書かれたことが、再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇埼玉行幸を描いている。

天皇はただ一人で晝食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女等は恥ずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」‐最低就労年齢-で、一日九時間半働き、一日三円ないし五円

支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主を見ようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は一日九時間半働いて一日三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで終戦直後の天皇家財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」

この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。


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「天皇まんざーい」 天皇の蓄財 3 <3309>

2016-01-02 11:36:16 | 天皇まんざーい

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060827 より転載しました

天皇の蓄財 3

引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。

1947年1月21日、米国統合参謀本部GHQに、「日本国の賠償金の原資を確保せよ」との命令とともにひとつの文書を送付した。

皇族あるいは、彼または彼女の資産の受取人名義人は、事実上国会の管轄外に置かれてきた。このため当委員会は、降伏時における、皇室宮内省、および全皇族ならびにその名義人の比較的価値のない純粋な物品または骨董品を除く所有財産すべての品目の詳細且つ完全な目録(売却方法を含めて)の入手を望むものである。」

さて、私は日本郵船については書いた。大阪商船の株も皇室は持っていた。この二社の船が、天皇が「火事場泥棒方式」で侵略していった地域へ、物資、機械、人間を運ぶのに使われた。三菱三井のみならず、住友以下の財閥とも皇室は深く結ばれていた。

また、皇室銀行支配も徹底していた。皇室日本銀行の47%の株を持っていた。紙幣を発行するたびに、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた。

日銀の他に注目しなければならないのが、横浜正金銀行である。「皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出された」とベアが書いているのは厳然たる事実である。

ポール・マニングは、『米従軍記者が見た昭和天皇』の中で次のように書いている。

昭和天皇ヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」

2001年8月13日、共同通信社はスイス政府スイス赤十字委員会(ICRC)の1945年8月、終戦直前の公文書報道した。その内容を記すことにする。簡単にわかりやすく解説する。

終戦直前の8月、昭和天皇の皇后(良子)の名で一千万スイス・フラン(当時と現在のスイス・フランの購買力を単純に比較しても約33億円)の巨額な寄付をするとスイス赤十字国際委員会(ICRA)に提示した。これに対し、連合国である対日政策決定機関の極東委員会が、この寄付申し込みを受け入れるなと赤十字に通達を出した。しかし、赤十字はこの極東委員会の提案を覆し、1949年5月に秘密裡に送金を受け入れた。この寄付横浜正金銀行スイス国立銀行に保有していた「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。皇室スイス国立銀行に秘密口座を持っていたし、現在も持っている。どうして天皇が自分の名前でなく皇后名で横浜正金銀行からスイスに送金したかは不明である。

しかし、推測してみよう。2001年の評価額で約33億円の金を赤十字寄付するということは、赤十字と何らかの秘密取引をしたとしか考えられない。寄付の数十倍ないし数百倍の秘密預金を、赤十字の名前を借りるか、その力添えでスイス国立銀行の秘密口座に入れたということであろう。

終戦直前の8月7日、東郷茂徳(当時外相)が、赤十字の駐日代表に皇后名で一千万スイス・フランの寄付を申し入れた。赤十字は応じた。しかし、スイス政府は8月16日に英米などとの合意に基づき、日本資産を凍結した。

1949年赤十字が英米による圧力下の日本資産凍結の圧力を覆し、一千万スイス・フランの寄付を正式に認めたということは、横浜正金銀行天皇の「秘密口座」の資金の凍結を解除するための努力の見返りであったといえよう。正確な金額は把握できていない。前述のマニングは昭和天皇の秘密資産の一部について次のように書いている。

天皇ハイテク電子工業とホテルへの適切な投資で得た推定五千万ドルを公認の手持ち資金として個人的に東京で貯蓄することができた。この投資を可能にしたのが、スイスにある推定30億ドルの秘密資産である。この秘密資産の一部をさまざまな一流企業融資した天皇は、投資の機会を得て、かなりの額の利益を得たのである。」

<中略>

天皇は(表面的には皇后名であるが)、執拗にこの寄付に力をそそいだものと思われる。この紛争は1946年6月、極東委員会と連合国軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会はこの年の10月、「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定した。マッカーサーの決定ですべてが終わったかにみえた。しかし、赤十字アメリカ弁護士を雇い、マッカーサーに脅しをかけた。マッカーサーは解任の動きを知る。この問題がからんでいると私は推測する。しかし、今のところ確証はない。

そしてついに極東委員会も、この問題に反対し続けた英国政府も、赤十字の工作に敗北宣言を出した。

<中略>

赤十字は私たちが考えるようなナイチンゲールの世界ではない。国際金融資本、特にユダヤ資本と深く結びついている。彼らは朝鮮戦争を仕掛けるために、天皇が必要だったのではないのか。天皇は彼らの要望に応えると約束したために、秘密資金の凍結を解除されたと推定しても、そう間違った推測とはならないであろう。

 

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「天皇まんざーい」 天皇の蓄財 2 <3308>

2016-01-02 11:32:26 | 天皇まんざーい

 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060826 より転載しました

天皇の蓄財2

引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。

天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。このうちの二千万円が皇室の財宝となった。天皇家はこの戦争で味をしめた。

1945年8月、敗戦となった。「降伏後における米国の初期の対日方針」の中で、「皇室財産は占領目的の達成に必要なる如何なる措置においても免除せられることなかるべし」と明記されている。

戦後の10月22日、宮内省はGHQにより、四十数項目にわたる報告書を要求された。11月18日、GHQから覚書「皇室財産に関すること」が出た。GHQ生活費を除くすべての皇室財産を凍結するとの指令を出した。

この年、GHQの財務調査官たちは、昭和天皇の個人資産を1億ドル以上と査定した。財務調査官たちは「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を作成し、マッカーサーの承認を得た。皇室財産も課税計画から除外されないとした。

それでは、1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。

「土地・建物・木材・現金・有価証券美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」

当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。皇室財産は、GHQの公表分であるが日本財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。

さて、この皇室財産はその90%が旧憲法のもとで無償没収され、残りの10%は憲法88条の規定により国に属することになった。日本戦後史を書く学者のほとんどは、皇室財産には触れることがない。井上清がこの程度触れただけである。

では、マーク・ゲインの『ニッポン日記』を見ることにしよう。マーク・ゲインは戦後日本にやってきた記者の一人である。

「ある総司令部の専門家が言った。『天皇財産は5億ドルから10億ドルの間だろう。このひらきは、我々の到着直前に彼の財産がどれだけ隠匿されたかという我々の知らない、また多分将来も知り得ない事実によって生じるものである」

この、「多分将来も知り得ない事実」について、エドワード・ベアは『裕仁天皇』の中で次のように書いている。

皇室はこれらの資産の大半を失ったが、SCAPの厳しい監査の目をのがれて、残された資産もいくらかあったようである。敗戦の濃くなった1943年、44年、専門家の助言に従って、海外の仲介人を通じ、日独伊枢軸国に好意的だったスイスアルゼンチンのようなラテンアメリカ諸国の銀行資産を移されたとも言われる。1948年7月19日付のSCAPの報告書には、『日本の公的、私的財産は共にSCAPの十分監視の行き届かないラテンアメリカ諸国に流出した』とある。」

あるASADの専門家は、戦時中に総額4100ポンド皇室財産が大部分、横浜正金銀行を通じて海外に運び出されたと見ている。そのうち、スイスに流れたのは850万ポンドラテンアメリカに流れたのは1004万ポンドであった。こうした不明な財産の回収作業を行われないまま、1951年に占領が終結した。

マッカーサーに関する限り、彼は全般にわたって、天皇の海外資産の調査に明らかに弱腰の態度を見せていた。(略)

敗戦直後に宮内省がGHQに報告した皇室財産の総額は約16億円。皇居御所などの建物のほかに、山林面積は群馬県栃木県の二県の合計に等しく、農地は奈良県の全耕地面積に匹敵するといわれた。この報告書を見たGHQの係官は、皇室は金銭ギャングの最たるものだと言ったという。」

天皇財産はどこへ消えたのか。謎は残る。

 

 

 


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「天皇 まんざーい」 天皇の蓄財 1 <3307>

2016-01-02 11:26:59 | 天皇まんざーい

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825より転載しました

天皇の蓄財 1

『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

日本商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路1899年にはヨーロッパアメリカオーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主天皇家三菱財閥であった。アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。娼婦を送り出す船会社が、天皇家三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。

<中略>

至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。

<中略>

日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民アメリカにいた。

1901年共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。

<中略>

片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本密入国しようとする中国人が、中国マフィア蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨークロンドンモスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

同じ手口を皇室三菱は考えた。ペルシャイラン)からアヘンの輸入であった。皇室三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。

天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室財産の形成に大きく貢献した。阿片政策はこの辺にしたい。

多くの軍人たちが、三菱三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。

「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」

 


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【簡単花生活】シクラメンの育て方3(ぐったりしてしまったら・1) <3306>

2016-01-02 09:10:33 | 日記

【簡単花生活】シクラメンの育て方3(ぐったりしてしまったら・1)

 

♫ 今年はシクラメンは買いませんでしたが、この動画のやり方はびっくりです。

シクラメンがぐったりしてしまった経験は私にもあります。同じようになってしまった方もいるのではないでしょうか?

いろんな方法を知っている人がいるのです。本当に目から鱗がとれました。笑。

【簡単花生活】シクラメンの育て方4(ぐったりしてしまったら・2)

 

【簡単花生活】シクラメンの育て方5 3・4の方法でこうなります


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プーチン ロシアを経由するトルコ物資をコントロールする大統領令<3305>

2016-01-02 08:00:52 | 社会問題 日々雑感

スプートニク日本より転載しました 2016年01月02日 00:35

プーチン大統領は、「ロシア連邦の経済的安全と国益を保障する措置」に関する大統領令に署名した。この措置は、ウクライナからロシア連邦領内を経由してカザフスタンに物資が送られる際に講じられる。

 

この大統領令は、2016年元旦から、ウクライナとの自由貿易ゾーンに関する条約の効力が一時停止されることから、署名されたものだ。

新たな措置によれば、トラック運転手が会計書類を持ち、貨物室を封印していることを条件に、ベラルーシからの貨物に限って、トランジット輸送が可能になる。

 
モスクワで、昨年トラックの運転手によるデモがあったそうですが、高速道路の料金が高騰して、それに抗議するデモでした。しかしプーチン批判はなく、その企業への批判にとどまっていたそうです。ここでも、プーチンの国内での信頼は厚いものがあると思います。
 
プーチンの支持率は85パーセントから、90%近くに、上がっているそうです。

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