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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ジョヴァンニ・フスコ/太陽はひとりぼっち

2009年11月11日 22時06分20秒 | サウンドトラック
 私が映画に耽溺して30年近くも前の80年代初頭頃、フェリーニやベルイマンなどと並んで芸術的評価の高かったイタリアの映画監督である。思い返すと、当時の日本でヨーロッパの映画監督といえば、ヌーヴェル・ヴァーグ系の監督の先鋭的な作品は一段落つき、ゴダール、トリュフォー、シャブロルといった新鋭たちは、そろそろベテランになろうかというある種の分岐点にさしかかっていた。また、フェリーニやベルイマンといった問答無用の巨匠レベルのまだまだ元気に活躍、ヴィスコンティは亡くなったばかりだったが、晩年に彼が手がけた作品はどれもほとんど最高の評価を得ていた。当時映画に熱狂していた私は、様々な映画の関する本を乱読したが、映画史的な本をひもとくとこれら巨匠たちと並び称され、いや、それ以上に高い評価を得ていたのが、ミケランジェロ・アントニオーニというイタリアの監督なのであった。

 彼が60年代に監督した「情事」、「夜」、「太陽はひとりぼっち」、「赤い砂漠」、「欲望」、「砂丘」といった作品は、どれも公開時にほとんど最高の評価を得て、芸術性も高く、しかも客を呼べる監督(だったのだろう)として、一般ににも知られており、そうした知名度、評価が80年代初頭の頃はまだまだ残っていた。ところが、当時、まだレンタル・ビデオなどはまだなく、これらの映画のうち、「欲望」くらいしか私は観ることができなかった。ヴィスコンティやベルイマン、フェリーニなどはまだ新作に併せて旧作がリバイバルされることもあったが、ことに映画にに残る画期的な作品として有名で、かつモニカ・ビッティのアンニュイな美しさが映えたらしい「情事」や「夜」といった作品は、喉から手が出るほどに観たい作品だったが、そのような機会はついぞ訪れなかったのだ....と、なんだかいきなり、話が脱線しているが(笑)、このアルバムは全盛期のアントニオー二作品である「情事」、「太陽はひとりぼっち」、「赤い砂漠」のサントラから構成されたオムニバスである。

 音楽は三作ともにジョバンニ・フスコ、全盛期のアントニオー二の作品のかなり部分を手がけている、いわばアントニオー二の音楽面での片腕だ。さて、とりあえず今夜はアラン・ドロンとモニカ・ビッティという当時の大スターの共演で、日本でもその主題曲が大ヒットした「太陽はひとりぼっち」のパートを聴いてみた。収録曲はたった4曲だが、この主題曲は強力だ。なにしろこの私ですら覚えているくらいだから当時よほどヒットしたのだろう、またヨーロッパ系のサントラ名曲集みたいなアルバムには大抵収録されているから問答無用の名曲といってもいい。主題曲「ツイスト」ははねるツイストのリズムにのって、哀愁のメロディをサックスが奏でるもので、いかにも日本人が好みそうな曲でもある(大貫妙子の「A Slice Of Life」に入っている「もう一度トゥイスト」という私の大好きな曲はおそらくこれのオマージェだ)。哀愁のメロディというのはイタリアによくあるが、それをツイストのリズムでやったところが斬新で、60年代初頭のヨーロッパ独特の雰囲気が伝わってくるようでなんとも魅力的だ。

 まったりとしたリズムにのって、物憂げなアルトサックスがテーマを奏でる2曲目「スロウ」、今時なサントラ・ファンなら喜びそうな、おしゃれなラウンジ・ジャズ風の3曲目「パッセジャータ」は、ほとんどメインタイトルとは異質な音楽だが、映画どうん風に両者は使い分けられていたのだろう?。また4曲目の「ツイスト(ヴァリエーション)」は、おそらくこの映画に充満していたであろう、「魂の孤独」だの「愛の不毛」(どちらもアントニオー二の映画を形容するのに当時流行ったフレーズね)的なムードをいやおうなく想像させる、高度成長期の歪みからうまれた都会に住む人の虚脱感....みたいな60年代前半の時代的雰囲気を甦るような印象的な作品になっている。これはなかなか魅力的だ。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第3番/バリリ四重奏団、デムス

2009年11月11日 00時20分22秒 | ブラームス
 第三番の方はようやく体に馴染んできたという感じ。というか、聴く度に「あぁ、これは名曲だなぁ」と思えるようになってきたところだ。ピアノの和音によるドラマチックな開巻から、暗明を往復しつつ、次第に気分を高揚させながら曲を進行させ行く第一楽章の壮麗さ。第二楽章の緊密に構成されたスケルツォの充実感と不気味な勢い。それと鋭く対照する第三楽章の安らぎ切った雰囲気。最終楽章の逡巡しながらも暗から明を目指す葛藤のようなものを表現した切実感と....。少なくとも、聴くべきところがふんだんに用意された作品であることは、聴けば聴くほどにそれを発見できる曲ということが分かってきたというところである。

 バリリ四重奏団の演奏は、さすがにこういう曲では、さすがに時代というべきなのか、この曲をベートーベン流に深刻な曲として解釈しているのか、随所にシリアスな表情を随所に見せている感じだ。第一楽章も第一主題はぐいぐいと進み、やや明るい第二主題ではぐっとテンポほ落として曲の振幅をはっきりと隈取っているあたりは、先の2番でもそういうところはあったけれど、この楽章の持つドラマチックさをより強調していると思う。こうした明暗をくっきり対照させて曲の振幅を増大させていくようなやり方は、第二楽章や最終楽章でもいえることで、おそらく50年代だと、そういうロマン派時代の演奏の名残りのような解釈は、-特にウィーンのような保守的な地域では-まだまだ残っていたのだろうと思う(なにしろまだフルトヴェングラーもワルターも生きていた時代だからな)。もっとも、第三楽章はその鄙びた雰囲気、エレガントな風情はさすがで、なんともいえない雰囲気がある演奏なのだけれど、意外にもテンポはけっこう早めで、実は割とすっきりと演奏しているが意外な点でもある。

 あとこれは、第一番のところにも書いたけれど、この演奏はやはりその出来や仕上がり以前に、そのあまりに乾いて潤いのない録音がやはりちとひっかかる。いくらなんでもこんなにマイクを近づけることはなかのではないか。なにせ時代はSP、しかも製作がアメリカ陣ということあって、こういう音になるのは必然だったかもしれないが、ファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンやボザール・トリオの完備した録音と聞き比べてしまうと、やはりその点では大分損をしていると思ってしまう。これがもうすこし残響をとりいれ、しかもステレオ録音だったりしたら、どんなに聴き映えがしただろうとつい感じてしまうのだ。
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