トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

何故、人体実験みたいな事を述べるのか?

2019-08-31 10:45:13 | 日記
「自分が知ったから」である。それ以外の理由は存在しない。人体実験は元島田園生のM氏から、医療用麻薬投与の事は良識ある島田職員から聞いた。前者はそこの他、M氏が後年入所した千葉県の身障施設でもあったわけである。


  イニシャルで書いている事からも判るかもしれないが、M氏とは仲が悪かった。氏は一度も僕を友人だと思った事はない。それゆえ、「友人だから」という理由は成り立たない。でも、世間に伝える。

  「事実を知る事」は物凄い事であり、力である。放送大学の宣伝文句に「知は力」とあるが、まさにその通りである。僕が個人的に知っただけでも、感動をはるかに越えた、心の高揚と動揺が起き、島田にずっと目が向いたままだし、それを通して日本の明治以来の医学の歴史にも目が向いたわけである。僕個人だけでもそうならば、今のIT使えば、日本中は勿論、世界中にも広がり、本当に良い意味での社会変革にもなる。「社会改善」という言葉が良いだろうが。話は戻り、仲の悪い僕にもM氏は手術実験の話を2回してくれた。知の力は友情や仲良し関係の力をはるかに越えると今の僕は思うし、元々M氏はその事をよく知っていたようだ。確かに、「友人だから伝える」ならば、僕も同級生や元福祉会の人たちの事だけを書いているはずだが、そうしていないわけだし。因みに、知の力と友情が合わされば、相乗作用して、更に社会を変える力になるわけだが。


  勿論、知らない事や忘れた事は述べられないか、断片的な話し方しかできない。人体実験と麻薬の事を相次いで知った為か、それまでの僕にあっただろう、母校の光明養護学校の問題はかなり忘れてしまった。島田に意識が集中したため、結果的にそうなった。断片的には遠足の事などは覚えているので、子供向け随筆文には書けるが、昔の光明にあっただろう問題は書けないわけである。また、島田と同時に行ったハンセン氏病の多摩全生園の様子も、行っても意識が向けられず、結果的に何も知る事はなかった。そこでも島田の話ばかりしていたためだが。。ならば、知る事は意識の働きであり、知能能力みたいな事でもないと思うわけだ。余談だが、学校現場も生徒・児童の意識を向ける事に力入れたら、まともな教育成果にもなるのかもしれないと思う。

   そう言えば、アグネス・チャンはテレビでタイやフィリピンの児童買春の悲惨な様子を伝えている。それについて同じ事を言っている。「私はそのような悲惨な状態を知ってしまい、居ても立っても居られなくなりました。皆さんにも知って欲しいです。世界中の人々が知って,知って、知りまくれば、世界は変わり、買春もなくなると思うのです」。...。

更に思う事・世間ずれ

2019-08-30 12:56:04 | 日記
先に書いたものの補足だが、昔の島田療育園は園生児の心身の状態によって、部屋が分かれていた。僕が行った所は身障児者室だったが、その他に知的障碍室もあれば、植物人間みたいな者ばかりの室もあった。「島田に行くと、他への同情が薄れる」は事実だが、その心理的変化も行った室によっても違っていた。僕の場合は身障室ばかり行き、差別とか虐待、人体実験の事を特に聞いたので、他の差別問題に鈍感になり、その面の同情をしなくなった。「島田がこの世で一番差別されている」と思ったわけだ。一方、植物人間室にばかり行っていたボランティアの中には、他の身障者や元患者、盲人などを見ても同情しなくなった例もあるようである。「植物人間に比べれば、他の脳性まひ者やハンセン氏病元患者、盲人はマシだ」とでも思うようになったのだろう。僕もその室に一回行ったから、その人の気持ちも判ったわけだが。又、その人は「身障運動家たちは、身障と健全者の違いをよく述べるが、誰でも高齢になれば、体がマヒするから、その違いはない。身障運動家たちの話は判らない」とも述べていた。一時期とは言え、植物人間たちに向き合うと自然とそのような気持にもなるのかもしれない。


  細かな違いはあるが、島田に行った人達の感覚は世間ずれしたものがあるし、それゆえ、それを知らない人とケンカばかりした人や、自ら孤立した例もある。島田から離れて相当たってもそうであった。行く人が世間ずれ。ならば、島田に勤務していた職員たちの「その後」はどうだろうか。僕は知る方法もないが、気になる事でもある。

「40年ぶりに果たせた大任」を書いて想う

2019-08-30 11:06:18 | 日記
書いた後、まず思った事は、島田療育園関係では、「神・歴史・M氏に与えられた任務を淡々とこなす」だけで僕は良い事です。これから実録小説は非常に難しい事がいくつも出てきます。特に、「人体実験」の事は。でも、以上の延長ならば、書けるでしょう。逆に、例えば、M氏の気持ちの変化を書くとか、余計な事はしてはいけないとも思います。余計な事をするくらいなら、何もしない方がマシでしょう。


  多くのボランティアや身障運動家たちの例を思い出すと、島田に一度でも行くと、同情心みたいな事がマヒするようです。僕もそうでした。島田以外に、苦しんでいる人や差別された人たちを見ても、「島田よりもマシじゃないか。大した事ない」と思う。僕もそうでしたが、ハンセン氏病療養所に行っても、島田経験者のかなりが差別などについて「島田よりもマシだ」と思うわけです。反応は二つに分かれていました。気が合う元患者と出会った場合はそのまま楽しく付き合う。同情のフィルターがないわけですから、すぐ仲良くなれる。でも、細かい面は絶対に見れない。何故なら、普通はハンセン氏病に問題意識を持ち、同情しつつも元患者さんと付き合い、話を聞き、理解していく。同情➔理解のパターンらしいです。同情が理解のきっかけになる。でも、そのきっかけとなる同情がなければ、いくら長く付き合い、話を多く聞いても、上べしか理解できないわけです。僕もそうでしたし。相互理解はムリでした。それから、気が合う元患者と出会わなかった場合は、そのまま療養所を止めています。

聴覚障碍者の訴えを聞いても同じです。僕自身もそうでしたし。聴覚障碍者は独特の差別がありますが、そのような人と付き合っている時は「島田の方がひどい」と思った。他にも同様の例がかなりあった。そのような一人と縁が切れた後、僕も聴障者の大変な状況の事に気が付いたし、同じ事を言っていた元ボランティアもいます。因みに、その耳の聞えない一人は島田も訪問しましたが、「聞こえなかった」せいでしょう、関心は持たず、すぐ止めています。聞えなければ、苦難の情報も入らず、何も判らない。仕方なかったと思います。

  そのようなわけで、元島田訪問者たちは大体視野が狭くなっています。でも、僕はその直後に、別の会で、暴力性精神障碍を持つX君と付き合い、そこからその件の大変さと精神病院の残酷さも知った。その二つは島田療育園よりも更に悲惨で、閉鎖的。平和な時は最も差別された存在なので、その方にも目が向き、視野が狭くなるのは食い止められたようです。X君と付き合って良かったし、X君本人とその会の仲間たちに深く感謝しているわけです。




「40年ぶりに果たせた大任」を書いて想う

2019-08-30 11:06:18 | 日記
書いた後、まず思った事は、島田療育園関係では、「神・歴史・M氏に与えられた任務を淡々とこなす」だけで僕は良い事です。これから実録小説は非常に難しい事がいくつも出てきます。特に、「人体実験」の事は。でも、以上の延長ならば、書けるでしょう。逆に、例えば、M氏の気持ちの変化を書くとか、余計な事はしてはいけないとも思います。余計な事をするくらいなら、何もしない方がマシでしょう。


  多くのボランティアや身障運動家たちの例を思い出すと、島田に一度でも行くと、同情心みたいな事がマヒするようです。僕もそうでした。島田以外に、苦しんでいる人や差別された人たちを見ても、「島田よりもマシじゃないか。大した事ない」と思う。僕もそうでしたが、ハンセン氏病療養所に行っても、島田経験者のかなりが差別などについて「島田よりもマシだ」と思うわけです。反応は二つに分かれていました。気が合う元患者と出会った場合はそのまま楽しく付き合う。同情のフィルターがないわけですから、すぐ仲良くなれる。でも、細かい面は絶対に見れない。何故なら、普通はハンセン氏病に問題意識を持ち、同情しつつも元患者さんと付き合い、話を聞き、理解していく。同情➔理解のパターンらしいです。同情が理解のきっかけになる。でも、そのきっかけとなる同情がなければ、いくら長く付き合い、話を多く聞いても、上べしか理解できないわけです。僕もそうでしたし。相互理解はムリでした。それから、気が合う元患者と出会わなかった場合は、そのまま療養所を止めています。

聴覚障碍者の訴えを聞いても同じです。僕自身もそうでしたし。聴覚障碍者は独特の差別がありますが、そのような人と付き合っている時は「島田の方がひどい」と思った。他にも同様の例がかなりあった。そのような一人と縁が切れた後、僕も聴障者の大変な状況の事に気が付いたし、同じ事を言っていた元ボランティアもいます。因みに、その耳の聞えない一人は島田も訪問しましたが、「聞こえなかった」せいでしょう、関心は持たず、すぐ止めています。聞えなければ、苦難の情報も入らず、何も判らない。仕方なかったと思います。

  そのようなわけで、元島田訪問者たちは大体視野が狭くなっています。でも、僕はその直後に、別の会で、暴力性精神障碍を持つX君と付き合い、そこからその件の大変さと精神病院の残酷さも知った。その二つは島田療育園よりも更に悲惨で、閉鎖的。平和な時は最も差別された存在なので、その方にも目が向き、視野が狭くなるのは食い止められたようです。X君と付き合って良かったし、X君本人とその会の仲間たちに深く感謝しているわけです。




40年ぶりに果たせた大任と、M氏の運命の不条理

2019-08-29 10:49:05 | 日記
M氏とは、島田療育園の男性元身障園生。出会って間もなく、僕に手記文を下さった。内容の核心は、「(1977年から)数年前、私は脳のロボトミー手術の実験台に選ばれた。当日、仮病で難は免れたが、代わりの女子園生の一人が選ばれ、そのまま実験された。その女性は体が悪くなった」というもの。(手術受けた女性の体の変化の様子の記述はなし)。又、「罪をその女子園生に感じている」。


  悲痛な声を世間に伝えて欲しいと僕に明らかに頼んだわけだ。M氏の僕への願いはそれだけだと言って良い。例えば、自分の好きな歌とか、好きなスポーツの話は一切しなかった。親睦や交友は希望していなかった。慰問も。その立場からすれば、当然だろう。気持ちは昔の僕にも判っていた。

  でも、当時の僕の人脈は狭かったし、伝える方法も会合に手記文を持っていく事しかなかった。当時は自分に小説が書けるとも全然思わなかったし。それでも当時としては手を打った。当時、よく行っていた富士福祉事業団の事務所兼会合場所にはコピー機もあるので、手記をコピーし、その場所に置いて来た人たちに自由に読んでもらったり、また、所属会のメンバーに配ったり。限界があった。別の園生関係の大きなトラブルに巻き込まれ、手記どころではなくなり、そのままうやむやになり、気が付いた時は紛失もしていた。でも、核心部分はちゃんと覚えていた。

   ITが発達し、ブログも、フェイスブックもある今の時代になり、やっと広められるようになった。また例の実録小説を書き始めて、島田療育園の問題が初めて客観的に見る事ができるようになり、世間に説明できるまでになった。これが一番大きいと。もしも、1977年にITがあっても、広める事はできなかったと思う。

  40年ぶりに、M氏からの大任を成し遂げ始められたと思います。

  そのM氏ですが、1982年でしたが、島田療育園を退園。一時は下町地区の家で在宅生活。でも、87年ごろ、千葉県の施設に入所。そこでまた「実験的手術」。そこは見てたの良い医者がいて、仮病も使えず、そのまま受けた。そこで氏からの便りも途絶えました。僕が氏について語れるのはここまで。僕は本人ではないので、氏の気持ちはここでは書けません。一旦は実験手術から逃れられたのに、同じ運命が行った先に待ち受けていた。実験手術は何も島田療育園だけでもないのです。更には、施設関係だけでもない。世界的に精神病院が一番多いはずです。他、誰でも病気やケガになり、入院すると人体実験台になり得る。全ての人達の問題なのです。考えてみて下さい。