と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

原稿です

2009年02月28日 09時48分39秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 卒業式当日は、卒業生の顔を見ながらやってしまいましたので、かなり変更している部分があります。
 
 つまり元原稿です。

 精一杯のはなむけのことばでした。

 幸、多かれと祈るばかりであります。




 式辞(抜粋)

 春と呼ぶにはまだ早く、時折は寒さを感じる朝、多くのご来賓と保護者の方々をお迎えし、ここに千葉県立銚子高等学校第五十五回卒業証書授与式を挙行することができ大変喜ばしく感じております。またその喜びを一五〇名の卒業生の皆さんと共に分かち合いたいと思います。
 来賓の皆様にはご多忙な中にもかかわらずご臨席をたまわり有り難うございます。また保護者の方々にはお子様のご卒業おめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。

 特筆すべきことは、十二カ年皆勤という卒業生が二人おられるということであります。保護者の方の家庭教育のすばらしさと申すことができましょう。

 卒業生の皆さんは、青春の貴重な一時期をこの県立銚子高校で過ごされました。この間に見違えるほど心身共に成長され、立派な人間となって本日、晴れの卒業式を迎えることになりました。本当におめでとうございます。

 振り返って考えてみると皆さんは先生方の指導の下、よく学び、よく鍛え、さまざまな体験を経てきたことであろうと思います。そして、今、ある者はすでに大学や短期大学、専門学校等の合格を勝ち取り、また多くの者は進路を自ら選びとり、今日の卒業式に臨んでいることだと思います。

 皆さんは今日の卒業式を境にして、いよいよ、大海原に乗り出すのであります。今日まではある意味では来るべき未来に対する備えの時期でありました。皆さんを指導してきた全教職員並びに三学年の先生方は皆さんに十分な備えをなして、この銚子の地から大海に送り出そうとしているのです。

 さて、昨年は、「原油高騰止まらず」と新聞各紙に報道されましたように、世界は今、解決困難な課題に直面しています。
 今こそ、わたくしたちは物質経済の基盤の弱さを自覚し、生き方を真摯に改める時期に来ていると強く感じるのであります。湯水のように石油製品を使い、贅沢をしていた時代は過ぎ去ったと感じるのであります。
 
 物質から精神性への移行を推進して行くべき時期にきたのではないかと思います。そして、こういう時期にこそ求められるのが、心身の美しさであります。表面的ではない美しさというものは、マナーと言い換えてもいいと言われています。マナーは美しさなのであります。こころの占める部分が大変に大きいのです。

 たとえば、箸の持ち方でも、箸は三手で取れと言われています。
右手、左手、また右手ととるのが作法であります。

 また、他人の家に訪問したときには、応接間に通されたらいきなり自分から座るのは大変失礼になります。なんのために、壁に絵などが飾ってあるかということを考えていただきたいと思います。訪問先の方がどうぞとおすすめするまで立っているのがマナーなのです。

 そういうなにげないことを、なにげなく出来るようになることが、美しさであります。美しいということは、マナーで言えば「厳しい」という意味でもあります。自己に厳しくありたいものです。昔は厳しいの「巌」という字を「うつくし」と読みました。意味は過不足がないということです。

 心身ともに過不足のない生き方をしていただきたいと思います。特に心の面ではこれからもまだまだ修養すべきことは多くなります。身体の面でも、食生活に十分気をつけ、健康でありたい、あっていただきたいと思うばかりであります。

 心を磨くという点では、特に修養になる書籍を読んでいただきたい。学校の勉強とはまた違った分野での体験になると思います。これからは、女性としての生き方を確立し、考え方や感じ方を磨き、立派な社会人としての自律的な生き方を願うからであります。

 マナーと自己の心身を鍛えるということが、日本のよりよき伝統を継承し、またあなたがた一人一人の幸せにもなります。
 
 どうかこれまで保護者の方々から受け継いだ暖かい人間性で価値ある人生を歩んでいただきたいと願っています。

 皆さんは在学中に多くの知識を身につけ、さまざまな体験をしたことと思います。しかし、その中で最も大切なことは「謙譲」であると私は考えています。そのことに裏打ちされた知識でなければ何の意味があるでしょうか。現代は急激に科学技術が進歩していますが「畏れる」事を知らない科学技術、「敬愛」することを知らない科学技術であってはならないと思っています。自分の利益ばかり追求している国や組織、人間は環境問題まで引き起こしてしまいます。すべての文化文明は、他の者の幸福のためにあるべきであります。
 
 自分勝手で他人への配慮を知らない傲慢不遜な組織や人間は、どこかで補償が待っています。そのままにはしてくれないのが、原理原則であります。
 
 自分の幸福、自分の都合ばかりで生きていけるほど世の中は甘くはありません。他人のために出来ることを精一杯やることができる人間になっていただきたいと願うばかりであります。自他共栄。自分も他人も共に栄えることになんの異存がありましょうか。 

 卒業後、皆さんは順風満帆の人生を送ることでしょう。いや、送っていただきたいと強く願うばかりであります。
 しかしそのような中でも道に迷ったり、悩んだり、苦しんだりすることが必ず出てきます。その時にはぜひ県立銚子高校で学んだ数々のことを思い出していただきたいと思います。友人たちと語りああったこと、先生方とのふれあいを。
 校歌にもすばらしいこころ洗われるような言葉があります。

 希望にゆれる十八の冬
 たとえ遠く離れていても ずっと友達でいたい
 自分の生きる道を 自分で歩くために

 この校歌の意味するところを忘れないでください。

 最後にわたくしは「夜と霧」で著名なフランクルがその著書の中で紹介している箴言を皆さんに贈って餞の言葉としたいと思います。

もし私がそれをしなければ、だれがそれをするだろうか
しかし、もし私が自分のためだけにそれをするなら、
私は何であろうか。
そしてもし私が今しなければ、いつするのだろうか。

 以上をもちまして卒業式の式辞といたします。




平成二十一年三月六日
  
千葉県立銚子高等学校長 外山 日出男
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ごくろうさまでした

2009年02月27日 22時32分48秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 受験生のみなさん、ごくろうさまでした。

 そして本校を受験していただいて本当に感謝いたします。

 今日は寒い一日となりました。
 銚子は暖かいところですので、これで雪でも降ったら全国えらいことになると心配しておりました。
 どうにか何事もなく試験も終了させていただきました。

 二日間のことについては中学校の校長先生宛にお手紙を出してあります。
 無事に終了させていただいたという報告です。
 むろん感謝の意味も込めてあります。
 中学校の支えがあってこその高等学校ですから。 
 
 ☆

 さて、年度末を迎えて猛烈に忙しくなる時期です。
 このブログも出来るだけ更新したいと思っています。
 さらに学校新聞も発行しなくてはなりません。
 校長室通信も発行していますので、安穏としている時間がありません。
 来年度の構想もあります。
 しかし、基本的に自分は大変だとか、忙しいと自分から言うのは避けて来ましたから、受け止め方次第だとは思っております。
 
 心を尽くすという意味での孟子の言葉があります。「尽心」と言ったでしょうか。
 人が本来もっている特性を十分にみがき育てることです。武道に関わる方がよくこれを言われます。
 わたくしも基本的に賛成しています。
 まったくこれができないと、社会的に生きにくい存在になるのではないかとすら思うのです。
 
 これから県銚で、尽心のこつを学んでいただきたいと思うわけです。

 なかなか困難なことではありますが。

 ごきげんよう。
 
 
 
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ディスクロージャー

2009年02月25日 01時23分41秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 昨日の記事でディスクロージャーとか、たどたどしいなまりの強い英単語しか発音できないのに、知ったかぶりをして書かせていただきました。知人に、なんのことだ?と聞かれましたのでもう一度。

 簡単に言えば情報の開示です。(広辞苑)
 学校がもっとも求められていることです。
 
 わたくしはそこのところに新しい価値を見つけたいと思っておりました。
 中学校の方々に信頼を獲得するということ、むしろそれは義務なのですが、そういう展開を考えて参りました。そこにこそ、この手法の価値があると思っております。

 おかげさまにて、どうやら本校は定員を守ることができそうです。こころから感謝申し上げます。しかし、これもあっという間にどうなるか分からない脆弱さを持っています。それを防ぐにはどうすればよいのか。それには信頼の獲得しかないようです。

 むろん完全無欠な学校だというつもりはありません。万全な信頼をいただいていると思っているわけでもありません。大輪の菊の花のように、全部が全部同じような花で構成されているわけでもありませんから。菊作りのように教育を行うことはいかがなものか。大根のように不揃いであってもいい、味のある人間になってほしいと思います。細井平洲先生にわたくしは少年時代からそれを学びました。

 さらに中学校の方々に学ぶということです。
 高校の先生方は高校だけの世界で育ってきました。ですからなかなか義務教育の事情がわからない。これは同じように中学の先生方もわかりません。だから、ディスクロージャーが重要だと思うわけです。中学も、高校も、どちらも長いこと経験してきたわたくしですので、本当に体験的にそう思います。

 実はこのブログもそういうねらいから始めました。
 動画を導入したのもそうです。
 
 ほかにもたくさんたくさん本校はやっています。
 在籍している生徒の出身中学校にはご迷惑になるかと思うくらい発信をさせていただきました。
 その成果がその程度かと嘲笑される向きもあるでしょうが、わたくしの能力の無さに免じていただきたいとお願いするしかありません。
 (^0^)/

 また来年何をやろうかと今から考えています。
 楽しいものです。
 人の考えつかないことをやるのが。
 要するに生徒主体のこころみなのですから、こんなに楽しいことはありません。
 
 わたくしのような者でも、教員にならしていただいてよかったなと思う日々です。


 明日から試験ですね。

 体調を整えて、万全の体勢で、姿勢良く、大きな目をかっと開いて問題に取り組んでくださいね。
 剣道でも柔道でも目をかっと開いて、下腹に力を入れると集中力が増しますよ。
 ずっとやっていては疲れますが。
 今までそうやって戦ってきましたから。
 試合の前は集中力です。

 がんばってください。

 入学式で待っています。

 

 
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健闘を祈ります

2009年02月23日 19時09分20秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日まで志願変更です。
 大変ですね、受験生は。
 ここではこの問題についてコメントできませんので、これくらいにします。
 しかし、是非とも多くの方が受験してくださるよう祈るばかりです。

 選択される立場のつらさとでも言いましょうか。

 しかし、状況によっていかようにでも変化があり得るわけです。
 日本の全体的なあり方自体が、状況によって変化してきました。
 状況が変わればその都度あわせていくやり方が主体でした。
 状況の変化に従っていくらでも変身可能な社会であったわけです。
 そこには「真」というものがあったのかどうか。
 こういうのを問題先送り型というのだそうです。

 これも時事問題になるのでこれくらいにしましょう。
 しかし、不便なものですね。書きたいことは何も書けません。
 (^0^)/


 オブラートに書かせていただくなら、たとえば津和野という町があるのです。
 若い人はあまり行ったことの無い人が多いでしょう。
 ここには、戦後大急ぎで作られたような空間と時間を忘れさせるような「ふるさと」があります。森鴎外とか西周という大文化人が出た土地でもあります。どんな状況下でも、変わらない文化がそこにはあったような気がしてなりません。
 一種の憧憬なのでしょうけれども。

 文化の素材化というか、全部輪切りで切って捨てたような軽薄な動きが多い中で、こうした古い町並みには何かがある。少なくとも型どおりのCMみたいなワンパターンではないものが。

 どうもこれまた奥歯にものの挟まったような感じでしか書けないのですが。
 
 職業を離れて、いろいろな方々と対話をさせていただければとしみじみ思います。


 
 さて、先週末からずっと読書散策をしておりました。
 察しのよい方はわたくしがどうやら能の本を漁っているのではないかと思われていたと思います。
 
 そのとおりです。

 そこから何を考えていたかと申しますと、進学主体に学ぶということは何かということでありました。
 どうも譬えは悪いのですが、社会的リーダーの本領が発揮されるときというのは、あるいは試される時というのは、という疑問があるからなのです。本校からもかなりの確率で社会的リーダーが出るかもしれませんから。
 
 で、社会的リーダーというのは、どうもフロンティアを目指せる人なのではないかと思ったわけです。

 学生はどうしても~~~~してくれという受動型人間になりやすい。
 わかるように教えてくれ
 何を勉強したらよいか指導してくれ
という案配です。

 フロンティアというような場所に立ったときに、そういう受動型の人間が生きていけるか、ということに思い至ったわけです。

 能は、花のある動作などを扱います。
 どっかで関連しているような気がしたのです。
 
 もっと言えば、「自己観察」ができない人間ではいけないと思うからです。自己嫌悪や、自己懐疑の経験なしに大人になった時に困るのは生徒自身かもしれないと考えたのです。



 今日もあまり天候がよくありません。
 
 今週は学力検査の週です。
 
 皆さんの健闘を祈ります。

 がんばってください。


 
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本校の概要について話をさせていただきました

2009年02月23日 19時06分26秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 獅子文六の「海軍随筆」を読んで、土浦の場面に妙に感心しておりました。

 短文で実に歯切れのよい文章が続きます。

 常体の文章だと可能です。
 このブログのように敬体で書いているとどうしても長くなります。
 
 生まれつきの駄文書きですから、しょうもないですけれども。
 
 しかし、獅子文六先生の、霞ヶ浦のヌシという描写はいい。

「ヌシは湖中で一番深い浮島のあたりに栖んでいるとのことだった。天気のいい風のない日には、ヌシの背中が湖面に現れるといっていた。正体は、鯉だが鯰だか知れぬが、大きな黒い魚だといっていた。『でっけえのなんのって、鯨くらいあるからな』 私が笑ったら、彼は眼を剥いて怒った。彼自身が実見したというのである」

 どうです。
 目に浮かぶようでしょう。
 時々あのあたりは車で通りますので、土地勘もありますから。

 しかし、いい文章はいい。
 まったくこういう天才に生まれたかったと思います。
 (^0^)/
 
 つまり何を言いたいかと申しますと、文章とお話をさせていただくということは同じで、獅子文六先生のようなシンプルな表現の中に真髄があると思うのです。しかしこれがなかなか難しい。

 ☆

 銚子市内の経済人の方々にちょっとだけですが、本校の概要についてお話をさせていただきました。「上杉鷹山と学校経営」というTitleでありました。ある意味、わたくしのもっとも得意とする分野かもしれません。わたくしのやっているようなニューメディアで学校を広報(本当はディスクロージャー)していくということもまた重要なのではないのかと思った次第です。経営者の方には、釈迦に説法ですが。

 本当は広報とか宣伝とは考えておりません。それでは経営センスを疑われます。中学校の皆様に信頼をいただくということが最初にくるべきことでありますから。

 しかし、そういう機会を与えていただいたことを心から感謝しております。
 これもまた人との縁(えにし)であります。

 社会的なむすびつきを一切シャットアウトしていたら、こういう機会はありません。ありがたいものです。

 動画を多用して、映像で見ていただきました。
 多くを語るより、一コマの映像です。
 しかも、理解度が高まります。

 去年の6月から意図的に映像作戦を展開してきました。
 まだまだ素人であります。
 まったくしょうもない。
 
 ただし、インターネットとなると難しい面も多々あって、先に進みません。
 こんなブログです。

 長いおつきあいを。

 また、明日。

 
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初心忘ルベカラズ

2009年02月20日 04時13分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 世阿弥の著書に
 
 是非ノ初心忘ルベカラズ
 時々ノ初心忘ルベカラズ
 老後ノ初心忘ルベカラズ

とあって、これはよく言う「初心忘れることなく」とか色紙に書いてあるものの原本というか、原典というか、そういうものです。

 特に、是非ノ初心忘ルベカラズは若いときの失敗・成功というものを扱っていて、若いが故の成功もあり得るし、失敗もあるということを言っておるのです。用心しなくてはなりませんぞ、というようなことです。新人の柔道選手が、たまたまかけた技でまぐれで勝つようなものです。

 二番目の時々ノ初心忘ルベカラズは中年になっての戒めであります。
 中年になると本来持っているわたしたちの「花」を忘れる時があるということです。意識していかないと、あっという間に花が無くなってしまうということを言っています。40歳なら40歳なりの花があるはずだというようなものです。

 もうわかったでしょう。
 そうです、三番目の老後ノ初心忘ルベカラズは、まさにわたくしのためのもの。
 年をとったら、花はどっかに行ってしまうかもしれない。だから、言葉にも動作にも「花」がなくてはならないということなのです。うっかりすると花どころか、根っこまで捨ててしまうことになりかねない。

 これは耳が痛い。
 わたくしのように昔から老け顔で、もてない・もたない・もたさないという境遇の者には。

 しかし、人間見た目じゃないという一種の開き直りというか、実年齢と体力年齢では違うぞと強がっている者にもなりたいと思っている次第です。

 ☆

 高等学校の志願状況が新聞で発表されました。
 希望していただいた皆さんに心から感謝申し上げます。

 しかし、初心を決して忘れず、元気に一生懸命勉強して、世阿弥の説くごとく「花」のある若人になって入学してくださいね。

 待っていますよ。

 また、来週。
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華のある人

2009年02月19日 19時48分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は、華のある人ということを、ある生徒に言いました。

 男性でも、女性でも華のある方がおられます。
 その場におられるとぱっと雰囲気が明るくなられる方。生得のものなのでしょう。若いうちには誰でもそういう雰囲気があって、だんだんわたくしなどは失ってしまっているのが反省材料です。もともと無かったのかもしれませんが。
 
 華のある方というのはいい意味で美しい。
 美しいというのは、礼儀作法で「厳しい」とも受け取れます。
 美しい所作はそれはそれは厳しいものです。
 なにしろ他人が見ている。
 どうでもいいや、というのでは話になりません。
 どかっと、人の家に来て、「ま、座れや」とお客様の方が言うのではこれこそ主客の逆転。こんな方が最近多くありませんかな?
 
 厳しいの「巌」という字は、また「うつくし」とも読みます。
 ここらへんが、「華」「美」「巌」の関係性を現しています。

 型とか形というものが無くなってしまったからだと思っています。
 剣道にも柔道にも形というのがあります。
 あれは無意味なのではありません。
 
 一連の所作を、無駄なく、理想的な動きでまとめてあるのです。 
 マニュアルではありません。マニュアルばやりの世の中ですが、マニュアルどおりやろうとするから武道においてはだめになる。

 稽古するという字の「稽」は「考える」という意味です。
 ですから「稽古」は「昔の物事を考える」「学問をする」ということにもなると思います。
 
 生け花なども稽古と言うのだそうですね。
 これらの伝統技芸には古くから伝えられてきた、型があってその型から入っていきます。だから練習ではなくて「稽古」なのです。

 もうひとつ、「滑稽」にも「稽」が含まれます。
 こちらは「基本をいい加減にして勝手なことをする」の意味だそうです。

 三味線の高橋竹山さんが、滑稽な稽古という意味で書いていらしたのですが、ドレミファソラシド的に三味線を勝手に解釈して、あとはそれこそ勝手に練習している弟子がいるそうです。弟子がそれこそ「お客づら」をしているということでした。これにはわたくしも失笑しました。
 教えていただくということをまったく考えていないのではないかと思ったからです。
 
 そんな生徒は本校にはいませんよね?

 また明日。
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白いページを一緒に埋めていきませんか

2009年02月18日 05時02分17秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 下記の文章は本校関係の冊子に出す文章の一部なのですが、これは中学生の皆さんにも参考になるかと思い、掲載させていただきます。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これまで以上に地域に有為なる人物を育てたいと思うばかりであります。女子教育から男女共学になり、さらに生涯を通じて職業にコミットし、厳しい倫理と端正な哲学を持つ青年男女を育成しなければなりません。仕事上の能力だけでなく、家庭人としての豊かさを教え諭すことは、女子教育の殿堂であったからこそ可能だと思うのであります。個人としての教養と、情操に裏打ちされた重層的人格の形成があってこそ、これからの国際化社会に広く通用する人間であると考えています。
 進学・進路指導に重点を置き、全教職員共々日々の教育的営為に邁進しております。さらに、批判を受け付けない狭量なエリート主義に陥ることなく、お互いの特殊事情を可能な限り説明でき、理解しあうことに努力する人間を育成したいと思っております。
 新校歌に
 
 すべてが生まれかわる 白いページ開いて 
 はじまりの時 十六の春

という言葉があります。
 本校同窓生の皆様方に、後輩たちに対して、よりすばらしい人生という名の「白いページ」をお与え下さいますよう心からお願い申し上げます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 本校同窓生の方々へのメッセージの一部です。
 まだ書きかけなのですが、学校紹介にもいいかなぁと思いましたので。

 今日から願書受付であります。

 再度本校を選択していただけるようお願い申し上げます。

 白いページを
 一緒に埋めていきませんか?

 待っています。 
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マナー

2009年02月17日 23時10分57秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 マナーは美しい。
 美しい所作というのは心身の美を現す。
 
 マナーは厳しくもあります。
 厳しいという字の巌は、うつくしとも読みます。
 電子辞書で調べていたら、合点がいきました。

 箸の三点持ちというのがあるそうですね。
 食卓に着くやいなや
 がばっと箸を持って、いきなり食べ始めるというのは・・・・
 右手で一度持って、
 次に左手で持つ。
 最後にまた右手。
 
 わたくしも人のことは言えませんが、下記のことは守ってきたつもりです。

①他人と話をするときポケットに手をつっこまない。
  これは相手をなめています。
②他人の家の応接間に案内されたとき、自分から腰を下ろさない。
  応接間にある絵画は立って待っている人のためにあります。
③目上の人に話を聞くとき、足を組まない。
 これは志賀直哉という作家に足を組んで、インタビューした新聞記者がいたのだそうです。
 その程度の人間だったということです。
④電話をかけるとき、「今、よろしいですか?」と必ず言うこと。
⑤「江戸しぐさ」に学ぶ
 肩ひしぎ
 傘ひしぎ
 どれも狭い道で相手に譲る所作です
⑥人の家を訪ねるときは靴を反対向きにそろえる。訪ねられたらこれはそろえてあげるが、お年寄りのときはやや間隔を置く。倒れないためにも。
⑦他人を訪問したときに、時計をちらちらと見ない。時間が気になるなら、わからないようにやるか、最初から行かない。
⑧正座から立ち上がる時は必ず右膝から。これは柔道も同じ。
⑨モラルのいい加減な人間は「タガがゆるんでいる」
 人前で私語をする者
 講演で、授業で大きな欠伸を隠しもせずできる者
 わたくしは上記のことはしない。

・・・・・・・・・・
とここまで書いてきて、もう止めましょう。

 どこまでうるさいのかと呆れられそうです。
 
 しかし、あきらめませんよ。
 卒業式の式辞にこういうことを列挙するつもりですから。
 (^0^)/

 また明日。

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朋あり、遠方より来たる

2009年02月16日 22時51分40秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 市川の本八幡に古書店があって、一昨日久しぶりに訪ねてみました。
 内村鑑三とかいろいろ買ってきました。
 漢文の書籍がいい古書店ですので、そちら系に欲しい本がたくさんありました。
 しかし、財布の中身が心配になってしまいました。
 なにしろ漢文系の古書は高い。
 それに友人たちと旧交をあたためようとして、そこまで出かけたわけですから、そんなに持ち合わせがありませんでした。

 いいものです。
 実にそういう体験が。

 で、高校一年生の時に学校から受験用補助教材として指定された古文研究法という受験参考書があったのです。

 懐かしくて思わず買ってしまいました。

 これで、古文の月例のテストをしていただいたのです。 

 昭和53年に増刷された本でした。

 大切に使われていたようで、まだ新本同様。

 わたくしもまた大切に使わせていただきます。
 ただし、最近カバーフイルムというものを知って、古くなったノートとかぼろぼろの本を補強しています。
 どうせわたくししか読まない本ですから、古典系はこれで補強三昧です。

 旧交をあたためる会では楽しく過ごさせていただきました。
 
 朋あり、遠方より来たる
 また楽しからずや
 
 そういうことでした。
 実にしみじみとした交遊がここにはある。

 いささかの日本酒を含みながら、古今東西の書籍を語りあう。
 また、旧友たちの動向を案ずる。

 友を大切にするということは、こういうことではないのかと思った次第です。
 
 残念ながら夜の柔道の稽古は出来ませんでした。
 次の日の大会にはデジカメ片手に参上しましたが。

 また明日。
 
 

 
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四耐 挑戦 満開

2009年02月13日 05時19分09秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は残念な結果になった方も、まだまだチャンスはありますから是非ともまた本校へチャレンジを。
 あと少しの努力です。
 がんばってくださいね。

 全員内定させていただきたかったのですが・・・そういうわけにもいかないし。
 いつも気が重くなります。 

 ☆
 
 四耐というのがあります。

 四耐四不・・・「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、
        激せず、躁がず、競わず、随わず、以て大事をなすべし」

 こういうのだそうです。
 
 実はわたくしもまたこのような人生でありました。
 銚子でちょっと話をしなくちゃならないのですが、原稿を書いていたらこれがベースになっていました。
 
 わたくしの場合、さらに付け加わる部分もあります。

 梅が耐える花としては一番でしょう。
 寒に耐えてじっとしているわけです。
 寒椿などというのもありますよね。

 見ていてかわいそうになります。
 花が。

 まさに四耐。

 でも耐えると、満開の花も咲きます。
 それまで我慢のしどころです。
 挑戦の連続なのですから。
 世の中は。

 
 待っていますよ。
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校内を経巡っていましたら

2009年02月12日 23時05分55秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日、校内を経巡っていましたら、元気よい男の生徒に声をかけられてちょっと話をさせていただきました。

 わたくしが中学・高校の運動部をずっとやってきたことも、信じられないのだそうです。担任をやったことあります?とも聞かれました。17年間連続でやったのですよと答えたら、そんなふうには見えないのだそうです。
 
 寂しい限りであります。
 生徒との対話や、接点があってこその教員であります。

 そういえばわたくしがかかわっているボランティアの方たちからも、随分なお年寄りだと思われているようです。
 昔からふけ顔でしたから、これは平気です。損したこともたくさんありましたが。
 (^0^)/
 しかし、誤解というのはありがたいものです。
 いろいろとご指導をいただけるからです。
 たとえば、わたくしは遊技場に行ったこともないし、ゴルフもやったことがないのに、そういうことをしていたらあかん!とご指導をくださる方もある。
 また、字の読み方をご指導いただくこともある。
 職業はなんだ?と聞かれるとだんだん答えられなくなります。それが一番しょうもない。
 職業でボランティアをやるわけではありませんから、他人には言わないのですが、それがいつかはバレルことがあって、なかなかばつが悪いことこのうえない。なんかの機会に会合があって、そこに普段学校で着ている背広を着ていったら、褒められてしまったのは笑ってしまいました。持っていたのか、という素直な驚きだったのでしょうか。
 
 そういう勘違いを楽しむところがあって、人間観察にはぴったりの日々を送っております。ビートたけしという方は、若いときからそれをやっていて、山手線を豆ノート片手に人間観察をして、メモって、ネタにしていたそうです。研究熱心なのですね。若いときから。だから芸大大学院の教授までなるわけです。


 論語に子路という人物がおります。
 非常に敬愛しております。
 同じ匂いを嗅ぐからでありましょうか。
 決して天才と言われるような弟子ではありませんでした。
 直情快活。
 悪く言えば単純明快。
 動の人。
 一箇所に落ち着いていられない。
 なにかと言えば行動が先立つ。
 ぱっと思ったら、ぱっと実行。
 
 こんなところでしょうか。

 まったく、まったく。
 わが身を映しているようです。
 恥ずかしい限りですと言ったら、子路と同じレベルだと思い上がっているのか?と叱られそうです。とてもとても、彼のようなレベルにはありまぬ。

 しかし、こんな愚鈍なわたくしでも何度も何度も修羅場をくぐり抜け、多種多様なトラブルを処理させていただいているうちに、人間のことを知らず知らず勉強させていただいたようです。

 勉強になります。

 少なくとも、他人を表面だけで見ることはなくなりました。

 ☆ 

 明日特色化の内定者の掲示です。
 気が重いです。全員合格にさせていただくわけにはいきませんでした。
 再度のチャレンジをする方もおられるでしょう。
 本当に申し訳ありません。
  
 でも、待っていますよ。
 もう一度。
 心から。
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いたわしく思うこと

2009年02月10日 19時46分24秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 こんなタイトルだと、また校長の小難しい記事が・・・読むのはやめた!と思われるのかもしれません。

 昨日も書きましたが、ブログとかいろいろな手法でやってきて、広報としての価値はどの程度かと疑問に思っていたら、やれるところまでやればいいと指導をしてくださる方も中にはおられるのです。

 こういう方の心こそ、惻隠の情です。

 好きか嫌いかだけで仕事をしがちな世の中の動きの中で、ありがたいことであります。

 そもそも、好悪の感情だけで仕事をするのはいかがなものか。
 誰だって好感を持てる人と仕事したいわけです。
 しかし、それは時と場合によって変化する。
 絶対ではない。

 そういうときにどうやって人を見分けるか。

 それが惻隠の情があるかないかです。

 よく知られているようにこれは孟子に出てきます。
 解説をするのがこのブログの目的ではありませんし、それだけの学識もないので避けます。
 
 辞書には「いたわしく思うこと、哀れみ」とあります。
 哀れみだけなら、憐憫とも言えます。
 しかし、憐憫はかわいそうだから助けてあげようという「あげよう」意識が働きます。関係性で言えば上位の者の持つ概念です。

 惻隠はもっと高次のものではないでしょうか。
 いわゆる本然の行為、考えから導きだされるものです。

 それは何によって可能なのでしょうか。
 隣近所の方々と挨拶をさせていただいて、あるいはお年寄りにやさしく接する日々の生活を送るということを一つ取り上げてみるとわかります。他者の生活にも目を配れるか、そういう自己と他人の関係性を考えることができるかということが重要なのではないでしょうか。

 小事を大切にしないと、大事もおろそかになります。

 また、自己の善行を知ってほしいというのもまた自己にとらわれておる。
 自己宣伝の巧みな人間にはろくなのがいないとずっと思ってきました。
 経験的に。
 偽善の匂いがするからであります。

 だから、静かにすっと構えている武道人ほど恐ろしいものはない。
 つまらぬ自己主張をしない、隙を見せない、すっと立っている人間はものが違うものです。

 よくメリットがあるかないかということで物事や人間関係を判断される方がいらっしゃいます。

 こういう方には、野に咲く月見草のように自己を主張せず、他者のためにそっと努力をされている方々のことはわからないのでしょうね。

 そんなことを思った次第です。

 
 また、別の記事でお目にかかりましょう。

 

 
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そよ風にも耐え切れない?

2009年02月09日 20時25分32秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 特色化試験ごくろうさまでした。
 これについてはここまで。
 これ以上コメントできません。
 悪しからず。

 ☆

 分析をしています。
 簡単なことですが、このブログとか役に立ったのだろうかと。
 撤退は常に視野に入れていますから。
 難しいものです。
 
 最近、以前から尊敬申し上げている校長先生のブログが閉鎖されました。
 私立の名門高校です。
 名文家で内容も実にすばらしいものでしたから、ある意味目標にさせていただいておりました。
 
 わたくしのブログなぞあっというまに、そよ風にも耐え切れなくて吹っ飛ぶような価値しかありません。
 その辺はよく自戒しているつもりです。
 在籍しているうちだけのものでしかありませんので。

 ☆

 蟻の巣のような自宅のわたくしの部屋を片付けました。
 ダンボール8個の古本を処分しました。
 まだ整理がつきません。捨てたい本がまだまだ山ほどあります。
 雑書ばかり多くて、話になりません。
 こんなにあれこれと雑学ばかりだったことを恥じています。
 その辺が高校の同級生たちで大学教授になった仲間との大きな違いです。
 仲良しの同級生がいて、彼の大学の研究室に訪ねていったことがありました。
 凄い書籍の量でした。
 しかも京大式情報カードで綿密にメモをとってありました。
 これは彼の若いときからの学習スタイルで、さすがに優秀なのは違います。
 書籍のマンションまで都内に借りてありますから。

 やはり人に抜きん出るのはやることが違います。
 人と同じことをしていたんでは、なかなか成果があがらないということを学びました。

 オーラもある。
 スキーもうまかった。
 音楽も堪能。
 
 そういう何でもやれる男が、本気で勉強したのだから学者でもなんでもなれるわけです。
 とうとう日本一だと巷間うわさされる大学の大学院から博士号を取ってしまったのです。
 凄いものです。
 

 そよ風に耐え切れなくて吹っ飛ばされているようでは、いかん。

 自省です。
 どんな暴風雨でも「雨にも負けず、風にも負けず」でいきたいものです。

 また明日。  
 
 
  
 
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終わりを慎むこと

2009年02月05日 19時05分36秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 人間は終わりを慎むことが確かに大事だと思います。
 しかしこれが意外と難しい。

 自分の力などというものはたいしたことはありません。
 やはり先輩、先覚、歴史というものに学ばなくてはなりません。若いうちには、周囲が劣って見えるのでしょうけれども。

 それは間違いです。

 人間の本質的な要素というのは内面的な真実と呼ばれるべきものであって、知識や技術は当然あってあたりまえの要素であると思っています。だから基礎としての学問は徹底してやらねばなりません。
 したがって、修養というもの、勉強するということは、何が一番大切なものであるか、あるいは何が枝葉のようなものであるか、付属的なものであるかを見極めなくてはなりません。

 一番勉強をする上でよくないのは「散漫」ということであります。

 散漫な読書、散漫な学問というのではいくらやってもダメです。

 学問の雑食はもっといかんのです。雑駁に消化不良となると健康までおかしくする。

 徹底してなにかをこなせと申し上げたい。
 打ち込む学問を作りたまえと。

 荻生徂徠という人物は、文字や文章を正確に研究した人でありました。
 しかし、性格的にも変化に富んだ先生でした。
 風流を愛し、特に文芸を愛しました。
 だから幅広い門人ができたのです。

 大塩平八郎は、自己をつくるという点ですばらしいものがあります。
 ただしこの方はいろいろ評価の分かれる方でしょうから、深入りしません。
 一言だけ申し上げると「過去を回復しなければ、未来は開けない」とも仰っている。これはいいご発言です。

 最後に中江藤樹、熊沢蕃山の学問的態度。
 お二人は、学問というのは、自分を知るための学問と位置づけられている。
 いかに真剣に学ばれたかを知るべきです。
 外物を追うような単純な勉強態度ではありませんでした。
 「学は覚なり」とも言われている。
 
 特に達人だと思うのは蕃山先生。
 終わりを全うする道が大切である。
 心の根を培養する。
 何よりも根本に立ち返ること。
 このようなことを言われています。
 人間にとって根本のところは、われわれが何をなすのではなく、われわれが何であるかを発見することだと言われてもいる。
 人生の終わりのほうから学問を捉えなおすこともまた大切なのではないでしょうか。


 したがって、学問というものはまず蔵さねばなりません。
 自分の内に入れておかねばなりません。
 そこで修めねばなりません。

 進路の手引きの原稿を書けと言われましたので、上記のようなことを考えていました。これを発展させて手引きに載せたいと思います。

 ☆

 明日特色化の試験です。
 以上のようなことを家庭で考えてみてください。
 くれぐれも逸脱行為のなきように、お願いしますね。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/