と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

最後は、背中を見せて去ってきた。 サヨナラだけが人生だなぁ。とーまくんカムバックとは言われなかったけど(^0^)

2019年03月05日 18時47分08秒 | とーま君の流儀2019

だんだんと枯れてきたというのが実感である。

マヌ法典というのがあるが、あれはなかなか良い。枯れてきたという実感は、この古典の中にある「林住期」に相当すると思うからである。森林に隠棲して修行する時期とも言われているからだ。

もう仕事をする時期では無いからだ。妻子を持って、仕事をして、バリバリ働くと言う時期は、「家住期」というそうな。定年でこの段階は終わったのだが。

家住期の前が、「学生期」である。学ぶ時期である。

時間差で並べると、「学生期」「家住期」「林住期」となる。ボキは、この三段階を経験してきた。最後の「遊行期」は実現できない気もしているが。


今日は、千葉市のバイトで「学生期」を終えて、それぞれの人生にスタートした若い方々を送ってきた。バイトだから、隅っこで拍手をしていただけである。幸多かれと思っていた。半年しかふれあいのなかった若い人たちであった。しかし、思い出は多い。ふれあいが多かったからである。動画まで使ったボキのつたない授業に喜んでくれた。こんなに反応が良いとは思ってもみなかった。まるで孫のようだった。

答辞に涙してきた。

いつまでもこういう体験は琴線にふれるというか、感動するというか、良いモンである。

ひたすら上を向いて、涙が落ちてくるのをこらえていた。

昼食が出るというのはわかっていた。しかし、ボキはいただかなかった。それに、身辺整理もしていた。机を片づけて、クルマに積んでいたからである。3月で去らねばならないからである。

それに、メシを食いたくてバイト先に来たのでは無かったからである。

さりげなく去って行きたかった。

シェーンのように。

しかし、職員室を出て二階に来たときに卒業生に見つかってしまった。追っかけてきた。女子だけで7人はいた。ジジイジジイと言ってである。バッグを三つも持っていたんで、察したらしい。もう来ないの?と聞いてきた。うん、と答えた。ちょっぴり寂しかった。

わはははっはははっははっはははっははっはははっははははっはは。

でも、涙が出るほどうれしかったよん。

7人の乙女たちに取り囲まれて写メを撮られてしまった。

最後の最後。

シアワセにねぇと言って別れた。

その中に、4月からボキのもう一つのバイト先である某大学に入ってくる生徒もいた。大学でよろしくと言われた。ありがたいもんである。もし、ある特定の資格をとるならば、ボキの授業は必須になるからだ。

シアワセに。。

最後は、背中を見せて去ってきた。

サヨナラだけが人生だなぁ。

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人生のリセット、再スタート。それはいつまでも続くのだろうけれど。

2019年03月05日 14時51分43秒 | とーま君の流儀2019

欲望のまにまに生きているのが人間というものなのだろうか。

ボキだって他人のことを批判できるような聖人君子では無い。無いが、あまりにも社会常識を逸脱している輩には、あきれてしまう。自分がなにをしたいのかということが、明確では無いからだ。オメェはなにをしたいのかと聞いても答えられないのがいるからである。

メチャクチャな人生を送っても仕方ないのであろうか。情けないと思っても、愛欲まみれの人生を送ってしまうのも人生なのか。

だからこそ、そこに宗教が関連する。現実のオノレを見つめて、がっかりするからだ。ある意味、がっかりすることが人生のリセットになるからだ。オノレはどういう人間なのか、悪行三昧で良いのかと思うことが人生の再スタートでもある。

「愛欲の精神史」という本を読んでいた。大ファンの山折哲雄先生である。まだ途中なので感想は書かない。しかし、我々はまさに愛欲まみれで生きてきたのではないのか。

計算もなにもできないから、愛欲まみれになってしまう。浮気、不倫、道ならぬ恋とかは、まさに文学が担ってきたものでもある。

とりわけ、「源氏物語」なんてぇものはそのチャンピオンでもある。しかし、あれは苦学をしていたボキにとっては何の価値も無かった。一番最初の大学学部でゼミにも所属していた。高校までは、あの雅な世界は憧れであったから。

しかし、いざ苦学生活を始めたら、そんなもんは吹っ飛んでしまった。社会は甘くなかったからである。なにしろ新聞を配らないとメシが食えない。学部への通学もできない。ゼミにも行けない。

そこから自分を見つめる作業が始まった。それでドストエフスキーに魅了されたのであった。世界は苦であるとしみじみ思ったからだ。ドストエフスキーは、まさにボキにとっては救済の文学であった。すくなくとも愛欲まみれの世界ではない。

さりとて、愛欲を捨てることもできない。禅では無を説くが、無になることはできない。不可能である。悟りは、ボキにはまったく無縁の世界であるし。

生きているから愛欲まみれの人生を送ってしまうのだろうか。生きているからこそ可能なことなのであろうか。

批判することはたやすい。

ヒトはいつでも、オノレを正当化できるからである。他人はダメで、オノレは優秀。オノレ以外は全部否定。そういうのが多い世界で生きてきたからだ。現役の時の仕事もそう。退職後の世界も研究のまねごとをしていたから、そういう世界であった。

こころ休まることがなかった。

だからこそ、西行や良寛のような生き方に憧れているのである。芭蕉もそうだ。一遍や空也もそうだ。特に一遍。捨て聖である。なんでも捨てることができただろうかという疑問も実はあるのだが。

尾畠春夫氏が登場してきてから、この方の歩き聖のような生き方にかなり影響されている。

人生に安易な生き方というのはないのかも知れない。

しかし、リセットはできる。

人生の再スタートである。

前だけを見て生きていくしかないのかも知れない。

人生はそれの連続であろうから。そしてそれはいつまでも続くのであろうから。

捨て聖のように。


今日は、これから千葉市でのバイト。卒業式。ボキのようなもんでも、参列してよいと言われたので行ってくる。授業では無いので、手当はでない。それでも良し。

人生のスタートを切る若人たちを見送りたい。

人生に幸あれと願うだけである。


BYE-BYE


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3月4日(月)のつぶやき

2019年03月05日 06時29分00秒 | とーま君の流儀2019
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/