と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

大乗二十頌論について

2012年05月31日 18時25分58秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

大乗二十頌論について 龍樹著

書き始め 2012/05/31


1 はじめに

 ナーガールジュナの著した短編の論である。講談社の中村元博士の「龍樹」(講談社学術文庫 2002年 講談社)によるところが大きいが、中村元博士は『大乗についての二十詩句篇』とタイトルをつけておられる。言い得て妙である。すばらしいセンスである。こういうのは生得のものというべきであろう。(同書 p.396)

 サンスクリット原文が近年発見され、トゥッチ博士によって出版された。また、チベット訳も加わり、そにテクストとチベット文から還元訳としてのサンスクリット版がある。


2 実践の書 大乗二十頌論

 各章を概観すると、浮かび上がるのが、龍樹の仏道実践への意欲である。特に、大乗二十頌論は冒頭から「三宝に帰依したてまつる」とある。

 龍樹は特に、仏陀への帰依を強調しているから、このことが仏道の根本的課題であると考えていたことは間違いがないだろうと思われる。それは龍樹の他の著書である「中論」「六十頌如理論」の冒頭にも帰敬偈を置いて、仏陀への帰依を表明している。考えてみればそれは当然のことであって、この書が信仰の書であるからである。つまり、仏陀という個人への、かなわないなぁという感覚を表明しているのではないかと感じるのである。

 だからこそ、龍樹という存在への共感が大きくなってくるのではあるが。

 言葉では言い表せない真理を、慈悲をもって言葉で説き示された、その思慮は執着を
離れ不思議な威力ある仏陀を礼拝したてまつる。

 書き出しがこれでである。

 「真理は言葉では言い表せない」のである。言語的な関係性を否定したところから出発するわけである。しかし、その真理を「慈悲の言葉」で説き示されたとも書いてある。だから、俗界を捨て、全ての人間関係を捨て、一人隠者として修行したとしても、仏陀による「教え」を聞くことなしには、不可能であるということである。ただ座れとか、自然風物からなにかをつかむという方向性だけは、この冒頭の部分からは理解できないことである。

 しかし、教えの解釈だけにとどまり、字句をいじって楽しんでいるだけでもならない。信仰を生きるということから、隔絶していることではならないと考えるべきであろう。(※愚生に一番耳の痛い話である=わかっているのである、信仰に一番関わっていないということを)

 

最高の真理の立場から見るならば、生じることもなく、真実には静まることもない。
虚空の如く諸々の仏陀も諸々の衆生も、ただ一つの特性を持っている。

 ここでは縁起の理を説いている。

 しかし、単なる理であるならば、それを勉強して知ることは、哲学であっても信仰にはならない。ただ一つの仏性を持っているというこの第2の章は、ある意味大乗仏教の持つ普遍性をも意味しているのではあるまいか。縁起の法こそ、仏陀の説いた大いなる仏教の特徴である。このことから逃れての仏教理解はあり得ないことである。

 さらに言えば、龍樹を理解するのに、「ただ一つの特性」を意識しないで、さまざまのことを議論してはならないことになる。このことだけは戒めなくてはならない。

 

諸行は、此の世においても、彼の世においても、生じたのではない。それらは因縁に
よって生じたものであり、それらは全てその自性については空である。

 この辺りから、実に魅力的な論理の展開がなされていく。

 凡夫は(※この一番あてはなまるのが私である)、自己、物、ことがら、現象界すべてもともとそのもの自体が存在し、変化のないもの、永遠に存続するものとして、とらえている。下手をすると、自分のいのちまで永遠であるかのように錯覚する。いつまでも生きていけると思うからである。それは唯物論の影響も大きいのであるが、それを否定するのが、因縁の考え方である。

 存在するものは、因縁に応じて必ず変化するものであり、因縁によって生じ、因縁によって滅するのである。次の章にも書いてあるが、一切のものは影の像なのである。

 この世の世界が全ての真実ではないのである。だからこそ、この龍樹の考え方に夢幻能を説く、能楽の影響関係を見いだしていきたいのであるが、愚生の理解はまだそこまで行っていない。どこに文献的な証拠があるのか。それがまだまだわからない。ついに徒労に終わるのかもしれない。それでもいいと感じてはいる。そこまでで、勝負あったと言われるかもしれない。しかし、全ての存在するものが、現象であるならば、龍樹の言うように、因縁によって滅び去るしかないではないかと私は感じているからである。

 

3 おわりに

 ここで読書感想文として、大乗二十頌論をまとめてみたが、まだまだ課題が多い。

 ただし、11章にあるように「彼らは無なるものを存在とみなして苦を感受する」とあるように、そもそもなにもないものから、現象を理解し、それでもって苦しみ、悩み、生きているという一般の衆生(※むろん私でもある)に対して、ある意味で救済の可能性をここで示しているのではないかと思う。

 これからの課題でもある。

 

 

中村元『ナーガールジュナ』(人類の知的遺産13)、講談社、昭和55年
※龍樹の思想のみならず、伝記や伝承も詳しく紹介。
『中論頌』のサンスクリット原文からの訳と『大乗二十頌論』もサンスクリット原文からの訳を載せている。これを底本として、講談社学術文庫に中村元『龍樹』がある。

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5月30日(水)のつぶやき

2012年05月31日 04時55分30秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

16:39 from gooBlog production
毎日書きかけ予定の読書感想文です blog.goo.ne.jp/tym943/e/52c9e…

23:40 from web
今日は塾の先生の代役でヨルバイト。

23:40 from web
どうせ暇ですからねぇ。

23:41 from web
たいした収入にはならんのだけれど、人助けです。

23:42 from web
それと、アタマの活性化には実にいい。強制的に、専門外のことをやらざるを得ないんですから。

23:43 from web
かわいそうなのが、生徒さん。じじいに教わってがっかりだろうなぁ。ごめんなさいよ。

23:44 from web
イケメン系の先生もたくさんおられるのに、あ、今日はなんて運の悪い日だって。。。。。(^0^)/ウフフ

23:47 from web
因数分解を中学生と一緒にやっていたんだけど、教え方がうまいですねぇ。アタシャ。小さなカードを胸から出して、間違った問題をよ~いドンで、一緒にやるんです。競争するんです。そして、できたかなぁ・・ってじらすんです。するとたいてい悔しがる。こんなじっちに負けてたまるかって。

23:49 from web
カードはあげます。100円ショップで百枚単位で売っているやつですから、惜しげも無くプレゼント。これで生徒ははまるんです。それどこで売っているんですか?と聞いてきます。もうこっちのもの。興味を持って勉強できるという寸法になる。アタシの独自のやり方ですがね。

23:51 from web
こんなかわいい孫のような方々と一緒に勉強させていただくだけで、本当に満足ですよ。ありがたいことであります。

23:54 from web
明日は城西に行けない。千葉科学大での授業がありますので。さっき、レポートを採点してえんま帳に記入して、さらに明日高校の理科物理の授業構想マトリクスを書いてもらうので、その教材研究をしておりました。どんな授業展開を考えてくるか、大学生と勝負です。楽しみですね。ホンマに。

23:56 from web
ブログに論文のカテゴリーを作って、それをパスワード管理しました。これで、ブログのオモチャ化が着実に進んでいます。ブログに書きためて、大事なものはパスワードをかけて、アトで一気に勝負を賭けます。これがオレ流なんです。とんま流・・じゃなくてと~ま流。また明日!

by tym943 on Twitter

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5月29日(火)のつぶやき

2012年05月30日 04時41分00秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

15:46 from gooBlog production
世捨て人の気の迷い goo.gl/gjkwD

23:14 from web
さっきまで銚子の経済人と呑んでいた。楽しかった。適性があうというんでしょう、こういうのは。

23:16 from web
それにしても、無茶をしなくなったなぁ。ちゃんと終電で家に到着するし。信じられないっすよ。もっとも、田舎だから上りの終電って言ったって、21時50分ですわな(^0^)/ウフフ

23:17 from web
この時間に帰っても、ちゃんと?二次会のスナックに行ってカラオケやってきましたよん。

23:18 from web
ブログに掲載していた山河とか、吾亦紅とかにチャレンジしてきました。

23:19 from web
吾亦紅の時は涙が出てましたダン。あふぉ~でんな。

23:19 from web
死んだお袋を思い出した。

23:20 from web
歌詞がいいんだ。

23:22 from web
従業員の方にお聞きしましたら、ご出身が福建省とのこと。食卓の再会って映画を見たので、そのことを申し上げたらご存じなかった。

23:24 from web
満州文学のことで、脇道で勉強しているので、こういう話題はさすがに勉強になります。本来はちょっと違うんですがね。唯識と能だから。

23:25 from web
明日はまた隠棲室にこもりっきりで、読書三昧でございます。

23:26 from web
今日の経済人に言われました。

23:27 from web
いいご身分だなって。

23:28 from web
否定はしません。されど、アタシャ本当に学問が好きでやらさせていただいているだけです。ホンマに。

23:29 from web
そりゃぁ、偏差値とかなんとかっていう話になったら、オイラの領域であります。アタシの力がたいしたことが無いってことは自分が一番理解しております。

23:30 from web
それなりに苦労してきたからであります。

23:34 from web
よくもまぁ、あんな秀才だらけの環境の中で生き延びたものであります。同級生で、横浜国立大学で自死を選んだYのことが忘れられない。華厳の滝で死んじゃったのだ。理解できるような気がしていたけど、あれじゃぁあまりにも知的インテリとしては弱かった。

23:36 from web
自称でもなんでもいから、インテリは他者に贈り物をしてくださいませ。じじいのこころからのお願いでございます。マジに。

by tym943 on Twitter


※Twitterに書き込むと、訂正がきかないから、実にめろめろの文章になってしまうですねぇ。
 もっとも、文才ないから仕方ないけど。

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隠棲室で・・・

2012年05月29日 14時46分11秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・今日は、読書感想文を書こうと思っていた。事実、候補の書物も手元にある。しかし、どうも書く気がしない。なぜか。それは、現在の読書テーマがあまりにも膨大であるからである。今日は普段の大学院日記に書かせていただく。

・しかし、気乗りしないだのと、そんなことを言っていたら永遠に駄文は書けない。

・唯識の資料も猛烈に膨大である。昨日は東京にいたので、東金に来たら浦島太郎のような気分になった。長尾雅人先生の「摂大乗論 和訳と注解 上」(講談社版)をやっとの思いで買ったからか?そして、そのあたりのことから、いろいろ資料を調べていると、こりゃぁオラにできるかなってことである。

・隠棲室・・・・・・・・でなくて院生室で、なんとA4で500Pに及ぶ資料作成をしていた。唯識だけである。事実、修士の時からずっとやってきたテーマではある。唯識3年、倶舎なんとかというのである。さらに、わたくしは、若いときに修士をやったのではないから、直近のテーマである。学部からの延長上だと、25才くらいで修士論文を書き上げるのが普通の人であろう。

・アタシャ、皆様と逆を行っている。仕事しながらやっとの思いで60才で修士に合格させていただいたのである。ズレていますなぁ。普通じゃぁないのだね。反省しますよ。

・どうやら本格的に唯識で勝負すべきときであろう。そして、我々日本民族の中にで~んとある空虚さのようなものを、能に表現しているというラインで書かなくてはならないと思っている。

・それに気がついたのである。膨大な量である。質的についていけるか。むむ・・・・・・・困難である。

・出家すりゃぁ良かったのかねぇ。しかし、こんなジジイを受け入れてくれる寺もなし。さらに、厳しい修行についていけないしねぇ。正座も膝が痛くてできないし、ケツも痛い。さらにさらに、オラ・・・煩悩まみれだし。本当に、美人がとてもお美しく見えてしまうのだから、情けないですよ。無理ですな。無理。

・しかしである。今日は非常に大きな発見をさせていただいた。だから読書感想文が書けなくなってしまったのだ。

・それは唯識が、浄土真宗の一信徒の方でも相当勉強されているということである。そのことに気がついたのだ。つまり、信仰されている方は非常に熱心であるということである。ここのところを大いに誤解していた。興福寺とか、法相宗とか、奈良南都仏教の問題ばかりではないのである。このことはすごいことである。

・参考資料も増えている。

・「中論」「大乗荘厳経論」「宝性論」「大乗起信論」「唯識三十頌」「中辺分別論」などが登場してきているのである。

・ま、僧侶ではないというのが唯一の救いかとも思う。逆にである。厳しい修行を経なくても読書だけはできるからである。文献研究というのは、そのあたりは助かる。

・梅原猛先生のように実地研究が可能なのだろうか。唯識の場合。そのあたりは考えてみる。

・しかし、こうやってだらだらと書いていると、なんとなく先が見えてきたような気がする。明日から、また隠棲室で書かなくてはならんのである。なにしろ宿題が出ているからである。学会から。原稿はボツになってもいいのである。書くことによって、自分の問題意識が明確になってくると思うからである。

・今日は、4時には大学を去らねばならない。夕方、銚子である経済人と会わせていただく。要するに、ちょっといっぱいやるかということなんであるが。(^0^)/

 

 

・さっき大学に来る前に、電車で実に懐かしい方とお会いした。地元のスーパー進学校の校長先生である。教頭会の会長をさせていただいたときに、いろいろご指導をいただいた方である。どこに行くんだ?と聞かれたので、正直にお答えした。絶句していた。あきれられたのだろうと思っている。

・要するに普通じゃなんだろう。ま、いいか。こんな人生を選んでしまったし、後戻りはできない。強制退学ならできるかもしれないが、いつまでもしがみついていたいんである。本学にである。居心地がいいからである。

・じゃぁそろそろ帰り支度をします。また明日!

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5月28日(月)のつぶやき

2012年05月29日 04時42分38秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
23:21 from web
神田の小宮山書店で、良い本を見つけてしまった。(^0^)/ウフフ

23:23 from web
長尾雅人先生の、摂大乗論である。6000円だった。サンスクリット語からの、原文と和訳と注解があるのだ。

23:24 from web
実は、一度あきらめて、地下鉄に行きかけて、いつも行っている一誠堂で、別の本を見ていた。

23:25 from web
そしたら、なんと小宮山書店で見た長尾先生の本が、じわぁ~と浮かび上がってくるではないか。こりゃたまらん。買うしか無い。

23:26 from web
戻った。そして、隣の田村書店にもあるかもしれないと思ってちょと見た。なかった。さらに一万円以上でないとカード支払いができないのだそうだ。

23:26 from web
竜巻がくるとか他の書店の旦那が言っていた。急いだ。

23:28 from web
小宮山で見つけた摂大乗論が売れてしまったらしょうもない。。。。。ダッシュである。ケツが痛いのによくまぁ走れたものである。笑いながら走った。怪人ですよ、これじゃぁ。

23:29 from web
買った!

23:33 from web
感動の瞬間である。欲しいものは欲しいのである。だって、駄文を書かせていただくのに、他人の孫引きではしょうも無い。それこそますますダメ人間になっちまう。そんなのでは、学んでいる資格無し。

23:36 from web
構造主義とひっかけてもおもしろいかもしれない。あるいは、ユングだ。フムフムである。

23:38 from web
明日は本来の院生室に戻る。ケツが痛いのによくやるなぁ。柔道とジムのトレーニングだ、原因は。ま、好きでやっているんだから、文句は言えない。自分のケツに言うしか無い。言っても始まらない。

23:41 from web
今日のM師匠の平家物語講座にはしびれました。すばらしいの一語に尽きる。教授法も、である。

23:43 from web
これからあと7回、毎週月曜日には師匠の御講義を拝聴することができる。ありがたいものである。本学は、東京の紀尾井町キャンパスもあるからである。すべてを吸収させていただきたいと思っている。

23:47 from web
そして帰りは、神田神保町である。クラスメイトが、中国文学・中国哲学系の内山書店とか東方書店にも行きたいとおっしゃっていたので、書店案内ももらってきた。外国から来ておられるのであるから、不案内であろうと思って。それにしても楽しみである。古本を捜してあるくということ自体がである。

23:52 from web
明日の夜は、旧友と銚子で呑むことにしている。夕方まで行けばいいから、大学で4時頃まで読書していて、電車で直行するつもりである。楽しみである。旧友もまた異業種の方である。退職を祝ってくださるのだそうだ。もう、これで終わりだろうが

23:55 from web
あ、あまり呑んであるいていると、そんなに暇ならオイラのところで働いてくれないかと℡がかかってくる。実はさっきも来た。水曜日である。ま、言われるうちが花だなぁ・・・

23:56 from web
働いていないという噂がたって、いろいろな方が、心配してくださっているのである。ありがたい。ありがたいが、実は学生だけやっているのではないんです。(^-^)/

23:57 from web
明日は、ブログに読書感想文でも書きますかな。久しぶりに。

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5月27日(日)のつぶやき

2012年05月28日 04時09分04秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
23:37 from web
今日はよい天気でしたね。実に気分爽快。いろいろと世間がらみの雑用をこなして、午後にはそふぁ~で爆睡。寝ちゃったのだ。だらしないねぇ・・・猫か、犬だよこれじゃぁ。

23:40 from web
それで、ちょいと書庫の中にこもって、資料を探索して、印刷三昧。満州文学というのに最近興味があって、ほんとは異種の分野に興味を持ちたくないのに、やってしまった。

23:43 from web
どうしてアタシャこういうふうに拡散型なんだろう。・・・トホホであ~る

23:45 from web
印刷して、百枚も綴じることができる丈夫で、実に安価なファイルをカインズホームでなんと100円で発見したので、印刷が楽しい。能楽を中心にいろいろやっていた。

23:48 from web
しかしです。まだまだアタシャ働けるのに、やっぱり隠居せにゃいかんのですかねぇ・・・(^0^)/ウフフ

23:51 from web
若い人の邪魔になるからだと、配偶者に言われましたよん。そうですわなぁ。だったら、現代の説話文学に出てきそうだ。棄老伝説という哀しいものだ。

23:52 from web
ま、明日は、明日である。とりあえずできることから、頑張るしかない。

23:56 from web
明日は、東京で平家物語講座があって、師匠がこれから8回の連続講座を開催される。当然、不肖の弟子であるわたくしも末席で拝聴させていただく。実にうれしい。こんな時間をすごさせていただくことを感謝しているんです。

23:57 from web
それでは・・・また明日報告しましょう。

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終バスでした

2012年05月27日 00時16分01秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ちょっと夕方になって暗くてピントが・・・

「未来から贈られたチャンスを受け止めて生きる」・・・いいなぁ。レヴィー・ストロースですよ。

 

 昭和45年の頃では女子大でありましたから、愚生は絶対にこの風景は見ることができなかったです

非常に意味深であります。カウンセリング的に。

 あたしゃ、この像にいまだにしびれます。信者では無いんですケド。


 

・もう昨日になる。さっき帰ってきた。三鷹にいた。修士を取得させていただいた母校の武蔵野大学にいた。カウンセラーのT女史の御講義を聞きに行っていたのである。良かった。実に良かった。

・カウンセリングもまったくの素人である。オレはこれが玄人だなんて言える分野はナニもないのだ。論理療法をちょっとかじった程度でまったく素人。T女史は慶應大学の大学院を出られた優秀な先生である。そして、講義の内容はロジャース。まったく知らないことがたくさんあって、またまた勉強になった。

・T女史も生涯学習の権化のような方で掛け値無しに尊敬している。大学院修了式の時に、T女史のお誘いがなければ、母校の訪問も無かった。そしてケネス・田中教授の主宰されている学会にもご縁がなかったと思う。

・ありがたいものである。すべてはご縁である。実は、ひさしぶりに母校に行かせていただいたので、恩師のK教授にもお会いしたかったのである。しかし、事前にメールでご挨拶をしていなかったし、土曜日だからご迷惑であろうなぁと思って逡巡した。無学・懶惰な最劣等生の愚生である。堂々と恩師の研究室のドアをノックできないのである。それくらいの恥は知っているつもりである。(K先生、この記事を見ていたらごめんなさい)

・逡巡というと、愚生は現在の在籍校である城西国際大学大学院のクラスメイトにも遠慮がちである。いかん。こんなこというたら、失礼だろうなぁと思うこともしばしばである。博士号を取得することを国家的使命として目標にしておられる方々である。しかも、クラスメイトの中国の大学の先生方は、インターネットにも相当数お名前がヒットする。凄いことである。つまらない動機で勉強している愚生なんかなんにもヒットしないではないか。当たり前である。誰も知らないし。

・クラスメイトたちには、日本文学は言うにおよばず、中国語でもとてもたちうちできないし、さらに日本国内のイベントにも多数登場されているのだ。まったくレヴェルが違うのである。実にすばらしい方々である。クラスメイトと呼んでは失礼になる。愚生ごときがである。わらわれっちまうです。

・あたしゃ要するに威張り性ではないのだろう。この間、千葉科学大学の学生に講義しているときに、教師とか先生と言われる人間は、ナーシズムを満足させやすい職業柄、威張り性が多くなると言った。それは実感している。愚生ばかりではない。これは戒めなくてはならないことであろう。

・愚生としばしば私は書く。何故か。それはどこまでいっても私は愚かな人間でしか無いということを、忘れないためである。周囲の人すべてお師匠様であるからである。何にでも、誰にでも学ばさせていただいているからである。それほど、なんのちからもないからである。

・ちからなんかあるわけもない。

・愚かな衆生である。ただひたすら、迷いの世界を生きているだけの人間である。時々言う。「美人が美人に見えるうちはダメだ」と。これって、冗談だろうと言ってくる方がおられるが、本当にそう思っているのである。どうしても、愚生は美人を美しいと思ってしまうのである。骸骨に肉がついておるとは、どうしても思えないのである。

・しかし、ここに限界があるのだ。論理的矛盾を招来してしまう。愚生の愚たる由縁である。醜悪なる部分を見ないということは、言い訳に直結するからである。これはなんでもそうである。呑んだらいけないと言われ、呑んだら酔っ払ってしまうお酒もそうだ。どうしても縁を切ることができないのだ。情け無い。これまで、どれだけ多くの方々にご迷惑をおかけしたのだろうかと思うと、もうカオから火が出る思いである。

・昨日も、勉強会が終わってから、武蔵野大学の前にあるレストランで食事会をした。そこで、ケネス・田中先生の隣に座らせていただく光栄に浴したのである。そして、いつもながらの生ビールを呑んでしまったのである。

・いかん。

・食事しながらの会話がためになるだけに、なぜ真摯に聴いておることができんのだろうと思う。要するにその程度の人間なのであろう。

・来月は唯識学の大家である横山紘一先生が講師をしてくださるのだそうな。これは必ず参加させていただく。楽しみである。

 

・延々とお江戸から、高速バスに乗って帰ってきた。そして、風呂に入る前に、来ていた手紙にびっくりした。なんと別の学会から宿題が来ていたのである。原稿を書かなくてはならん。合格するかどうかはわからない。しかし、楽しいものである。またずっと図書館にこもるつもりである。やることがあるうちがハナですよ。


・それではお休みなさいませ。

 

 

 

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5月24日(木)のつぶやき

2012年05月25日 04時18分17秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

23:48 from web
知人の逝去で、今日は実にがっかりしていた。48歳。なんということであろうか。随分彼とは、同じ国語科教育法について追求していたのだった。

23:49 from web
今日は、午前中千葉科学大学で講義をしていた。しかし、気になっていた。今日の5時から通夜であったからである。

23:50 from web
相当ショックだったのだ。滅多にない頭痛までしていたからである。講義を終わってから、少し休んだくらいである。滅多に無いことであった。

23:51 from web
こんなことがあるのだ。まるで、バイブルのヨブ記と同じではないか。

23:52 from web
まじめに、真摯に、幸福な家庭を構築して、子らに恵まれ、他を大切にし、人間関係を大切にしていた。

23:53 from web
何をしたというのだ・・・・・

23:54 from web
愚生のブログも熱心に見ていただいた。そして、読書については、こんな本も読んだほうがいいと、若い視点で忠告をしてくださった。

23:54 from web
愚生は、若い才能を惜しむ。

23:55 from web
今日はとても、ブログの記事を書く気にはならなかった。

23:56 from web
S氏よ。あなたのためにも、愚生は他者への贈り物をしていきますぜ。

23:56 from web
合掌

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いろいろあった一日でした

2012年05月23日 23時16分56秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
 
 
旧友が大学まで来てくれたので、案内をした・・・しかし相変わらずいい男でありまする。この美男と、城西国際のキャンパスをこうやって並べておくと、絵になりますなぁ。大学職員ではないので、広報活動をするわけにはいかないが、これって素材的に使えますねぇ。。。。もうやらないケド。
 
 
 
・この写真の方は、大学生になったとご連絡を申し上げたら、激励に東金まで来てくださったE氏である。拙ブログの熱心な読者で、会社の社長である。ありがたいこと限りなし。ホンネで語りあえる数少ない方である。仕事が別だったから、こういう関係性を維持できたのだとしみじみ思っている。随分、学校宣伝ではお世話になったのである。広報誌の作り方、生徒募集ポスターの作り方、CD・DVDの作成方法や、アイディア、どのように学校を見せるか、訴えるかということ等々をまさにプロの目から見ていただいて、ご指導をいただいたのである。
 
・それはそれで成功したと自分だけだが思っている。だが、実に楽しい現役時代であったとも感じている。プロの才能に学ぶしかないのである。所詮、アタクシなど何をやっても素人芸。さまにならんのであるから。
 
・やはり、このトシで学生をやっているということに奇異な感じをもたれていた。しかしである。彼には言いそびれたが、他大学での修士課程の学びの時には、86歳の同級生がいたのである。名古屋の方であった。工業技術院の方であった。技術専門で、典型的な理工系。その方は、年下の老人をギター抱えて慰問されているのである。愉快な方である。激励されているのである。「寝てる場合か・・・」ってね。「老人ホームに行って、年下の若輩者が死にそうにしているとハラがたつねぇ・・アハハ」と豪快に言っておられた。

・ワタクシは、その86歳の同級生に相当入れ込みさせていただいた。尊敬しているのである。そして、オレも先輩のようになると約束したのである。毎日、二人でスクーリングに通っていたからである。楽しい御仁であった。またお会いしたいものである。
 
・50歳くらいで奥様を病気で亡くされたとのことであった。以来、ずっと生涯学習をしてこられたのだと言われる。印度にも随分行っておられた。独特の哲学を持っておられた。ある意味実にうらやましい境涯である。
 
・ノートも論文も非常にすぐれた観点から書かれていた。直接見せてもらったが、なかなかのものである。非常に桁違いの実力があることがわかるのだ。伝わってくるのだ。こういう人こそ、本当の優れた人であると思った。
 
・ご自分でデザインされた赤いTシャツを着ておられた。共にバスに乗って、大学まで出かけた。さすがに、体調には注意されていて、晩ご飯に缶ビール一本だけと決めておられた。性格は実に豪快である。
 
・こういふ人にわたしはなりたいと宮澤賢治ばりに言っていた。
 
 
 
・今日は3種類くらいの読書をしていた。一つは能楽源流考を読み込むこと。次は、本学図書館から借りた能楽の専門書の部分的なコピーをさせていただいていた。三つめは、ラカンを読んでいた。クラスメイトたちは、院生室で論文書きを猛烈にしている。凄いものである。近づけない。ぴりぴりしている。のんびり読書しているのは、アタクシだけだ。少し焦らなくてはならん。だから、この土曜日は東京にある修士をいただいた母校で行われる学会に参加してくる。論文の原稿は、すでにいくつか書きためてある。どこかに発表させていただくつもりである。でないと、アトが恐ろしい。実績が全くないのでは、本学で論文を書かせていただけないのであるから。しかし、母校がいくつもあると、戸惑いますなぁ。(^0^)/
 
・生涯学習の世界では超有名人の宮子あずさ様という方がおられる。ナースをやりながら、大学、大学院、そして現在は東京女子医大で看護学の博士後期課程で学んでおられる女性である。いくつか文庫本も出されている。おかぁさまは有名人の作家・評論家の吉武輝子さん。その方のブログにあったのが、「フレンチ・セオリー」というフランスの現代思想を紹介している書籍であった。まったく知らない本であった。だから、マークしていたのである。そして、城西国際のキャンパス内にある書店にふらっと寄ったらその本が、鎮座していたのである。3900円くらいする本である。学生だと割引になるので、衝動買いをしてしまった。そしてそれを読んでいたのである。
 
・かなり難しい本である。しかし、マトリクスをつくりながら読んでいるとある程度は進む。そんなことをしていたら、あの難解なラカンも理解が進むのではないかと、ふと思い立ってやっていたのである。
 
・難しい本というのは、ほんとうに難しい。それは初学者を相手にしていないからである。オレはこんなに知識がある、どうだすごいだろうって言っているのと一緒である。ある意味自己主張である。それはそれでいい。

・もっと良いのが、「難しいか?だったらオレの問題設定に回答できるかね?」とやってくれる本であり、著者である。実に教育的である。そちらの世界から語りかけてくるものがあるからである。こういう本は普段からマークしておかないとなかなか出会えない。むろん受け手であるこちら側の問題意識も当然ないと、いい本には出会えない。さらに、著者の思いやりがある。「そうかわからないかね?・・だったらこれはどうかな」って、語りかけてくるからである。これである。こういうのがいいのである。


 
 
・帰りの電車の中で、配偶者からメールが来た。携帯を覗くと、年下の旧友の訃報であった。仲人も務めさせていだたいたので、衝撃を感じた。なんということであろうか。本当になんということであろうか。

 
・今日はここまでにする。彼のことを悼むことにする。
 

 
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老いについて② なぜ孫はかわいいか

2012年05月22日 09時24分00秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・愚生にも一丁前に孫がいる。男児である。3月に生まれたばかりである。すくすくと育っていて、実にかわいい。ただし、実に残念であるが、県外にいる。よって、なかなか会えない。長女の子である。

・人並みに、爺馬鹿ぶりを発揮している。かわいくてならないのだ。だっこしてもかわいい、寝顔を見ていてもかわいい。まったく馬鹿である。他人が見たら、嘲笑の対象である。

・で、しばし考えた。

・なんでだろうかということである。

・しかも、爺と婆では、かわいさが異なっているのではないかということに気がついた。配偶者(こっちは婆)とそういう意見で一致したのである。男の方(こっちは爺)が、異常にかわいがるということである。肯定する。私自身は。間違いない。義兄もそうだし。

・老いの問題がそこにあるのではないかと、ふと思った。

・孫がかわいいのは、自分が、もう子孫を残すことができず、生物としての能力に欠けるということに気がついたからである。老いたからである。自分の子どもまではいい。自分の生物としての能力の証である。しかし、孫は子どもの子どもである。隔世なのである。

・そこには大きな隔たりがある。寂寥とも違うような気がする。だんだんと、それこそ真綿で首を絞めるように、生物的な時間が失われていくのである。それを寂寥と言うならそうであろう。あるいは、死ぬということへの恐怖。あるいは、周囲のもの全てを失っていくという無力感。

・そうしたものが、老いということの強烈な衝撃であるのかもしれない。それに気がついたのが、孫の誕生である。もう、世代としては終わったのだという宣告をされたようなものである。

・だから、自分よりもずっと若い世代には、応援したくなるのである。いい人生を送りなさいよ、電車の中であふぉ~なゲームばかりやっていないで、ちょっとでも勉強しないといけませんよと言いたくなる。ただの説教爺である。ま、じっと我慢しているが。説教しても無視されるだけでしょうからなぁ(^0^)/

・だいたい、若い世代の親たちが情け無い。金儲けのことしかアタマにない。なんでもかんでも、浮き世のつまらないことばかり。クルマ、豪邸、貯金の額、美食、ファッション、スマホ、ブランドもの、髪の毛があるかないか、不倫、セクハラ、恋愛、適齢期、学歴、ライセンス、身長、体重、健康オタク、最後に出世・・・・・・・・・・・ああ、もう止めた。髪の毛が特にそうだが、ここにあげたものみんなアタクシには無いものばかりである。(あの・・わたくし禿頭なんです=(^0^)/)

・みんなどうでもいいことばかり。孫ができると、そういうことがどれだけ無意味であったかを知らされる。だって、孫ができたということは、オノレが滅亡するということを目の前で知らされるのであるから。

・私は、生まれ変わりを信ずることがまだできない。よって死後のことは楽観的に考えることができない。これからどうなるかはわからないのだが。それでも、浮き世というものが永遠でないということだけは信じている。孫は、そういうことを天に代わって私に説教してくださっているのである。

・だから愛しいのである。言い換えれば、失われていく我がいのちへの哀惜である。いまからそれを自覚して生きていくしかないのである。若いときに、そう10代のときに、そのことだけは気がついていた。老いの問題についてである。だから、高校時代に印度哲学に憧憬したのだろう。他にはなんにも気がついていなかったから、こんな中途半端な人生を送る羽目になってしまったのだケド。

・本当になんにも自慢できるものがない。みんな中途半端である。柔道がその頂点である。15歳からやってきて、まだ4段。これでは話にならん。しかも、痩せてしまって、受け身をとると、ケツが痛いのだ。自虐だ。笑ってしまうくらいに情け無い。ベンチプレスで140キロもあげていたのが信じられない。プロティンも呑んでいたんでっせ。信じられません。

・勉強もそうである。城西国際のレベルの高さに怯えている。本当になぜ死ぬほど勉強してこなかったのかと自責の念にかられている。死生学でも、国文学でも知らないことが多すぎて困っている。中途半端である。

・人格的にも中途半端である。まったく人間ができていない。喜怒哀楽が未だにカオにでるのである。

・さらに、むこうから美人がくると美人に見えてしまうのだ。どうしても骸骨が歩いているように見えないのである。まったく情け無い。

・どうやったら、過去の高僧達のように、あるいは哲人たちのように老いることができるのかと悩んでいるのである。修行不足である。まったく。



・孫にわらわれっちまうですな・・・(^0^)/ウフフ

 

 

 

 

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老いについて① 知恵者としての老人

2012年05月21日 18時14分40秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・死生学についてずっと追求してきたと標榜する以上、あるいはその観点から老いというものを考えることはこれからの私にとって貴重な試みである。

・むろん最後は唯識と能というテーマにもっていきたいのだけれど、できるかなぁと逡巡してしまう。壮大なチャレンジをしてしまったものである。

・今日は、「能楽源流考」をamazonから購入したので、えっちらこっちら大学まで持参してきた。相当に重い。金と腕力がないので、大変である。(^0^)/

・そして読み始めた。基本書中の基本書なので、これはおろそかにできない。そして、なぜ基本書中の基本書であるかよく理解できた。さすがに碩学の書かれた本である。引用文がすばらしいのである。原文について、相当の力がないと読み解くことができない。漢文だらけである。

・慨嘆ばかりしていたが、このままではいけない。チャレンジである。明日も大学にきて、ずっと読解作業である。ありがたいものである。

 

・そして、このタイトルのように老年について読解作業の合間に書くことで、ずっとあたためている「書きたいこと」への真相に迫りたいと思っているのである。もう気がつかれた方もおられるだろうが、このブログは私のおもちゃである。知的玩具。

・ここに書くつもりで、各種文献を読み込むのである。けっこうハードであるが、なかなかいい。わかりやすく書いていけるからである。なにアタクシの他に、5人くらいの読者である。ともかくやってみるしかないというのが、私のこれまでのモットーでもあったから。

・老いを生きるというのは民俗学的にも非常におもしろい分野であろう。

・現在の日本では「定年後」というのがキーワードで、愚生のこのブログも、定年後どう生きるかという視点で読んでくださっている方がおられると思う。その場合、マイナス思考というか下降志向というか、おとなしくしておれ!という不快感が後ろに隠されているような気がしてならないのだが。

・たしかに私のような老人は目障りであろうと思う。しかしだ。積極的に人生の最終チャレンジをしていってもいいのではないか。たとえ邪魔であってもだ。

・青森県の五戸地方には、どの村にも「よのなかじじ」というのがいる。東京の民間人校長で名をはせた藤原先生の「よのなか科」とは違う。呼び名が似ているだけである。

・よのなかじじとはどう書くのか。それは、「世の中爺」である。彼らは誰よりも時候の推移に敏感であった。いつも風の吹き方、雨の降り方、雪の積もり方、霜のおり方、川の水音など、あらゆる天然自然現象を注意深く観察していた。

・村の人々は、そういう老人に尊称として「よのなかじじ」を奉ったわけである。だから、老人はかつては共同体の運命を左右するほどの存在であったのである。

・他に「東方作さん」というのもある。作試しをする老人のことである。

・元旦の朝、小高い丘に登って、星の回り方、雲の流れを観察してその年の作柄を見極める老人のことである。極めて地位の高いものであったそうな。わかるような気がする。

・徒然草の168段には、老人についてのおもしろい記述がある。

「年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて『この人の後には、誰にか問わん』など言はるるは、老いの方人にて生けるも徒らならず・・・『今は忘れにけり』と言ひてありなん・・・」の部分である

・老人は、たとえ優れた能力を持っていたとしても『今は忘れにけり』というちょっと離れたポーズをとった方がよろしいというのである。

・なかなかの教えである。そういう自然体がよろしいのである。

・ゆめゆめ、老害をまき散らしてはならんのである。知らない方がいいことも世の中にはたくさんあったからである。まして、それを若い人に押しつけて得意になっていたらなにをかいわんや。

・「老い」を「生い」に変えていかなくてはならんのである。そんなことも、今日は院生室で考えたのである。おっと、いんせいしつと入力したら、隠棲室と変換したのはもっとびっくりしたが。

 

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5月20日(日)のつぶやき

2012年05月21日 04時04分43秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
07:46 from web (Re: @CIS_DPS
@CIS_DPS がんばってください。心底応援していますよ!

07:49 from web
天気もよし、気分もよし。よしよしよしのまま、これから柔道の大会に応援に行きます。もう、審判もなにもやらんでいいと言われているので、こりゃぁ気楽であります。だって、お目々がつらくなってきましたから。誤審をやったら申し訳ないですからねぇ・・・・・

07:50 from web
柔道ブログもやっているので、そちらに載せる動画でも撮ってきましょう。

07:54 from web
それにしても、愚生が柔道の現役であったということが信じられないです。こんな細身の体になってしまって・・・・・トホホであります。この間、S市の教育長に会った時、随分小さくなったねぇと言われましたっけ。違うんです。小さくなったんではなく、やせたんです(^0^)/

07:57 from web
昨日の塾では、この辺では進学校として有名なS高校の2年生と英語をやりました。定期テストの勉強だったんですが、さすがにできる。たいしたものであります。ある意味安心しました。トップ高が頑張らないと地域のレヴェルは向上しないからです。

07:58 from web
塾に行くようになって、こちらも勉強するようになりました(^-^)/

08:00 from web
アタマの活性化にはいいですねぇ。実にいい。ぼけている暇がないように、自分を追い込むことですよ。だから、生涯学習です。何の見返りも求めない。見返りなんかあるはずもない。第一、そんなの要らない。だって、もう終わったんですからね。仕事もなんも。

08:01 from web
ついつい、学校時代のことを話して、昨日は配偶者に叱られてしまった。もう学校時代のことなんか、忘れてしまいなさいよ、未練がましい、みっともないという論法でした。確かに、そうであります。追放されたんですから、ね。

08:05 from web
これからは好きなことを、バンバンやっていくしかないんです。そう思いました。趣味で生きていくんです。趣味は読書であり、大学で勉強することですから。安いクルマなんか買って満足しているよりずっといい。と言っておいて、ホンダのCB400Fでも買おうかなと思っているアタクシもいますけど

08:07 from web
バイク歴は長かったんです。ヤマハの50のビジバイ、RD90、XL250、それから250CCのスクーターを2台、間でCB400の旧型を乗っていました。

08:09 from web
それで42年間無事故・無違反。これは自分に誇りうる栄冠。誰も認めてくれませんがね。自分で自分を褒めているしかないんですケド。

08:10 from web
さ、それでは柔道会場へ。わたくしの居住地で行われますので。

by tym943 on Twitter
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映画「再会の食卓」を見て

2012年05月19日 09時17分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年


2011年正月第2弾、TOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開
中国と台湾の歴史に翻弄(ほんろう)された元夫婦の悲喜こもごもを描き、家族とはどうあるべきかを問い掛ける人間ドラマ。40数年前に妻と離ればなれになった台湾の老兵が

­、上海に新しい家族を持つ妻の元を訪ねたことから、家族それぞれの思いが浮き彫りになっていく様子を映し出す。監督は、『トゥヤーの結婚』で国際的な名声を得たワン・チュ­アンアン。第60回ベルリン国際映画祭の最優秀脚本賞にあたる銀熊賞を受賞した、深みのあるストーリーに感じ入る。
配給:ギャガ




・ここのところずっと固い記事ばかり書いてきたので肩が凝った。当たり前である。固い人間ではないからである。私はただのおっちょこちょいで、まるっきり漫談みたいな人生を送ってきてしまったからである。致し方なし。それでも、こんな人間でもいい映画には感動することもある。

・この映画は、昨日、大学の講義の空き時間に見させていただいたものである。タイトルも聞いたことがなかったが、紹介にまず興味を持ったのである。政治と文学というテーマであると思った。最初は。ドストエフスキーみたいだなと感じたのである。ドストエフスキーは学部時代の卒論のテーマでもあったから、それなりに読みこんだつもりであるからである。

・そんな感じで見させていただいた。あくまで空き時間である。それにクラスメイトも一緒であったから気軽に見始めた。字幕があるから、わかるよと同級生諸君(こんなじじぃに同級生とは死んでも言われたくないだろうケド)に言われて見始めたのだが、画面が小さくて困った。こっちに来なさいよと言われて、一番前に座らせていただいた。それでもまだ小さいので、フンフンとうなりながらである。

・遅れてきた同級生が来てからそれが一変した。なんと、手元の機械であっという間に画面を大きくしてくださったのである。リモコンというのだそうである。笑った。こんなこともオイラは知らないのかって、ね。自宅のテレビと一緒じゃないかと。もっともテレビは殆ど見ないからなぁ。。。。。

・しかしである。そこからぐいぐい引きつけられていった。政治的にはまったくの素人であるから以下の感想文は、素人の戯言として書かせていただくケド。


・二人の男性に翻弄される女性。彼女の生き方を、決して他人事ではないと思ったからである。妻として、たった一年だけ過ごした男性が、国民党で一緒に逃げようとした港で会えなくて、彼女は一人中国に残されてしまう。

・彼女はその後、大陸側で、夫と多くの子とも達と40年にわたって家庭を構築して、それなりに幸福に過ごしていく。そして、ある日突然一年だけ過ごした前の夫が、上海の彼女の家を訪ねてくるのである。そこからの描き方が抜群であった。

・女性主人公を主役として考えていくのであろう、普通は。有名な女優さんだそうで、不勉強な私は、知らなかった。彼女の陰影に富む演技は実にすばらしい。迷いや、悩み、前の夫と再婚しようと決意するまでの起伏ある心理状態を見事に演じきっている。

・それよりも、現在の夫を演じた男優さんがすばらしい。彼は、前の夫と再婚を決意する妻を許すどころか、応援するのである。これにはびっくりした。脚本の見事さであろう。そして役者の演じ方も実にいい。

・なぜそんなことが言えるのであろうかと思ったのである。そこまで見事に割り切れることができるのだろうかとも。カードをとりながら見ていたので、だんだん分析的になってきていた。素直に見られないのである、アタシャ。

・そして、気がついた。現在の夫もまた、政治的に痛みを負って生きていたのであった。台湾にいる前の夫も、戦争で引き裂かれ、政治的な争いの中で痛みを背負っていたのであった。

・二人とも、主体を生きることができなかったのである。他者に翻弄され、価値を信ずることができず生きてきたのであろう。なんともなんともいたましいことであった。それに気がついたら、実に哀しくなって、お目目からアセが出てきた。すぐ後ろの同級生もグスングスンとやっていた。私以外は全員(3人しかいないが)中国の大学の先生方である。しかも女性であるから、身につまされたのだろうか。私だって目からアセが出るのである。当時者としてはもっと切実なのだろう。もっとも、これ以上は書かない。国情の違いというものがあるだろうから。

・されど身につまされた。

・なぜか。それは、私の配偶者が、この映画の主人公のように、ある日突然、前の・・・とか言っていなくなったらどうしようと思ったのである。あっても不思議ではない。可能性として。

・それにしても急転直下。現在の夫は、脳梗塞になってしまう。それでも、この夫は言う。妻に。あなたの幸福のためにはそれがいいのだと。できた夫である。ここまで言えるかということである。アタシャ言えないです。くだらない煩悩の固まりでありますから。

・さらにできた男が、前の夫。すべてをそれであきらめるのである。これ以上は書かない。書いてはいけない。映画会社に叱られてしまう。

・いい映画だった。身につまされるという点を除けばであるが。

 

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「瑜伽行派の形成」について その2

2012年05月19日 06時50分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

唯識の原点をさぐる その2



「新装版 講座大乗仏教第8巻 唯識思想 平川彰・梶山雄一・高崎直道編 1982年 春秋社」所載「『瑜伽行派の形成』 高崎直道著」(同書pp.1-42)を読む。

 


1 はじめに
 唯識の伝統を考える上で、「瑜伽行派の形成」は避けて通れないものであろう。
 インドの大乗仏教は、中観と瑜伽行の両派につきる。この後者のものが唯識思想である。非常に難解な部分ではあるが、ここをいい加減に素通りすると、後がいけなくなる。

 どれだけ理解しているかという自分自身への戒めとしても重要な記事である。

 伝統的な唯識学というのは、もっとも精密な理論体系であって、ただ単に法相宗の宗学という規定だけではその枠に収まりきれない。もっとも、私は、特定の宗派をどうのこうのということが嫌いである。幅広く宗教思想を学んでいきたいと思っている。それはまるで信仰とは違うものである。それはそれで理解をしている。あってはならないことであるとも思っている。しかし、追求だけはしていきたいのである。思想として。

 だからお許しいただきたい。こんな形でいろいろと書き始めていることを。一人の信仰者としてではないからである。真剣にそれぞれの宗教を信仰なさっている方にはまことに申し訳ないとは思っている。決して信仰をないがしろにしているわけではないからである。

 さて、唯識3年、倶舎8年と言われて江戸時代には多くの学僧が奈良に勉強をしにいったものである。倶舎を8年やれば、唯識は3年で済むというのがこのたとえである。
 倶舎は、世親の「阿毘達磨倶舎論」(唐 玄奘訳 30巻)であり、唯識は「成唯識論 玄奘訳 10巻」のことである。
 この後者の成唯識論は、私の尊敬している岡野守也先生の労作によって何度も読書体験をさせていただいてきた。非常に興味深い分野である。ただし、これまでの私の学習では、正直ここまでの初歩段階であって、まだまだ追求すべき課題が多い。

 以下にそのポイントについて述べる。


2 倶舎と唯識
 世親の「阿毘達磨倶舎論」は、南都六宗の一つである倶舎宗の論典である。道昭等が法相宗を伝えた時に、「成唯識論」と併せて「倶舎論」をもたらしたのに始まる。その最初から法相宗にあわせもってスタートしたものである。
 この時期の「宗」というのは、むしろ学派に近いニュアンスを持っている。したがって倶舎宗は倶舎学というべきものであった。
 両者に「性相学」としての共通性があったのである。「性相」とは、法性と法相であって、法性とは共通する本質をいい、法相とは諸法の個別的特色である。倶舎では、あらゆる存在を七五種の基本的要素に還元し、さらに色、心、心所、心不相応行、無為の五種類にまとめ、これを五位七十五法と呼びならわしている。

 同様に唯識では、五位百法をたてる。これが法の体系である。言わば法相分類学という意味で、法相宗と呼ばれるのである。天台宗が特に法性に教理の重点を置くのに対して、名付けられたものであった。

 性相学であるが、倶舎は小乗に属し、唯識は大乗に属する。
 唯識は空性説に立脚しているからである。

3 近代の唯識思想研究
 明治時代に入り、近代ヨーロッパのインド学の手法が導入されて、唯識研究の手法も変化してきた。
 日本において最初に唯識説に関心を示したのは、宇井伯寿である。宇井は、1916年にケンブリッジに留学中に「『唯識』の原語について」を発表した。(同書 p.4)
 その後、宇井は、多くの論文を発表したが、摂大乗論研究によって、真諦の伝えた旧訳の唯識説が、無着・世親の真意を伝えるものとして、一大論争を引き起こした。
 宇井の説は、伝統批判を行ったわけであるが、かえって真諦の学説への絶対評価となってしまった。それが法相教学の絶対視につながってしまった。
 
 宇井と並んで唯識学説研究に寄与したのは、山口益である。
 山口は我が国の唯識説研究にチベット訳の重要性を唱えたこと、その結果としての後期インド仏教研究が進歩したのである。
 戦後も、宇井・山口両碩学の功績は大きい。

4 唯識思想の担い手 瑜伽行派
 唯識とは、「一切の法はただ識(=表象)にほかならない」ということで、これを唯識説と呼んでいる。この学説を創始し、継承・発展させた人々は、ヨーガーチャーラと呼ばれている。(同書 p.7)

 七世紀の後半にインド仏教の状況として、「大乗は、二種をすぐることなし。一はすなわち中観、二はすなわち瑜伽なり」(同書 p.7)とある。
 つまり、中観と瑜伽がそれぞれ中国文献に初出の語である。マーディヤミカ、すなわち「中の派」を中観と呼ぶ。そして、ヨーガーチャーラーは瑜伽である。

5 瑜伽師の系譜
 瑜伽師とは、仏教修行者のすべてを指す。(同書 p.8) 
 しかし、著者の場合は、仏教内部における特定グループを言う。関わりのあるのが、玄奘の「瑜伽師地論」である。この書籍は100巻にも及ぶ膨大なものであって、玄奘一人で成し遂げられたかどうかは不明確であるが、無着(アサンガ)が、衆の前で講じたものであるともされている。むろん、弥勒が無着に授けたものであるという説もある。

 この瑜伽行師たちのとった特有の観法が「唯識観」であった。

6 唯識観について
 喩伽行派の実践目標である。
 解深密経の分別喩伽品には面白い問答がある。
 それは、一言で言うと「心が対象と一つになるような作意」とでも言うべきことが書かれてあるからである。問うのは、弥勒菩薩である。なんともレベルの高い方々の対話である。認識の構造という問題が扱われているからである。映像がこころに他ならぬという体得を直接的に問題にしている。
 このことの意義は尊い。(同書 pp.12-14)

7 解深密
 この経の名前は、謎解きを表している。
 それではなんの謎解きをしたのか。

 「世尊よ、何の密意によりてこの如き説をなすや-一切法は皆自性なし」とあるように、X(A₁、A₂、A₃、A₄・・・・・)とあるならば、それを結びつけて、Bがあるというような論理の展開をさす。Bという表現にA₁、A₂、A₃、A₄というような意味が含まれているというわけである。そのBをサンディというのである。言外の意味、意趣と言ってもいい。密意、深密と訳す。つまりA₁、A₂、A₃、A₄を謎とくわけである。

 それでは、解深密はなんの謎解きをしたのか。それが 「世尊よ、何の密意によりてこの如き説をなすや-一切法は皆自性なし」の部分なのである。

 上記の「一切法は皆自性なし」が、Bに相当する。すでに書かれた教えや説である。それが皆自性なしという結論がここで書かれてしまっている。つまり「X」(エックス)には密意であるA₁、A₂、A₃、A₄が含まれているのである。この辺りが非常に楽しく、面白い点である。まるで数学ではないかとも私は思うのである。そのA₁、A₂、A₃、A₄とは、相と生と勝義の3点であると書かれているのである。そこまでは踏み込まないが。(pp.14-16)

8 密意としての三性説
 遍依円の三性説こそが、「一切法無自性」の密意の内容に他ならない(p.17)と著者は説かれる。

 非常に重要なご指摘である。

 「遍計所執相」とは仏の教説中のあれこれのこと=法。個別的な存在。

 「依他起相」は、縁起である。これあるとき、これあり、これ生ずるとき、かれ生ずるということである。

 「円成実相」は、一切法の平等の真如である。

 問題は「一切法相」であって、基本は縁起ということであろう。しかしながら、縁起無自性ということは、修行の結果理解可能であるということであって、私のような者が、ここで知ったかぶりをすることが許されるかどうかということについては、ただひたすらカオを赤らめているしかないことである。私自身初学者であるから、もう少し私の記事につきあっていただきたい。まだ、私の問題意識が明らかになっていないからである。

 つまり、一切の法が無自性であるならば、そこに名を冠し、名に対応する表象を仮想するのであるから、そこはあくまでも言語的な世界である筈である。それをなぜ、仏教は無自性と言うのか。これである。これこそが、私の興味を抱かざるを得ない部分なのである。

 そこに執着してしまったら、私のようなものは、無知蒙昧、あるいは迷える衆生から一歩も進まない。(迷いすぎている衆生である・・・・認めます・・・・自分でも)

 そんなことはハナからわかってはいたけれども、そしてだからこそ、執着してはいけないと思うことにしているが、これは難しい。なぜなら、私は僧侶でもないし、信仰という問題ではハズレものであるからである。先祖代々所属してきた曹洞宗はここに触れていない。(と、初学者の私は思っている)他の宗派でもそうである。法相宗がその総本山ではあるが。もっともここでどこがいいとか、なんとかということを申し上げているのではない。ゆっくりと自分なりに納得いくまで読書していきたいだけである。だから、長生きをしたいのである。あまりにも膨大であるからである。

 さぁ、ここで「能」との関連性が出てくるのである。つまり言語的表現と、舞と、劇としての能との関連性である。ここではこれ以上は書かないが、実に私には興味がある分野である。

 しかしながら、ここでは他者を仮構する、あるいは思索しているこちら側の自分というものの視点が明らかになっていない。この点は決してないがしろにできない部分である。

 つまり、主体性がない。表面に出ていないのである。これもまた面白い。なぜなら、能もまた秘ということを問題にしているではないか。表面に出ていない部分を読み取ることで能は成り立っているのである。これ以上は書かないが、またまた興味のある分野であることだけを、この記事にメモとして残しておきたい。



 

 

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5月18日(金)のつぶやき

2012年05月19日 03時51分59秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年


23:08 from Tweet Button
再会の食卓 blog.goo.ne.jp/barriosmangre/…いい映画をみさせていただいた。。。。。。。。政治に翻弄される一組の夫婦の物語である。

23:11 from web
この映画、ドストエフスキーならばどう描くかと感じていた。カードを取りながら見ていた。困難な話題である。中国国民党と共産党の狭間にあって、愛をどう貫くかという実に重いテーマであった。

23:14 from web
政治と文学という課題は、おそろしく膨大な問題であろう。。。。。まさにドストエフスキーでないと書けないなぁ。

23:16 from web
中国の人々を描いているわけであるが、同じ人間であるということである。やはり、政治の扱えない部分が文学にはあるのかもしれない。

23:22 from web
今日はクラスメイトたちと延々10時から夕方の6時まで議論や、発表や、映像をみたりしていた。実に有意義で楽しい時間をすごさせていただいた。すばらしい方々である。相当なエリートだとは思っていたが、違わなかった。母国語の中国語と、英語もできるし、日本語はプロ。

23:24 from web
凄い人が世の中にはおられるもんです。あたしゃ日本語もままならぬ。だみ声だし、ホトホト、トホホであります。

23:26 from web
一番しびれたのが、川端康成の雪国の冒頭部分を翻訳していただいたとき。これって、なかなか日本語を母国語としていても、難しいのに。説明していただいて、なるほどと思いました。

23:31 from web
それと、知性のある方々は違う。マナーも違う。

23:36 from web
村上龍あたりは、この辺を例の調子で皮肉っているが、つまり知性のある人はなんとやらということである。そもそも、私は村上龍が嫌いであるが、文庫本は全部読んだ。嫌いなのに、なんとくなく気になるのです。悪友みたいなものです。つきあいたくないのについつい会ってしまうという、悪友(^0^)/

23:46 from web
しかしです。60過ぎて、毎日勉強することになるとは、お釈迦様でもわからんかったでしょうなぁ・・・いやぁ、充実しています。なんだか、ますます心身ともに快調であります。すばらしい方々が、クラスメイトとして周囲におられるだけでも、知的な刺激になります。

23:47 from web
就寝まであとすこしあります。もうちょっと学びましょう。60の手習いであります。ありがたいことであります。

by tym943 on Twitter

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/