年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

再び飯能へ行って確認・飯能戦争を調べる。

2020年11月09日 | 宅老のグチ
前回の飯能へ行った時、平日なのに漬物パ-クに知り合いがいた。あとから考えると予定の通告もしていないので不思議感が残っていた。こうなると閑な年よりは夜中に起きて検索するが漬物パ-クの所では納得いく違和感解消となるものは見つからなかった。
 昨日、福神漬のことで上野戦争(彰義隊)のことを見直していた時、振武軍という言葉が見つかった。特攻した叔父は台湾から出撃したので陸軍第八航空隊で出撃作戦名は(誠)とから始まる番号が付けられていた。鹿児島の陸軍知覧基地から出撃したのは陸軍第六航空隊で出撃作戦名は(振武)と命名され100以上の名前がある。そこで振武と誠の先の戦争の時の意味ツケを調べようとした。すると振武軍・振武会とか検索で出てくる。多くは剣道・弓道とかの古武道の団体名だった。
 振武軍という言葉があった。内容は明治の初めに上野に集まった旧幕府となった徳川慶喜の謹慎に対する不満分子が徳川の意地を示そうと会合を持ち、一橋家にゆかりのある渋沢成一郎が振武軍を作った。


慶応4年(1868)、上野に籠った彰義隊の頭取だった渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)は、副頭取の天野八郎と対立して上野を去り、田無で新たに振武軍を結成する。この時、田無や府中、所沢、拝島、更には日野といった多摩各村から軍用金を徴収している。
1868年5月15日(旧暦で新暦だと梅雨時の7月4日)、官軍大村益次郎の事前攻撃予告で上野戦争が勃発すると振武軍も上野へと向かうが、彰義隊の敗報が伝わると田無へ引き返している。

その後、彰義隊の敗残兵も加えた振武軍は飯能へ移動、天覧山(当時は羅漢山)の麓の能仁寺を本営とし、周辺の智観寺や廣渡寺、玉宝寺、観音寺などに宿営する。飯能戦争時は振武軍は約500名程度。
そこへ久留米藩や筑前藩、川越藩などから成る新政府軍3500名が方々から進軍し、5月23日に一斉攻撃を開始する。これが飯能戦争と呼ばれる戦い。圧倒的な兵力と火器を有する新政府軍を前に抗する術もなく、振武軍は僅か一日で敗走した。要は刀対銃の争いで刀の戦いでは振武軍は勝つがにらみ合いとなって銃で撃たれ戦死したのは振武軍が多い様だ。
 飯能戦争は平成23年に飯能博物館で特別展があって、この時編纂された本が飯能戦争を一番理解しやすい。だが既に完売とのことで飯能市図書館で読むことが出来る。
 訪問した図書館は入った時は図書館の隣の駐車場が空いていたのに、2時間ほど経って帰るときは、満車で警備員が誘導していた。100台以上は停まっていた。そんなに図書館が人気と思って帰るとき、漬物パ-クの道案内の警備員が図書館隣接駐車場を臨時駐車場としていた。先に訪問していた時は漬物パ-クの前の市民会館駐車場・歴史博物館の駐車場が空いていたが8日は市民会館の行事があるようで閉鎖され、図書館の方に誘導されたようだ。
 このコロナで新規の勤務先が増えた飯能の市を挙げて協力している気がする。駅からの途中の花屋さんで図書館へ行く道を聞いたら、図書館の隣もぜひ寄ってくださいと言っていた。西武線飯能駅の観光案内所で市内の地図をもらい、昭和の雰囲気がかすかに残る街を散策する。名栗川でバ-ベキュ-をしている家族連れもあった。ムーミンパ-クは車となるが、漬物パ-クは歩きの方が良いかもしれない。一応飯能駅の案内では徒歩15分というが途中観音寺で白い象を見たりしたのでもう少しかかった。


コメント
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