トシコロのありのままの暮らし


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第5章を公表するにあたって、考え込んだ事

2018-08-31 13:56:01 | 日記
  初期S園=小説名.シマハタの様子は77、8年に職員や、三浦氏という身障園生の証言を基に僕なりに再現してみたわけです。「我が子のように愛せよ」と言われた事は事実です。また、一職員から「職員としての私の幸せは、園児たちの楽しみを我が喜びとする事。お母さんみたいに」とも聞いています。これが聖書の愛だと信じ込んでいた職員や後援会の人たちも多かったわけです。「(小説名)林田博士からそのように教えられた」との職員の証言もありました。


  ところが、旧約・新約聖書には「己の如く、隣人を愛せよ」とありますが、「我が子のように」とは書かれていませんね。それどころか、旧約聖書の、神がアブラハムに息子を差し出せと言った事や、イエスが新約聖書の至る所で、父母への愛を相対化する事が書かれているなど、キリスト教と矛盾さえする事である事が今の僕には判っています。そのままストレートに述べたら、世間に聖書への誤解を広めかねないし、この場面を描かなければ、後の話の展開はできず、そのまま中止にもなります。困ったものだと思い、一ヶ月間、考えこんでいました。そして、改めて新旧聖書の親子観を見てみようと聖書を読み、注釈を付ければ良いと思い、そうしました。

   思うに、林田博士は医者として忙しく、じっくり聖書を読む暇もなかったから、愛の事も誤解した面はあると思います。また、どういうものか、日本人のクリスチャンには同様の誤解をする例が多い。母性傾向が強い日本社会の風土がそうさせるのでしょうか。遠藤周作氏が追及したテーマでもありますね。でも、母性愛だろうが、父性愛だろうが、人間のする愛には違いなく、それも非常に狭い身内に限られた愛でもあり、愛の対象に対しては平等でもないわけです。親子愛的なものには限界があります。シマハタの問題の非常な大事な点でもあるわけです。それは「今後」に深く絡みます。

 

実録小説・シマハタの光と陰・第5章・シマハタ療育園開園式

2018-08-30 13:44:45 | 日記
  1961年(昭和36年)5月。多摩の丘に風薫る日、開園式を迎えた。名前は「シマハタ療育園」と林田博士自らが付けた。島畑親子を記念しての命名である。林田博士、島畑尚三郎氏はもちろん、看護職員、園児となる多くの障碍児とその父母、後援会の人たちが集まって、神主のおはらいで、開園式。プロテスタント信徒でもある林田博士だが、他の宗教には寛容な考え方である。


  鉄筋コンクリート造りの小さな建物が二つできていた。各種障碍児用の施設と、職員たちの住宅である。障碍児は全国から集まり、百人はすでにいただろうか。多くの祝電も発表された。中には国会議員の激励の声もあった。後援会関係者、父母たち、看護職員と挨拶は続き、島畑尚三郎氏が深い感謝の内容の式辞を述べ、最後は林田博士が「今後の運営決意」を込めた式辞を述べた。

  式の後は職員たちは障碍児を各部屋に連れて行った。身体、知的程度に部屋は分かれていたが、園児たちの雑居状態である。

  

  出席者への挨拶を済ました後、林田博士は園児たちがこれから暮らす各部屋を注意深く見に行った。その障碍児たちを見て、

  「みんな、可愛い」と微笑みながら林田博士は言った。あと、職員たちを前に

   「園児たちを我が子だと思って、愛してほしい。これがシマハタの鉄則だ。 イエスの説いた愛だ。この事はこれから私は繰り返し言う」と訓示を述べた。(著者注釈参照のこと)




  職員たちはうなずいた。中学を出たての若い女性も多かった。8割方は女性だった。キリスト教信仰を持つ女性もかなりいた。NHKなどの放送関係や、教会関係で募集の話を聞き、障碍を持つ子供たちの世話をする決意を持ち、職員に応募したわけである。とは言え、人出不足には違いない。

  「もっと人出を大々的に集めないといけない。資金カンパも」と林田博士は独り言をつぶやいた。

  

   宴は終わり、多摩の光景はいつの間にか、夕暮れになっていた。カラスが鳴きながら、寝ぐらに急いでいた。園児たちは夕食後、テレビを少し見た後、親から離れた第一夜を迎えた。ぐっすり眠る子もいれば、興奮して寝付けない子、母恋しさの余り、泣きだす子もいた。「ママに会いたいよ」と泣く体の不自由な子たちを夜間担当の若い女性職員たちが「私がママですよ。歌をうたいましょう。げんこつ山のタヌキさん、おっぱい飲んで...」となだめる光景が初日から繰り広げられた。こうして、シマハタの日常は始まった。

   (著者注.聖書によれば、イエスは「己の如く、汝の隣人を愛せよ」と説いた。我が子のように愛せよ、とは聖書に書かれていないわけである。新約聖書の土台である旧約聖書・創世記22章には、神がアブラハムに「息子を生贄にさし出せ」と命じる場面がある。新約でも、例えば、マタイ福音書10章37には「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない」とあるなど、ユダヤ・キリスト・イスラム教の根底には、親子愛の相対視が流れている。十戒の一つの通り、父母にはただ「敬え」としか述べられていないわけである。確かに、「我が子だと思い、愛せよ」はシマハタにあった伝統であり、林田博士自らがそのように指導したわけだが、聖書の教えからは逸脱しており、どれだけキリスト教を理解していたのかは、疑問である。もっとも、遠藤周作氏などによれば、「日本人クリスチャンは神に母なるものを求める傾向が強い」そうだから、林田博士の信仰心の問題であると共に、日本人クリスチャン、更には、母性傾向の強い日本社会全体の問題であるとも思われる。シマハタの根底にある母子愛絶対思想も、以後は物語展開に深く影響していくわけである。以上、参考文献.聖書.日本聖書協会編)

昔のS園職員の結婚問題

2018-08-28 17:04:46 | 日記
  園生の結婚問題はこれまでも述べ続けているが、昔のS園の職員たちの結婚問題も厳しいものがあったし、昔の日本の福祉関係全般に言えた事である。昔の僕もS園でもこの件についても考えこんでいた。「男性職員も低賃金だから」と言われていたが、その他に介護の仕事が忙しく、異性となかなか出会えない面もあるから。それは今の介護やナース関係にも言えるが。
今日は詳しく書かないが、その辺の問題も実録小説では述べたい。また、職員は園児・園生の介護に捧げた反面、大人の園生を子供扱いし続けたという問題もあった。例えば、かつてのボランティアも身障者などを子供扱いしていた面もあったが、それとも違うようである。S園の子供扱いの方がはるかに根が深く、僕もそのニュアンスを感じ取っていた。やがて小説にも書くが、S園では、親子愛が全ての規範になっていたわけだ。「我が子のように園児を大事にしなさい」という。そこが以上の根本原因だった事に40年掛けて気が付いているし、愛にも種類があり、親子愛よりも高度な愛を本当は誰も目指さないといけない事もS園の挫折から僕も学んでいるわけである。


  

知的障碍者の中国戦線

2018-08-27 11:19:54 | 日記
  25日午後11時からETVで放送された「シリーズ戦争・隠されたトラウマ」を見ました。再放送は29日24時=30日午前0時ですから、見ていない人は見るなり、予約録画なりして下さい。


  戦争で精神障碍を持った日本兵の悲惨な記録ですね。僕が一番印象的だったのは後半に出てきた、「知的障碍を持った人たちも徴兵されて、戦場に行かされた」事でした。岡山県の農村で家族の農業を一緒にしていた知的障碍を持つ人が戦争に行かされた。彼は自分の誕生日も判らないだけ、その障碍が重度でした。当然、戦争の事も理解できるはずもなく、戦場で銃弾や砲弾が飛び交う恐怖から精神障碍も併発し、後も農業もできなくなり、人生を棒に振るようになったわけです。その他にも、戦場に行かされた知的障碍者は多く、戦況が日本にとって悪化していくと、そのような例は増えたとか。それだけ日本は兵員不足にもなっていたわけですが、ならば、戦争の持つ残忍さとは別に、日本は戦争遂行がムリだったわけでもありますね。何故、遂行をし続けたのでしょうか。また、当時の軍人たちはムリである事が何故判らなかったのでしょうか。何事にも思うわけですが、ムリな事を強行する事も罪なことですね。「知的障碍者も戦場に行った」ことを知り、僕は呆れました。

   戦争で精神障碍を持った多くの元兵士たちの件と共に、知的障碍者の徴兵の問題も後世に残さなければなりません。番組では紹介されませんでしたが、後のベトナム戦争ではアメリカ兵が、アフガニスタン戦争ではロシア兵が、その多くが精神障碍を持ったり、麻薬に走る・人を殺す癖も付き、大変な問題になりました。勿論、侵略された地の中国、ベトナム、アフガニスタンでは精神障碍を持った人たちはもっともっと多いわけです。侵略された国々では、民間人の方が精神障碍を持つ例が多かった事も察せられます。どうしてもマスコミ報道は足りない面も出てくるため、以上も付け加えさせていただきました。

非常に重度の身体障碍を持つ者の結婚生活と、日本に住む人たちのより幸福な結婚生活

2018-08-20 13:56:12 | 日記
  まず、前者だが、夫婦二人にこもらず、開かれた家庭・夫婦を作る事である。ヘルパーさんやサポーターも入り込みやすくするように。特に、身体障碍の重い例ほど、そのような事が必要である。夫婦のどちらかが身体健康であったとしても、物理的に一人で介護の重荷を背負えるものでもないだろう。また、物理面以上に、精神的に双方が気持ちが狭くなり、息も詰まり、心の面ではもっと耐え切れないものである。プライバシーに触れるので詳しくは書いてはいけないが、身障者同士にしろ、片方が身障、もう一方が健康な人の夫婦の離婚例を僕はこれまでたくさん見てきた。個別的な問題とは言い切れない深い問題がある気がして仕方なかったが、以上だった。「愛、あなたと二人」という歌の文句の通り、戦後の日本のほとんどの人たちは、夫婦二人だけ、又は、夫婦と子供だけの狭い城みたいなものを作る事をイメージングしているが、どうも身障者たちも同じ例が多いようである。でも、冒頭の通り、物理的に見ても、身体障碍の重い人ほど、結婚は難しい事にもなるわけである。更に、精神面はもっと難しいと。


  でも、よく考えたら、それは何も身障者関係でもなさそうである。まず、「物理面」は高齢者にも言えるわけである。説明するまでもないだろう。

  「精神面」は本当に全ての夫婦に言える。好き・好き・好きで結婚した夫婦でも、「愛、あなたと二人」を数年続けると、気持ちが狭くなり、息も詰まり、お互いにイヤになってしまうものである。そして、ケンカ多発や離婚。近年は子供がいても、離婚になる例も多い。僕も、健全者の離婚経験者の話も方々で聞いている。例え、打ち込める仕事や社会活動を持っていても、夫婦の狭くなった状態には耐えられないようである。

  アメリカでは、気の合う仲間たちが持ち回りでパーティをやりながら楽しく過ごすなど、「開かれた夫婦・家庭」という伝統があるが、日本では、そのような習慣はないし、住宅の狭さからそれは難しい。何もアメリカの真似をする必要はないが、夫婦で社会に目を向けて、時には一緒にフェイスブックで発言を書くとか、した方が良い気がする。また、健康な者同士の夫婦でも、友人や親せきの人たちが入り込みやすい雰囲気を作る事も大切だろう。

  最後に、日本も元々は大家族制社会で、江戸時代以前は一族の利益ばかり追求していた。それが封建制も支えていたようである。明治以降も名目は「天皇の下の平等」になったが、実際は大家族制社会で、イエごとの閉鎖社会だった。結婚の自由もかなり制限されていた。戦後は大家族制は消えたが、その「狭さ」は残り、「愛、あなたと二人」になり、マイホーム主義にもなったと。それも封建制の遺物かもしれないと、最近の僕は考えるようになっている。そして、特に歴史的に虐げられてきた女性たちの中から「結婚はいやよ」という発想も出てきている。そのような発想になるのもムリはないが、但し、愛のない生活も寂しく、人間として耐えきれるものでもないだろう。でも、「夫婦・結婚生活の内容」を変えていったら、結婚嫌いの女性たちの発想も変わり、今の夫婦たちも不和や離婚にならずに済む事が考えられる。開かれた家庭ならば、子供たちの社会性も早くから身につくと僕は見ているが。

   無論、過去は変えられないが、もし、以上の通りの開かれた結婚や家庭が当たり前の社会ならば、僕の結婚も非常に早かったし、僕と出会ったS園の3人の園生たちも好きなだけ愛が生まれ、結婚できたろうにとも思うわけだが。特に、身障者との「狭い結婚生活」を想像すると、それだけでしんどくなるような人たちもいるようだし。40年前は福祉関係で「施設の社会化」が叫ばれたが、今は結婚や家庭も社会化する必要があるように僕は思う。