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愛の観念を歴史的に見ると

2019-02-15 13:52:21 | 日記
  愛の観念が非常に発達した地域は中東とインドである。新旧の聖書を読むと、多くの人々は勿論、多くの民族・国・グループが出てくる。中東では非常に早くから価値観も異なる多くの人々が交流していたわけだ。古代インドでも同じだった。その場合、ただでさえ意見も衝突し、ケンカにもなりがちだから、その対策を打ち出し合う必要がある。例の「神を通した付き合い」もその一つだが、それだけでもどうにもならなかった。それ故、次第に人と人とが互いに受け止め合うこと=愛を求める必要に気が付き、愛の観念が生まれ、発達していったように僕には思えて仕方ない。その果てに、中東ではイエスやムハンマドが現れ、隣人愛を強調し、インドではシャカが現れ、普遍的な広い愛を説いたわけである。(ムハンマドも隣人愛を説いた。又、隣人愛の観念は旧約聖書時代からあった。イエスの発明ではない)。


  つまり、「愛」は人と人のたくさんの交流から生み出された観念だと言えるのではないか。

  これに対し、日本も中国・朝鮮・インド、近代以降は西洋からの文化・文明の影響は受けているとは言え、中東ほどは人々の交流は乏しく、また、地域に固定して一生を送る人たちもつい150年前までは非常に多かった。「仲間意識・仲良し」という独特の内向きで情緒的な観念は発達したが、その必要性の薄さから愛の観念は余り発達しなかったかもしれない。明治維新以降も、旧帝国憲法の結婚観は男上位で、イエの維持目的のものになっていたし。新憲法でようやく男女愛が社会的に認められたわけである。男女愛に限らず、愛の観念の浸透が非常に遅れた。でも、今の国際化や高齢化社会では、福祉にしろ、外国人との付き合いにしろ、愛=受け入れる観念は欠かせない。また、愛の観念浸透が遅れたため、非婚率が上がったり、性欲目的の結婚も増え、愛がないため、夫婦不和や子供虐待にもつながっている。心愛ちゃんの件は痛ましいが、それも氷山の一角に過ぎないわけである。男女は体だけでなく、脳の構造も違うから発想も違ってくるし、親子は世代が違うから同様に発想も違う。理解し合う事は難しく、受け止め合い=愛で対応するしかないわけである。「仲よくしよう」などと悠長な事は言っていられないわけだ。

  これからの日本もかつての中東やインド同様に、多くの人々が交流した果て、自然に愛の観念が発達するだろうか。そうあって欲しいと僕は思うし、また、そうしないと日本社会は確実に滅ぶわけである。

  (参考文献.新旧聖書。日本語訳コーラン(岩波文庫)。高田好胤、玄侑宗久の諸々の著作)

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