トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

フェイスブック投稿から

2020-10-31 11:49:38 | 日記
2010年ごろ、ブログ・サイトのアメーバで知り合った二人の女性。どちらもフェイスブックには登録していないようですから、書けますが、こんな事があったとか。
  どちらも一男性に尽くそうとして、大金と肉体を搾取される結果に終わった。理由の一つは男側ですね。エゴで凝り固まり、甘えも強いという。言うまでもありません。
  でも、二人の女性にも問題が。まず、尽くし=愛か。違うと思うわけです。僕は女性たちにも指摘し、女性たちも気が付いていたようです。麻原やヒットラーに置き換えても判ると思います。悪いことしている麻原にただ尽くす事は愛ではないですが、それと同じです。
  もう一つは、何故尽くしたか? 「仲良くなりたいから」という本音があったのではないかと。仲良し=愛で、又、仲良くなれば、寂しさは消えるという意識が見られます。その二人も「寂しさ」を訴えていましたし。でも、感覚に過ぎない仲良し関係では、むしろ、仲良くなればなるほど、寂しくなるわけです。
  さらにその二人は今度はの僕に仲よくしようとしましたが、それぞれ失敗し、縁も早くに切れています。当時の僕もまだ仲よくと愛の区別がよく判らなかったし。「僕と仲よくしようとして、付き合いができず、早くに絶縁」はそれまで出会った無数の人たちに多くあった事です。五体満足だろうが、身障者や知的障碍者、ハンセン氏病元患者だろうが、変わりがなかった。何も僕に対してだけでもないでしょう。多くは「仲よくすれば、自分の持つ寂しさは消える」と思っている。それは幻想ですが。大体、感覚からは幻想しか出てこないわけですからね。
  今の僕は仲よくと愛の違いを説明できる。諸行無常。自分も刻々変化しているわけです。
  因みに、仲よくしようとしての離婚や親子不和も多いですね。以上は無数に多い例のほんの一部です。

仲良しと愛

2020-10-30 13:14:47 | 日記
心の向きが反対である事に気が付かされる。「仲良し」は感覚や気が合う人たちだけに限られるから、まずは狭くなる。また、それらもエゴの働きであるし、心のメッキみたいなものである。メッキが剥がれた時に、エゴとエゴがぶつかりそうになる。その場合、そのままぶつかり、ケンカになるか、それとも、互いに避けて絶縁になるかのどちらか。僕も仲が良い人ほど、ケンカして絶縁してきたし、他人や、僕の入っていた複数の会もそうだった。まさに「仲良し関係の落とし穴」である。


  これに対し、愛はまず相手の言う事を聞き、こっちも聞いてもらい、ちゃんと気持ちを理解し合い、深く思いやる関係だから、感覚が合わなくても、親友になれるわけである。理解し合う以上、互いのエゴも抑えられ、ケンカや絶縁にはならない。

  以上の二つのどちらが良いか、選択するか、言うまでもなく、愛である。そのような親友を持てるだけでも人は幸せになれる。恋人なり、夫婦にもそのような関係があれば、更に良いかもしれない。


  ところが、日本では、明治期にできた教育勅語から文部省や教育関係では、「仲良く」を強調し、天皇が表舞台から退き、教育勅語が廃止された戦後も、その路線を続けた。「仲よくする事は良い事じゃないか」と。映画監督で、教育評論家でもある羽仁進氏が早くからそれに警鐘を鳴らしてきたが、他はほとんど注目しなかった。70年代に一時教育関係に首を出した新左翼系会でさえも「仲良し主義」だったし。本当に明治の教育勅語で、「仲良し洗脳」が日本にできてしまったと考えたくなるほどだ。

  とは言え、理性が未発達で子供たちは特に感覚的に交友する傾向にあるから、仲良くできる子とは仲良くなり、感覚が合わない子にはいじめたりもする。何かの理由で皆と感覚的に掛け離れている子にはクラスでいじめる。また、仲が良い子たちも、感覚のメッキが剥がれたら、ケンカやイジメ。つまり、「仲よくしましょう」という教えではダメである。聖書ではないが、「愛しましょう」、「理解して、互いの良い所は尊敬しましょう」と先生が教えなければ、何も始まらないわけである。

  ITはますます発達し、外国人との付き合いも増える今後は更に日本も愛が必要になると。愛のない社会や国は滅びると思われる。国が滅びたら、どうなるだろうか。...。


ヴィーガンの続き

2020-10-30 11:02:19 | 日記
「今の(世界の)畜産は、第二次世界大戦の時の(食料や武器の)大量生産の延長。それ故に生命の視点はない」という以下の文の貴重なコメントを(フェイスブックで)頂きました。その人にまずは感謝します。
  そう言えば、友人が見せてくれる鶏や豚の畜産場を見ると、僕は何故かハンセン氏病療養所を思い出してしまう。イヤな気分にもなります。成程ねえ。以上の側面が畜産関係にあるのならば、共通していますから。
  日本に限らず、第二次世界大戦までハンセン氏病にかかった人達が隔離され、死ぬのを待つなかった状態になったのも、各国共、「兵隊になれないハンセン氏病患者は隔離され、早く死ね」という世間、役人、政治家たちの意識があったからかもしれないから。厄介な事に、今更検証はできませんが。そこに、独特の顔の姿や、他の身体障碍に先駆けで障害の原因がライ菌である事が特定されたから、狙い撃ちされたと。この件でも「命の視点」が欠落されていた点には変わりがないし。
  ポスト資本主義は命の文明になって欲しいものです。


ヴィーガン考察

2020-10-29 13:27:37 | 日記
ヴィーガン(菜食)はヨーロッパとアメリカから始まり、日本などの東アジアでは遅れてスタート。精進料理という伝統があるのに。その理由を考えてみましたが、理由の一つは以下ではないかと。
 ヴィーガンも「ポスト資本主義」現象の一つではないかと考えられます。ヨーロッパとアメリカは非常に早くから資本主義が発達したため、その住民たちは資本主義の限界もかなりがすでに知っており、新しい生き方の模索がかなり前から起きており、その一つに食べ物関係のヴィーガンになったと。「資本主義は搾取経済。良くない。ならば、動物の命を搾取する肉食も良くない」と考えて。例えば、資本主義が始まった時期のイギリスでビーフステーキが食べられ、明治期の日本で牛鍋が食べられ始めたように、経済と食べ物は複雑に絡み合っているわけだから。
 以上の説が本当ならば、すでに世界でポスト資本主義の動きは始まっているし、当然ながら、経済構造や福祉にもこれからその波が押し寄せ、社会は激変するわけですが。食べ物だけに終わらないでしょう。

日本の教会と軍隊奉仕

2020-10-28 10:08:38 | 日記
先日、抽象論を言う人たちの事が理解できなかった事や、抽象論の根はエゴではないかという推察も書いたが、僕が今まで見聞きした社会の中で、抽象論が一番ひどかった所は僕が行った教会関係である。新約聖書を読めばわかる通り、イエスの話は具体的で判りやすいが、そこは牧師の説教も、役員や信徒たちの話も極めて抽象的。反復再現もできないだけのものだった。当然、仲間同士の話も理解不可能。恐らくは、自分の言っている事も判らないのではないかと。話も通じ合えないのならば、「セックスしか結ぶものはない」という事にもなってくる。また、抽象論の根=エゴならば、その教派もエゴに満たされている事にもなる。


  さかのぼると、その教派も戦前は旧日本軍に奉仕してきた。それも明治期からである。任意で奉仕。すでに1894年の日清戦争の時は積極的に協力していたという。実際はそれよりもかなり前からだが、その時から数えて、約50年間も軍に協力したわけである。戦争は国家や民族のエゴは勿論、人々のお金や物質的な欲望・エゴも複雑に絡み合って起きるものだから、軍や戦争に奉仕しているとその教派はたくさんのエゴに満たされたものになってしまうのではないか。無論、反戦を唱える者もたくさん出たと思うが、「軍に奉仕」の大勢にかき消され、無視され、歴史の闇に消されたようである。同時に、軍は男中心でもあるので、奉仕した教会もそうなり、女性差別にもなってくる。1945年の敗戦で軍への奉仕は終わったが、「エゴに満たされる・女性差別」の体質は簡単には終わらないだろう。戦後もずっと受け継がれ、組織エゴ、男性エゴに凝り固まり、そこにたまたま性欲の強い体質の男牧師が二人現れ、レイプに至ったのではないだろうか。また、その内の一つは、牧師会が隠ぺいしようとした。まさに、組織エゴである。エゴで成り立っているのならば、抽象的な話や説教にもなると。

  因みに、今、朝日新聞の朝刊の小説の「また会う日まで」には、戦前の日本の教会と軍との関わりが述べられている。すでに二つの教派が実名で書かれてあったが、何もその二つだけでもないと思う。多くの教派がそうしたのかも知れない。貴重な小説である。

  もう一つ。日本のプロテスタント関係は戦争関係は太平洋戦争と昭和天皇の戦争責任論に集中しているが、それらはほんの一部に過ぎない。「日清戦争以来」だろうし、それ以前の明治政府や資本主義の問題も掘り起こさないといけないわけである。明治とは何だったのか?が問われているわけだから。...。