横須賀市の中央図書館で浦賀と房州との文献を見ていたら、干鰯(魚肥)のことを田作りと書いてあるのがあった。江戸時代関西で木綿栽培がさかんとなり、西からの物資を運んだ帰りの荷物として肥料となる干鰯産業が房州の漁業だった。関西の先進的な漁法を取り入れ飛躍的に生産量が上がり、さらに木綿が江戸時代普及した。干鰯の流通は西浦賀を中心として行われていた。資料を見ていると人的交流も多いようだ。
正月のお節に(田つくり)があるのは豊作を願ったと思われる。
横須賀市の中央図書館で浦賀と房州との文献を見ていたら、干鰯(魚肥)のことを田作りと書いてあるのがあった。江戸時代関西で木綿栽培がさかんとなり、西からの物資を運んだ帰りの荷物として肥料となる干鰯産業が房州の漁業だった。関西の先進的な漁法を取り入れ飛躍的に生産量が上がり、さらに木綿が江戸時代普及した。干鰯の流通は西浦賀を中心として行われていた。資料を見ていると人的交流も多いようだ。
正月のお節に(田つくり)があるのは豊作を願ったと思われる。